Ramen Daisuki Koike-san (1)
平は黒板に四線を引くと、AからGまで、それぞれ大文字と小文字を並べて書いた。
「いいですか。まず英語には、アルファベットというものがあります。これはいわゆる日本語のひらがなみたいなもので、まずはこれを覚えないと読むことも話すことも書くことも出来ないのです。なので、今日はまずこのアルファベットを覚えていきましょう」
初めてこの教壇に立ったときと違い、教室は静まり返っていた。かといって生徒たちが真面目に話を聞こうとしているわけではない。授業見学(兼監視)という名目で後ろの席に滑瓢教頭が座っているためなのは明白だった。
厭な静けさだった。初任の先生を値踏みするのは生徒の常。だが、その目線は明らかにそれとは異質の不信感を隠そうとしていなかった。無理もない。平は一度この生徒たちを見捨てて逃げた身分なのだ。彼自身の心的ハードルも、それだけでかなり上がっていた。
ムージーだけはヤケにニコニコと親愛の目を向けてくるのが、余計に辛かった。
※
一通りの手当を終え、クズハは平を保健室のベッドに寝かせた。いつの間にか、彼女は人の姿に戻っていた。その所作はどこか事務的で、よそよそしささえ感じられた。もちろん膝枕もしてくれなかった。既に平は恐慌状態からだいぶ落ち着いていたし、眉間の傷もそれほど深くなかった。とはいえ、そのまま眠りに就く気にはなれなかった。
気まずい沈黙だった。
だが、その沈黙を破るには、平の頭は余りに混乱していた。余りに様々なものが渦巻いていた。
過去のこと、生徒のこと、白池のこと、柳田の母のこと。
ふと、パトカーのサイレンが耳を掠めた気がした。
自分は追われる身になるのだろうか。
否、あれは単に偶然近くをパトカーが通っただけなのかもしれない。
だがいずれにせよ、外には戻れないだろう……
これからどうすればいいのだろうか。
というか、どうしてクズハは助けに来てくれたのか。
――そうだ、何はともあれ、まずはクズハ先生にお礼を……
「あ、あの、クズハ先生……」
言いかけて、平は口をつぐんだ。感謝の前に、まずは謝罪ではなかろうかという余計な逡巡があった。
沈黙は一瞬だったが、クズハは平が言葉を継ぐのを許さなかった。
「言葉ではなく、態度で示してください」
いつもとは違う、ピシャリとした言い方だった。顔もそっぽを向いたままだった。平が一瞬間気後れした隙を突いて、脳内の紳士たちが盛大な誤解を始める。
――た、態度で示す? つまり、優しく抱きしめたり頭をポンポンしたり……
「ああ、いや、僕、そういうのは……」
「授業をやってください。この学校で」
盛大な誤解はものの一瞬で修正され、紳士たちが落胆の声を上げる。クズハの目はいつの間にか真っすぐに平を見つめていたが、その目線はどこか軽蔑を含んでいた。平がその視線にちょっとだけ快感を覚えていたのは秘密である。
※
クズハに言われて仕方なく授業を引き受けたものの、やはり気乗りはしなかった。全く気持ちの整理はついていなかったし、何より、平の中に授業をできる自信は微塵も残っていなかった。四年間、教え子たちと培ってきたもの……培ってきたと思っていたものが、ものの数分で壊されたのだ。それも、他ならぬ教え子たちによって。
「それじゃ、僕に続けて読んでください。エー」
「えー」と真面目男子たちの声だけがか細く響く。ヨルとワッチは鼾を掻いているし、狐三人娘はいかにもつまらないという態度で頬杖をついていた。
「ビー」
「びー」
こんなとき、以前の自分はどう対応していたんだっけ。恥ずかしがる生徒をどうやって宥めすかしていたんだっけ。
「スィー」
「しー」
そもそも、中一の英語授業ってどんな風に進めてたっけ。アルファベットってどう指導してたっけ。
「ディー」
「でいー」
新人のころ、教室長の山野先生によく言われたな。初学者に英語を教えるとき、一番大切なのは「英語を嫌いにさせないこと」だって。
「イー」
「いー」
ハハ……これじゃ嫌いになっちゃうよな。
「エフ」
「えふ」
別に、今に始まったことじゃないのかもな。あの塾の生徒だって、自分に気を遣って盛り上がっている振りをしてくれていたんじゃないのか?
「ジー」
「じー」
ハハ、別に、最初から、何にも変わらないじゃないか。
塾講師として、平の評判は悪くなかった。基本を徹底させるスタイルの授業は決して派手なものではなかったが、着実に生徒の成績も上がっていたし、保護者からの評判も良かった。しかしながら、彼の心の中には、常にしこりがあった。それは違和感や不満というより、得体のしれない焦燥感のようなものだった。
『真面目で分かりやすい授業をする先生』
その殻に閉じ籠っていていいのだろうか、そんな漠然とした不安を抱えつつ、しかしそれを破ることはついになかった。基礎の徹底が何よりも重要だという考えは崩せなかったし、自分はそういうスタイルの講師なのだと自分に言い聞かせてきた。
そう、言い訳。怠惰。マンネリ。
端から、変える気などなかったんじゃないのか。
つまるところ、やはり自分は教育になんか向いて……
「はい、それじゃ確認します。じゃあ、ムージー君、左から順に読んでください」
「え、あ、はい。え、えー、びびー……わ、わわ、分かりません」
「じゃあガサブロウ君」
「それはドイツ語読みですか? イタリア語読みですか? ちなみにスペイン語だとウー、バー、イー、ツー……」
「オーケー、もう何でもいいよ」
平は最大級の溜息をなんとか押し込めながら、ガタロウの後ろを見る。相変わらずサトルはそっぽを向き、窓の外を眺めていた。抵抗はあったが、順番的に彼を指名するしかない。
――あはは、他の先生を馬鹿にしてたけど、結局僕も同じじゃないか……
何なら、自分は初めからサトルに頼るつもりでムージーを指名したのではないかとさえ思えた。俯いて苦笑を浮かべ、平は一つ息を吐く。
「はい、サトル君……」
平はAからGまでのアルファベットを強く念じて、サトルが頭の中を読みやすいようにしてやる。もはや英語教師としての矜持など無かった。形だけの授業でいい。生徒の理解度なんてどうでもいい。とにかく、とっととこの地獄のような静けさから解放されたい。
サトルは漫然と平に顔を向け、じっと彼のことを見る。そしてしばらく平の顔を凝視すると、
「分かりません」
と一言吐き捨て、再び窓の外へ目をやった。平はその場に崩れ落ち、チャイムが鳴り響いた。
「どないしはったんどす、平先生。えらい苦戦してはりますなぁ。おきばりやす」
昼休みになり、教室に平と教頭だけが取り残された。嫌味たっぷりの京都弁で声を掛けた教頭だったが、全く反応を示さない平にバツが悪くなったのか、一つ咳払いをして言い直した。
「もっとやりたいようにやってもろて構へんのです。やりたいようにね」
平は何も答えず、机に突っ伏して窓の外を見ていた。教頭は平の背中を軽く叩くと、ことさら明るい口調で言った。
「まあ、取り敢えず昼ですわ。腹が減っては何とやら。塞ぎ込んだ気分ではどんなりまへん。今日こそは食堂を案内させてもらいますよって」
教頭は平の首根っこを掴んで机から引き剥がすと、半ば引きずるような形で食堂まで連行していった。
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