Hot For Teacher (1)

 音楽室は校舎の最上階、四階にあった。日なたと埃とニスの混じった、どこかしら酸っぱい匂いが平の鼻をつく。そういえば音楽室ってこんな匂いだったな、などと懐かしみながら、平は足を踏み入れた。後方の壁に、古びたアコースティックギターが何本かと、黒いストラトキャスタータイプのエレキギターが一本だけ掛けられている。平はエレキギターを手に取り、顔をしかめた。ずっと放置されていたのだろう。うっすらと埃を被り、パッと見ただけでも酷い状態だ。ネックは反り、チューニング・ペグは錆び、ナットは恐ろしく黄ばんでいる。弦は切れていないが、酷く錆びている。

 さすがにこの状態では弾けない。平は他のギターを見て回る。が、アコースティックギターは輪をかけて絶望的な状態のものばかりで、とても素人が調整できる代物ではなかった。

 音楽室と扉を隔てて一続きになった部屋に入ると、古びた楽器ケースや楽譜、譜面台などが乱雑に積まれていた。いわゆる音楽準備室というやつだろう。平は埃塗れになりながら準備室を探し回り、ようやく替えの弦を見つけた。取り出してみると、少し錆は出ていたが、何とか使えそうだ。ついでに調整用の六角ナットと雑巾を調達すると、音楽室に戻った。


   ※


   数年前 某ライブハウス


 つい先刻までの喧騒が嘘のように、ライヴハウスは静けさに包まれていた。照明に焦がされた埃と誰かがこぼしたビールの臭いだけが微かに漂っている。平は誰もいない客席に立ち、ハイライト・メンソールの紫煙を燻らせながら、伽藍堂となったステージを見つめていた。

 一年前、この小さな箱で店長に見初められ、定期的にライブをするようになった。始めのうちはタダでもチケットの捌けない日々が続いたが、ステージをこなす毎に客席が埋まるようになっていた。

 店長も元バンドマンで、インディーズバンドとしてはそこそこ名の知れた存在だったらしい。当時のよしみで、音楽業界に顔も利いた。実際、平のバンドもその伝手で地元の小さな音楽フェスに出演させてもらったことがある。

 そして今度は、とあるメジャーバンドの前座に推薦してくれるという話が持ち上がっていた。音楽で食っていくなどという大言を吐いて大学を中退してから三年、ようやく巡ってきたチャンスだった。

――絶対に、このチャンスをモノにしなきゃ……

 平は煙草を揉み消すと、店長奢りのビールを呷り干す。ぐっと拳を握りしめると、カウンターに座ってラップトップに向かっている店長の元へ向かった。

「店長、お疲れ様です!」

 店長は画面から酒灼けした髭面を上げると、いかにも人の善さそうな笑顔で手を振った。

「おう、お疲れ。今日も良かったよ」

「ありがとうございます。ところで……」

 一瞬その話題を振るべきか迷ったが、平は思い切って話を続けた。

「その、前座の件なんですけど、話はどんな感じになってますか?」

 一瞬、店長は眉を歪めた。

「ああ、その件だけどね……」

 歯に物が挟まったような物言いが、平に一抹の不安を覚えさせる。

――え?何?大丈夫だよ……な?

「いや、俺はお前らのバンドを推してたんだぜ。だけど、ヘッドライナーがどうしてもって言うからさ。前座はOPANTIS OMANTISに決まったよ」

 平の視界が急激に暗くなっていく。

――嘘だろ……しかも、よりによってあんな奴らに……

 OPANTIS OMANTIS、略してオパオマ。平のバンドとほぼ同時期に結成されたバンドだった。下ネタ満載のお下劣ソングが売りで、演奏技術はお世辞にも高いとは言えず、勢いだけの同じような曲調ばかり。平は彼らのことを心の底から見下していた。

「どうしてあんな下手糞が? それに、メインアクトと音楽性が全然違うでしょう?」

 食いかかってくる平を掌で宥め、店長はいかにも心苦しそうな表情を作った。

「仕方ないだろう。俺は推薦するだけで、飽くまで決定権があるわけじゃない。それに、ヘッドライナーがやけにオパオマを気に入っててな」

「どうかしてる。あんなコミックバンド紛いの悪フザケを気に入ってるなんて。俺たちの方が上手いのは明らかなのに!」

「ああ、そうだな。お前らの方が演奏は上手いよ」

 店長の口調にどこか棘のある気がしたが、平はなおも食い下がった。引くわけにはいかなかった。

「じゃあ何で……」

「しつこいんだよ!」

 店長が突然立ち上がり、座っていた椅子が倒れる。突然の豹変に、平は思わず口をつぐんだ。

「ならハッキリ言ってやる。今現在、お前らよりも、その下手糞の方が人気なんだよ。集客力だって遥かに上だ。お前らはあのバンドを見下しているようだがな」

 平の顔から血の気が引いていく。あんなバンドに負けている? 俺たちが?

「な、何で……」

「お前らは確かに上手いぜ。だが、上手いだけだ。残念ながら、お前らのステージは詰まらないんだよ」

「は? 何ですか、詰まらないって。上手けりゃ客は喜ぶでしょ!」

「思いあがるな!」

 店長が再び声を荒げる。平は思わず口をつぐんだ。少しの沈黙のあと、店長は厳しい口調で続けた。

「あのな、お前らレベルで演奏が上手い奴なんざ、この世には星の数ほどいるんだよ。音大や芸大に通う連中を見てみろ。もとより才能の塊みたいな奴らが、毎日泣きべそかきながら努力してるんだ。奴らに比べりゃ、お前らの演奏技術なんてお子ちゃまレベルなんだよ。それをちょっと周りの奴らより上手いからって、ステージの上で仏頂面決め込みやがって。井の中の蛙もいいとこだぜ。いいか? お前らは芸術家じゃない。ただのバンドマンなんだ」

 平は俯いて、何も言わなかった。ギリギリと唇を噛み締める音だけが、静かに響いていた。言い過ぎたと思ったのか、店長は微かに溜息をつく。少し間を置いてから、幾分か口調を穏やかにして続けた。

「オパオマは確かに下手糞だ。曲も歌詞も酷いもんだ。だけどな、奴らはライブを楽しんでる。もう、音楽やってんのが楽しくて楽しくて仕方ないって顔してやがる。そういう顔で演ってると、客も自然と笑顔になってくる。こいつらのライブを楽しまなきゃ損だって気持ちにさせやがる。普通に考えてみろ。澄ました巧者面でやってる奴らと、見てるだけで楽しくなるような奴ら、客はどっちが見たいと思う? ロックバンドってのはそういうもんなんだよ。ライブってのはそういうもんなんだよ」

 その言葉は、天狗になった平に対する叱咤激励だったのだろう。自らが挫折した道を目指す後進に向けるからこそ、言葉も荒くなったのだろう。だが、その時の平には受け容れることが出来なかった。彼は顔を上げると、店長を睨みつけた。

「ふざけんな! 楽しんでる? 笑顔でやりましょう? くだらない! 幼稚園児のお遊戯会じゃねえんだぞ。ああ、分かった分かった。あんた、最初から俺たちを推薦する気なんかなかったんだろ? オパオマに金でも積まれて……」

 言い終わらない内に、平の左頬が高らかに鳴っていた。響き渡る余韻とヒリつく痛みの向こうで、酒灼けした髭面が悲しそうに沈んでいた。

 そのあと、平のバンドにチャンスが巡ってくることはなかった。自棄糞で良い曲が作れるはずもなく、ファンも離れていった。焦る気持ちが空回りして、バンドのメンバーとも諍いが増えた。ライヴの客足は伸びず、回数も減っていき、そして、一人が離れ、一人が抜け、平の大言壮語はバンドとともに霧散した。


   ※


 当時は理解できなかった店長の言葉が、今なら素直に受け入れられる気がした。いや、本当は分かっていたのだ。自分たちの演奏技術なんて大したことないことも、店長が本気で心配してくれていたことも、自分が本当はあのお下劣バンドに対して劣等感を抱いていたことも……

「こちらが笑顔で楽しんで作ってりゃ、食う方も自然と笑顔になるってもんだよ」

 小池さんの笑顔に、店長の赤ら顔が重なった気がしていた。


 なんとか弾ける状態にまでエレキギターの調整を終え、近くに転がっていた小さなアンプスピーカーにつないでみる。こちらも恐ろしくボロい代物だったが、すんなりと電源は入った。

――どうせこうなりゃ一か八かだ。思いっきりみるか……

 音を歪ませ、コードを一発掻き鳴らす。ノイズの混じったお下劣な音だったが、それが今の平には心地よかった。

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