Ramen Daisuki Koike-san (2)

 食堂は校舎を出てすぐ南側にある。天井の高い平屋建てで、広さは一般的な学校の食堂と変わらない。換気口からもくもくと湯気が立ち上り、近づくにつれて良い匂いが漂ってくる。

――鶏ガラスープ……か

 食欲など湧くはずがないと思っていた平だったが、その匂いに反応して大きな音を立てた自分の腹に吃驚していた。隣を歩く教頭が渇いた笑いを上げる。思えばここ数日、まともにものを食べていない。久々の食事に対する期待と芳しい香りのためか、平はほんの少しだけ元気を取り戻していた。

 正面中央にある入口から中に入ると、一丁前に大きな食券販売機がある。「初めてですよって、奢らせてもらいます」と、教頭が販売機に小銭を流し込んだ。どのメニューも値段は三百円。良心的だ。

 メニューは豊富だった。カツ丼、親子丼、ラーメン、スパゲッティ、カレーライス、サバの塩焼き定食、唐揚げ定食……etc.etc. すっかり腹の減った平はサバ塩焼き定食の大盛りを選ぶと、教頭に深々と頭を下げた。

 食堂を利用している生徒は多く、それなりに席は埋まっている。食券を置いて料理を待つカウンターにも数人の生徒が並んでいた。驚いたことに、厨房は恰幅のいい中年女性が一人で切り盛りしている。割烹着に三角巾、名札には「小池さん」とだけ書かれている。

――これだけの量を、たった一人で?

 平は驚いたが、小池さんの動きを見て納得した。恐ろしく手際が良いのだ。テキパキというよりも、華麗といった方が的確だった。一つ一つの動きに切れ目がなく、流れるような動きで、注文確認、調理、盛り付け、提供が繰り返されていく。

「へい、ラーメンお待ち!」

「へい、ラーメンお待ち!」

 次々に丼鉢が並び、生徒が嬉しそうな顔で運んでいく。

「へい、ラーメンお待ち!」

――どうやらラーメンが人気みたいだな。そういえば、鶏ガラスープのいい匂いがしていたもんな

 平は少し後悔していた。あらかじめ教頭に人気メニューを聞いておくべきだったのだ。それに、病み上がりの体には汁物の方が良いのではないか。だが、今さら変更するわけにはいかない。きっとサバ塩焼き定食だって美味いはずだ。

「へい、ラーメンお待ち!」

「へい!ラーメンお待ち!」

 いよいよ次が平の番だった。サバの塩焼きが調理されている気配は微塵もないが、そこは小池さんのこと。きっと見えないところで仕上げているに違いない。

「へい、ラーメンお待ち!」

 平の前に、ラーメン鉢がドンと置かれる。

――ああ、そうそう。これだよこれ。芳しい鶏ガラベースの透き通った醤油スープに中太の縮れ麺。その上をかすかに漂う鶏油の煌めき。チャーシューは二枚。メンマは数本。タップリの刻みネギにワカメにナルト。これでいいんだよ、これで。いよ! これぞ、ザ・醤油ラー……


……うん、違うね!


「あのう……」

 平は遠慮がちに厨房の中へ声を掛けた。小池さんは相変わらず流麗たる動きで調理を続けている。

「あの、すみません」

 声は全く届いていないようだった。平は思いなおす。確かに今声をかけるのは極めて非常識だ。自分の後ろに並んでいる教頭や生徒たちにも迷惑が掛かってしまう。一旦カウンターの脇へどいて、生徒の列が落ち着くまで待つことにした。

 それからもずっと、小池さんはラーメンを提供し続けた。生徒たちが持ってきた食券には、親子丼やカレーライス、その他多種多様のメニューが書かれていたが、小池さんはラーメンしか出さなかった。

 やがて列が落ち着き、平は改めて小池さんに声を掛ける。

「あ、あの、すみません」

「あん? 何だい、さっきからそんなところへ突っ立って。邪魔だったらありゃしないよ」

 小池さんは煙たそうな顔で平を見やった。その剣幕に平は少々気圧されたが、ここで負けるわけにはいかない。

「いや、僕、サバの塩焼き定食を頼んだんですが」

「あん? だからどうしたってんだい」

「いや、ですから、僕はサバの塩焼きが食べたくて」

 小池さんはチラリと平の顔を見ると、フンと鼻を鳴らす。

「そいつぁサバだよ。あんた、若いのに老眼かい?」

「いやいや、視力はバッチリですよ。少なくともこれがサバでないと分かるくらいにはね。いやあ、ラーメンですよ、これは。どこからどう見たって」

 いかにもウンザリという顔をして、小池さんは溜息をつく。かと思うと、不意に食券回収用のバットを持ち上げ、カウンターに叩きつけた。

「じゃあ、あんたがサバの塩焼き定食を頼んだ証拠はあるのかい? ほれ、そのバットからあんたの出した食券を探して見せてみな! そんなに目が良いのなら探し出せるだろう」

「滅茶苦茶だ。そんなもの探せるわけがないでしょう」

「なら仕方がないね。あんたはラーメンを頼んだんだよ」

「はい?」

「ああ、あんたの言う通り、それはラーメンだ。それがサバに見えるなら百年目だね。誰だい、それがサバだなんて言ったのは。あんたがラーメンを頼んだから、あたしゃラーメンを作った。それだけさな」

――開き直りやがったな、このババア……

「そ、それなら、この食券たちはどう説明するんですか。ほら、親子丼にカレーライス、スパゲッティ……ラーメンなんて殆どないのに、僕が見た限りあなたはラーメンしか出していない」

 出し抜けに小池さんはカウンターからずいと身を乗り出した。一瞬怯んだ平の隙を突いてグイと詰め寄ると、ギラリと瞳を光らせる。

「全く、うるせえボウヤだねぇ。男のくせにツベコベネチネチと……ああ、そんなに言うなら教えてやるよ。あたしゃね、ラーメンしか作らないんだよ。ラーメン。なんてったって小池さんだからねぇ」

 意味不明なことを言う小池さんだったが、その眼光は鋭く、不気味な威圧感を放っていた。何となく目を合わせてはいけないような気がして、平は必死に顔を逸らす。

――くそ、脅しか。だが、そんな理不尽かつ意味不明な言い分に屈するわけにはいかない!

「それならそれで、食券はラーメンだけにするべきでしょう。親子丼だのカレーライスだの、紛らわし過ぎる!」

「知らないね。あたしの仕事はここでラーメンを作ることだ。あの券売機はあたしが来る前から置かれていたものだし、メニュー札を入れ替えるのはあたしの仕事じゃないからね」

 小池さんはそこまで言うと、カウンターの中に身を戻し、遠い目をしてみせた。

「ま、何にせよ、あたしはラーメンしか作らないよ。他のものも作ろうと思えば作れるけど、ラーメンを作るのが楽しくて仕方ないのさ。こちらが笑顔で楽しんで作ってりゃ、食う方も自然と笑顔になるってもんだよ。料理人にとって、それ以上のことがあるかい?」

――なんで良いこと言ってる感じになってるんだよ……

 平は半ば呆れ果て、とぼとぼとラーメン鉢を持ってカウンターを離れた。これ以上の議論が不毛であることは明白だったし、何より麺が伸びるのは嫌だった。教頭が手招きするのを見つけ、対面に座る。もちろん、教頭の前にもラーメンがあった。

 平はしぶしぶスープをすくい、口に運ぶ。

 瞬間、目を見開いた。

――い、異常なまでに美味いっ!

 平はすかさず箸を持つと、麺を啜る。そこからは止まらなかった。鮮烈な味わいのスープ、小麦の香るツルツルの麺、絶妙な歯ごたえのメンマ、柔らかな脂身と食べ応えのある赤身が調和したチャーシュー、爽やかなアクセントを加えるシャキシャキの刻みネギ……全てが今まで食べた醤油ラーメンを遥かに凌駕する代物だった。平は怒涛の勢いで麺と具を喰らい尽くし、あっという間に汁まで平らげたのだった。


 鉢を返却口に返すとき、平は遠慮がちに小池さんへ声を掛けた。

「生意気言ってすみませんでした。めちゃくちゃ美味かったっす」

 小池さんは何も言わず、ニャッと笑って見せた。瞳孔が縦長にキュッと締まる。まるで猫の目だ。どうやら小池さんも妖怪であるらしい。


――いや、そんなことよりも……


 腹が満たされ、幾分か正気を取り戻した平の頭に、ある考えが浮かんでいた。否、ただ腹が満たされたからではない。平は席に戻り、まだラーメンを啜っている教頭に声を掛けた。

「教頭先生、この学校に音楽室はありますか?」

 教頭は驚いた顔でラーメン鉢から顔を上げたが、どこか憑物の落ちたような平の顔を見てニヤリとした。

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