Crying in the rain (3)
目が覚めた。
残念ながら、そこは柔らかな膝枕の上ではなかった。微かな頭痛がして、平は小さく呻く。頭蓋全体が霞に包まれているようだった。先刻より精神は落ち着いていたが、虚ろであることに変わりはなかった。
―――いったい、どのくらい眠っていたのだろうか……
ぼんやりとした頭で考える。パチンコ屋の喧騒はまだ続いている。車通りもそれなりに多い。そこまで長く眠っていたのではないらしい。
――これから、どうすれば良いんだろう。いや、自分みたいなクズが将来のことを考えるだに烏滸がましい……
平が再び自虐的な考えに取り憑かれようとしたとき……
ふと、厭な臭いが鼻を突いた。
脈が上がる。
獣の臭い。
強烈な臭い。
……犬。
加えて、気配。否、気配と呼ぶには明確すぎた。
生ぬるく、荒い息が右の耳にかかっていた。
ゆっくりと、顔を右に向ける。
平の肩越し、逆さに向き合った顔が、ニッタリと笑っていた。
「ア……ア……、タイラ、センセイ……みぃ……づげだぁ……!」
絶叫が気管の半ばで押さえつけられる。代わりに、臓腑という臓腑がせり上がってくる。それとは反対に、全身の血液が地の底へと落ちていく。
あの夜、背中を刺されたとき、平は確かに犯人の顔を見ていた。だが、記憶の中でその顔にはモザイクが掛かっていて、誰だか思い出せなかった。
否……
違うのだ。
思い出すまいとしていたのだ。
だって、そうだろう。
生徒の母親に刺されたなどと、誰に言えるものだろうか。
中学二年のお調子者男子、柳田の母親。息子とは正反対の、真面目で大人しく、いかにも品の良い中年女性。誰よりも息子のことを考え、保護者会や面談でアドバイスしたことを誰よりも熱心に実践していた。いつも小綺麗な服装をしていて、美しいウェーブのかかったショートヘアが印象的だった。
それがだ……
今や、その面影は欠片も無かった。振り乱した髪はベッタリと脂にまみれ、藁半紙のような肌に大きくはみ出た口紅。服は乱れ、ところどころ破れ、襟や袖口はどす黒くなっている。
仰向けになった平の右肩に旋毛を突き合わす形で、柳田の母は四つん這いになっていた。いつからそうしていたのか分からないが、べちゃりと地面に頬をつけ、平の顔を横から覗き込んでいる。その顔に浮かぶのは、かつての上品な微笑みではない。ニタニタと脂ぎったいやらしい笑み。ハッ、ハッ、と荒い息が顔にかかるたび、濃縮された唾液の耐えがたい臭いが平の胃をせり上げる。
平は声にならない叫びを上げ、上体を起こそうとした。だが、その瞬間、四つん這いになっていた柳田の母は恐るべき手足のバネで平に飛びかかり、組みついてくる。とても中年女性とは思えない膂力に、平は為す術もなく組み伏せられてしまった。
馬乗りになった中年女が歓喜の雄叫びを上げる。口端からは水糊のような涎を垂らし、紙のようだった顔にみるみる赤みが差していく。その右手には、鈍い輝きを放つものが握られている。平はそれを見て慄然とした。
それが平に関わりの深い果物ナイフであることは明白だった。
刃の全体に、べったりと何かがこびりついていた。暗がりだからハッキリと色は見えない。だが、平はそのこびりついたものが、自らの体から流出した液体が凝固したものであると確信していた。つまるところ、そのナイフは、一週間前、自らの背中にめり込んだ……
何故柳田の母親がこんな凶行に及んでいるのだろうか。平は考える。思い当たる節は、あるにはある。柳田はあのとき、四級の試験を受けていた。中学二年の六月時点、英語の苦手な彼に四級を受けさせるのは無謀だった。だが、母親たっての希望で彼は四級試験に挑戦したのだ。どうやら塾で行った対策授業以外にも、母親が家で熱心に教えていたらしい。それだけ力を入れて挑んだ試験が水泡に帰したのだから、怒るのも無理はないのかもしれない。だが……
――ここまで狂うか?
それしきのことで、と開き直るわけではない。彼女には彼女の思惑があったのだろうし、柳田本人だって、平の見えないところで血の滲むような努力をしていたのかもしれない。だが、違う。明らかに様子がおかしい。
柳田の母が腕を振り上げた。平は咄嗟に腕で顔を庇う。だが、凶刃は振り下ろされない。代わりに、平の下腹部を妙な感触が襲う。平は始めのうち、何をやっているのか理解できなかった。だが、その動きが激しくなっていくにつれ、狂った中年女の顔が急激に紅潮するにつれ、平はその意味を理解していく。
彼女は、一心不乱に腰を振っていた。
艶めかしさとはかけ離れた動きだった。
ただ本能のまま、平の下腹部に自らの股間を擦りつけていた。
否、叩きつけていたという方が正確かもしれない。
ぴちゃり、ぴちゃりと、粘っこい涎が平の顔面に降り注ぐ。
当然ながら、平の下半身は全く反応を示さなかった。状況が状況、相手が相手……何よりも顔中に纏わりつく激臭で吐き気を催し、むしろ萎え切っていた。
柳田の母はしばらく必死に腰を振り続けていたが、やがて突如として激しく痙攣すると、天を仰いで動かなくなった。どうやら絶頂したらしい。
平は微かな希望を抱いていた。このまま彼女が満足して退散するのではないかと。しかしながら、そう甘くはなかった。彼女は緩慢な動きで視線を平に戻すと、再びナイフを振りかざし、両手で柄を握りなおした。
間髪入れず、それは振り下ろされた。今度こそ確実に、平の眉間目掛けて。
平は死を覚悟し、ぐっと目を閉じた。咄嗟に腕で防御することは出来なかった。反応が間に合わなかったのではない。彼の手は無意識に胸ポケットへ向かっていた。カサリと、薄い感触が手に触れる。青臭い香りがふと鼻を突いた。
――信太の森の うらみ葛の葉……
どうしてそんな行動をとったのか分からない。どうしてそんな句を思い出したのかも分からない。その句が何なのかさえ平は理解していなかった。ただ、その瞬間、彼は懐かしい気配と、瞼の向こうから眩い光が差すのを感じた。
果物ナイフの刃先が額にめり込む。鋭い痛みが眉間から両目に駆け抜けていく。
と、不意に、頭上で何かがぶつかる鈍い音がした。ほとんど同時に、腰に圧し掛かっていた重みが消える。頭頂の先で、ドサリという音と鈍い呻き声が聞こえる。
「平先生、ご無事でしたか?」
その声を聞いた瞬間、平の中で何かがフツリと切れた。目頭が痛いほどに絞られ、眉間から流れる血とは違う、熱いものが目尻から溢れ出す。口がわなわなと震え、粘ついた鼻水が湧き出してきた。
温かな感触が平を包む。日溜りの匂いが不快な臭気を消し去っていく。彼はなりふり構わず赤児じみた泣き声を上げた。上体を起こし、クズハに縋り着く。決して下心があったわけではない。ごくシンプルな幼児退行である。
しかしながら、平は極度の安心感とともに違和感も感じていた。確かにフワフワとした毛並みはクズハのものだし、暖かな匂いにも覚えがある。何より愛しいクズハ先生の声を聞き違えようはずがない。しかし、全力で抱き着いたその体は、彼女の柔らかな膝枕から想像していたものとかけ離れていた。やけに骨ばっていて、筋肉質で、しかも……
――なんか、全身毛むくじゃらじゃないか?
――というか、これは女の子じゃなくて……
恐る恐る目を開けて涙を拭い、平は仰天した。彼が抱き着いていたのは、体高が人の腰ほどもある巨大な狐だった。平はその背中にしがみついていたのだ。
「クズハ……先生です……か?」
大狐は平の方を振り返ると、目を細めて頷いた。
葛葉狐。薄闇の中、その全身は妖しく萌葱に輝いていた。その豊かな毛皮の中、浅葱の斑点がユラユラと揺れている。
「美しい……」
平は思わず呟いていた。
永遠とも思える時間の中、彼らは見つめ合っていた。
だが、ロマンティックな時間は突如として壊されるものだ。路地裏の入口付近まで吹っ飛ばされて泡を吹いていた哀れな母親は、しばらくもしないうちに息を吹き返した。そして間髪入れず人間離れした動きで立ち上がり、怒りに狂った遠吠えを上げながらこちらへ跳躍してきたのである。平の頓狂な叫びに葛葉狐が振り返った時には、もう既に凶刃が彼女の鼻先まで迫っていた。
さて、平太郎は塾講師である。
塾講師にとって、生徒の母親というのは生徒と同じくらい大切な顧客である。
しかしながら、仕方がなかったのだ。
無意識の行動だったのだ。
体が勝手に動いていたのだ。
まったくもって、仕方がなかったのだ。
平が気が付いたとき、彼の右拳は柳田母の顔面にめり込んでいた。
それはそれは見事な、人中へのクリーンヒットだった。
「ぶぐょらっ」という謎の音を口から発し、中年女性の体が宙を舞う。ドサリという音がして、彼女の体は動かなくなった。
暫時、
「う、うわああぁぁぁぁぁぁっ!」
平は自分の拳を見つめて絶叫していた。
保護者、殴っちゃった。
保護者、殴っちゃったァ……
保護者アァァ、殴っちゃったアァァァ!
丁字路の向こうから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。
「とりあえず戻りますよ!」
葛葉狐は半狂乱の平を背中に載せると、光の渦へと駆け込んでいった。
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