Bad Boys (1)
立ち上る紫煙が曇天に紛れていく。胸の高さほどに設置された手すりで、鴉が呑気に歌っていた。屋上が悪ガキのサボりに使われるのも、人間の世界と同じらしい。ワッチが胡坐をかいて、ぼんやりと鴉の歌を聞いている。岩石のような巨躯と厳つい相貌に似合わず、どこか心許ない表情を浮かべていた。
「なあ、ヨル……」
遠慮がちに口を開いたワッチを、寝そべって煙草をふかしていたヨルが気怠そうに見上げた。
「やっぱり、授業をサボるのは拙いんじゃあないか?」
「ア?何で?」
ヨルがギラリと目を光らせる。巨岩はその視線に逡巡しつつ、訥々と言葉を連ねる。
「だってよう、あの先公、なんだか、普通のニンゲンとは何かが違う気がするんだよ。アイツは……」
言いかけた言葉を、ヨルが遮った。
「どーせ一緒だっつーの。クラスの連中だって、変わったニンゲンが来たもんだから、物珍しくて食いついてるだけだろ。どーせすぐに飽きる」
「そうかなぁ。でも、それによう……何だかこの感じだと、俺たち、その……負けたような気がしねえか?」
「ア?何だよ、負けたって」
ヨルが再び目を光らせ、煙草を力任せに揉み消した。
「いや、そのぅ」
ヨルは言葉を詰まらせたワッチを訝しげに見ていたが、「ケッ、勝手にしろや」と吐き捨てて目を閉じてしまった。鴉が歌に飽きて飛び去っていく。ワッチはそれをぼんやりと見つめていた。
※
ワンコードのファンク・リフが教室に響いていた。平は一時期ナイル・ロジャースにどっぷりと私淑していただけあって、その切れ味は鋭い。
「a、a、ア、ア、agony(苦痛)!!」
「a、a、ア、ア、アゴニ―!!」
「b、b、ブ、ブ、brutal(残忍な)!!」
「b、b、ブ、ブ、ブルータル!!」
強烈な縦ノリのグルーヴに乗せたフォニックス授業が展開される。生徒が好みそうなドス黒い単語を厳選した甲斐あって、反応は上々である。名付けて"evil phoenix" ……というのは平だけの秘密である。
「c、c、ク、ク、cruel(残酷な)!!」
「c、c、ク、ク、クルーエル!!」
生徒たちは楽しそうに平の真似をしているし、平も楽しく授業が出来ている。だがやはり、二つの空席を気にしないわけにはいかなかった。
あれから三日間、ヨルとワッチの二人は英語の授業に出席していない。どうやら他の授業には出ているようだが、平が教室へ来た時には雲隠れしてしまっている。
「そんなもん、放っといたらええんですわ。そのうち淋しゅうなってノコノコ現れますよって。それに、無理矢理出席させて、また暴れでもされたらどんなりまへんからなぁ」
相談を持ちかけた平に、滑瓢はあっさり言ってのけた。教頭ともあろう者の言葉とは思えないが、彼の言うことは尤もなのだ。無理矢理にしょっ引いて納得する奴らでもないし、そもそも平の腕力ではしょっ引けない。それに滑瓢は、音楽を取り入れた授業は評価していたものの、平の生徒指導能力には少なからず不安があるようだった。初日のムージーの騒ぎや初回授業の印象を引き摺っているのだ。平には、それが歯痒かった。彼自身、自分の生徒指導に自信があるわけではない。もし授業中にワッチが暴れ出したら、腕力に頼らずそれを上手くいなすだけの技量もノウハウもない。しかし、だからこそ……
――今のうちに何とかしないと……
「z、z、ズ、ズ、ゾンビ―!」
元気いっぱいに復唱している生徒たちを眺めながら、平は決心した。
※
「えー、テストー?」
「き、聞いていないでありますよ」
「……ダルすぎ……」
三人娘の悲鳴が響き渡る。
「いいかい、楽しくやるのは大切だし、僕だってずっとワイワイやっていたいのは山々だ。だけど、学んだことがどれだけ身に付いているのかを確認しないと、いつまでも同じことを繰り返さないといけない。ずっとずっとABCじゃ詰まらないだろう?」
ナナが膨れっ面を作って見せた。
「えー、別にずっとABCで良いよ。タイラのギターで踊りたーい」
無邪気な誉め言葉に、平は思わず頬を緩めた。
「ま、まあ、そう言ってもらえるとありがたいが……」
「ナナ君!」
突然、ガタリと椅子のずれる音が響いた。見ると、ガサブロウが立ち上がっていた。
「な、何よいきなり……」
不意打ちを食らって、ナナがぽっかりと口を開ける。
「先生の仰る通りだぞ。何事においても効果測定というものは大切なのだ。古の偉人、殷の孔子も言っているだろう。学びて及ばざるは過ぎたるがわろし。及びて学ばざるはカラスミの如し!」
惜しい。いや、全然惜しくない。平は冷静に訂正を入れる。
「ガサブロウ、それは学びて思わざるは即ち罔し、思ひて学ばざるは即ち殆しだろう」
「ああ、そうとも言いますね」
「あと孔子は殷の人じゃないぞ。周の末期に魯で産まれた人だ」
「ああ、その孔子もいますね」
「というか、その言葉は別に効果測定とは関係なくないか?」
ガサブロウはしばらく考え込んでいたが、ナナの呆れたような溜息に少し焦ったようだった。
「と、とにかく、テストはやるべきだ。ナナ君の実力を存分に示す時だぞ」
突如として、ナナの目が輝く。
「あ、アタシの実力を……示す? やる! テストやる! 天才ナナちゃんの実力を存分に示す!」
「単純すぎでしょ……」というクーちゃんの呟きは聞こえなかったようで、ナナはすっかりその気になっていた。
――よかった。ガサブロウ、完全なる怪我の功名ではあるが、とりあえずグッジョブ。
平は心の中でガサブロウに親指を立てた。ガサブロウはクイと眼鏡を押し上げると、何事もなかったかのように着席した。
アルファベットのテストを配り終え、開始の合図をすると、何だかんだで生徒たちは必死に書き込み始める。その様子を見届けると、平はこっそり教室を抜け出した。目指すはあの二人がいるであろう屋上。彼らが授業をサボってそこにいることは、滑瓢から聞き出していた。
教師にとって、授業中、それもテスト中に教室を抜け出すのが好ましくない行為であることは言うまでもない。他ならぬ平にとっても後ろ髪を引かれる行為だ(事実、このとき事務員のウシロガミさんが平の襟足を引っ張っていたのだが)。カンニングなどの不正が行われないか監視するのはもちろん、机間巡視で生徒の理解度や躓いている箇所を観察するのは、テスト実施中における教師のマスト・ミッションである。
しかしながら、平にはこうする外なかった。休憩時間で話し合うには時間が足りないし、昼休みや放課後になると、かの二人は何処かへ雲隠れしてしまう。それも屋上ではなく、滑瓢も彼らがどこにいるのかは知らないようだった。平は試しに一度だけ放課後の屋上に突撃したが、やはり彼らの姿を見つけることは出来なかった。
否、それは場当たり的な言い訳に過ぎないのかもしれない。
平は焦っていたのだ。
生徒たちの変化を目の当たりにしながら、手を打つことが出来ずに状況を悪化させてしまった苦い経験。このままではあの時と同じことになるのではないか。二人が捕まらないからとか、授業は抜けられないからとか、尤もらしい理由で手をこまねいている内に、彼らの心は取り返しがつかないほど遠くへ行ってしまうのではないか。そんな焦燥が、平を突き動かしていた。
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