Crying in the rain (2)

 あれほど偉そうに反芻した決意が、雨の雫にふやかされていく。平は何度もかぶりを振り、本来の目的を思い出そうとした。

 と、ある女子生徒の言葉が平の耳に届いた。

「ねえねえ、白池先生。平先生はいつ戻ってくるの?」

 その不安げな口調に、平の心臓が跳ねる。そうだ。いくら楽しそうにしていても、変わらぬように見えても、やはり急な講師の交代は子どもにとって不安なのだ。

 白池は少し困った顔をしていたが、少し腰を落として子どもの目線に合わせると、優しい口調で言った。

「平先生は、ちょっと重い病気でね。今、頑張って治療しているんだ。だから、もう少し待っていてあげてね」

 平はたまらなく情けない気持ちになった。白池だって、自分の希望が叶ったことを手放しで喜べるはずがないのだ。学年の途中で、いきなり他人が担当していたクラスを任される……それがどれほどの重責か、平自身も分かっているはずだった。

――僕が自暴自棄になってどうする。まして学生講師に嫉妬するなんて。しっかりしろよ、平太郎……

「やっぱり、平先生の授業には叶わないよね。俺ももっと頑張るから!」

 白池の言葉が平の目頭を熱くする。考えてみれば、白池は平のことを慕っている節があった。英語検定にしたって、他の学生講師が嫌な顔をする中、率先して監督を引き受けてくれたのが彼だったのだ。平は白池に対して一瞬でも僻みのような感情を抱いてしまった自分を深く恥じた。それと同時に、溶解しつつあった決意がなんとか形を取り戻そうとしていた。

 が……

「ううん! 白池先生の方がいい! だって、白池先生の授業、楽しいもん」

 それは、彼女なりの白池に対する気遣いだったのかもしれない。自分がした質問が白池を傷つけるものだと、幼いなりに察したのかもしれない。


 少なくとも、平はそう思っていた。


「そうだよ。俺も白池先生派!」

「白池先生の方が話も面白いし、優しいし、それにカッコいいし」

「授業だって分かりやすいんだもん」


 そう、思いたかった、だけなのかもしれない。


 生徒たちの口調は、都合のいい解釈をするには余りに無邪気すぎた。純真無垢な言葉たちが容赦なく飛んできては、平の心臓を貫いていく。そして、言葉の矢たちは次第に平への直接的な攻撃を纏い始めた。


   このまま白池先生の授業が続けばいいのにな

   私も白池先生の方がいい

   ずっと白池先生でいいのに


――やめなさい……


   平先生と違ってちゃんと最近の流行りも知ってるし

   平先生と違ってギャグも面白いし

   平先生と違って宿題も減らしてくれるし

   平先生と違って平先生と違って平先生と違って


――ハハ、やめろよ……


   平先生じゃなくてずっと白池先生でいいのに

   平先生じゃなくて白池先生の方が成績も上がると思う

   平先生じゃなくて白池先生の方がいいってママも言ってた

   平先生じゃなくて平先生じゃなくて平先生じゃなくて


――なあ……おい……やめてくれ……


   平先生なんて……


 聞きなれた塾バスのエンジン音が近づいてくる。平の自我が崩壊する寸前で、子どもたちの無邪気な罵声は掻き消された。中学二年の生徒が次々にバスを降り、教室に吸い込まれていく。最後に降りてきた女子がキョロキョロと辺りを見回す。女子生徒のリーダー格、福島だった。

「どうしたの?」

 白池の声に、福島はピタリと動きを止めた。

「平、今日も来てないの?」

「そうだね。まだ病気が……」

 白池が言い終わらないうちに、福島が歓喜の声を上げた。

「いよっしゃあぁぁ!」

 まるで、叢に平が隠れているのを知っていて、聞えよがしに言ったようだった。

「ちょっと、それはないだろう。平先生だって君たちのことを一生懸命に……」

「ギャハハ、白池センセ、ヤサシィー」

 福島の下品な笑い声が建物の中に消える。小学生がはしゃぎなから、代わりにバスへ乗り込んでいく。バスの扉が閉まり、アイドリングが始まる。

 平はくさむらの中に崩れ落ちていた。もはや、まともに塾の方を見ることさえ出来なかった。頭を抱え、ブルブルと震える。ほとんど嘔吐のような嗚咽を地面に垂れ流し、湿気た土や青臭い露が口に入るのも構わず、彼は額を地面に擦り付けていた。


 クズハの言葉が耳を掠めていく。


「きっと、辛い現実が待っていますよ」


 篠突く雨が、丸まった平の背中に染み込んでいく。


 グズグズと

 グズグズと……


 バスが走り去った後も、エンジン音と無邪気な笑い声が平の頭に木霊していた。しばらく平は蹲っていたが、やがてフラフラと立ち上がると歩き始めた。

――どうして、僕は戻れると思っていたのだろう

 クシャクシャにされた紙人形よりも覚束ない足取りで、前に進んでいるのか横に逸れているのかも分からないまま、草の中を彷徨う。

――やり直す? 生徒と向き合う? ……ハハ……アハハ

 顔についた泥が車軸に流されていく。もはや快も不快も感じなかった。

――……馬ッッッ鹿じゃないのか?

 平の中で何かが音を立てて切れ、哄笑が一気に喉元を駆け上がる。


 アハ……


「平先生!」

 右肩から呼ばれ、軟口蓋まで到達していた奇声が封じ込められた。振り向かずとも、それが誰の声なのかは明白だ。どうして見つかったのか、平にはそんな疑問を抱く精神的余裕さえ残っていなかった。キット、僕トハ違ッテシッカリ者ノ白池先生ニハ何デモ御見通シナノダロウ、と、極限まで卑屈になった平の脳が自己解決しただけだった。

「平先生、ですよね?」

 雨傘が差し出されたのか、雨粒が止む。「違いますよ白池先生。僕は平太郎ではありません。ただの怪しい泥まみれオジサンです。思い込みが激しくて、プライドだけ高くて、そのくせ何も出来ない哀れなクソムシでーす! ホレ、クソムシ、クソムシ、ププププーン」と、脳内で半ば狂った平太郎が小躍りしていたが、実演する気力はなかった。平は白池と目を合わすことなく、ボッカリと口を開けて宙を見ていた。

「良かった。生きてらっしゃったんですね」

 生きてらっしゃったとはずいぶんな言いようだね白池先生。まあ、死んでいるようなものだけどもね。フフ、半死半生ゾンビ男、平太郎でーす。もとい、DEATH!!

「先生……」

 ああ、駄目だよ白池センセッ! そこから先は言っちゃいけない。どういうわけか分からないけれども、恐らくその先を言ったら、僕は完全にダメになっちゃうからね!

「塾に、戻ってきてください」


 あーあ、言っちゃった。


「……どの、口が……」

 ごくごく自然に出てきた言葉を、すんでの所で飲み込む。「え?」という白池の驚いた声に、平は空虚な頭の中から取り繕う言葉をかき集めた。

「ど、どの面下げて、今さら戻れるっていうんだい。やっぱり、その、僕は、講師なんて……」

 途端に胸がつかえる。事ここに至ってもなお、「向いていない」ことから目を逸らそうとする自分に吐き気がして、平は半ば嘔吐の混じった咳ばらいをした。白池は少し黙っていたが、やや厳しい口調で言った。

「そんなことを言うのは無責任です。生徒たちは、みんな待っているんですよ」

 その瞬間、平の鳩尾あたりから厭な熱さがこみ上げた。

「どの口が言っているんだ!」

 今度こそ叫んでいた。ほとんど無意識だった。頭の中に白池と生徒たちの楽し気な遣り取りがぐるぐると駆け回る。福島の歓喜の声が響き渡る。


     平先生なんて


                戻ってこなくていいのに


――もウ、ナンでモイいヤ……


「全部聞いていたんだよ! どうせみんな僕なんかより白池先生の方がいいんだ! 君だって、たっての希望が叶って良かったじゃァないか。目出度い! 実に目出鯛! アアオメデタフオメダタフ!」と、満を持して最低の遠吠え吐露しようとした瞬間、

「おーい、白池先生! そんなところで何やってるの?」

 塾の方から、教室長の山野がこちらに向かって叫ぶのが聞こえた。平はハッと我に帰り、一つ咳払いをする。

「無責任で結構。最低な屑野郎と思ってもらって構わないし、生徒にもそう触れ回ってくれればいい。とにかく、僕にはもう戻ることは出来ないし、戻る権利もない。面倒な役目を負わせてしまって、本当にすまない……」

 そう言い残すと、平は逃げるようにその場を後にした。その肩に、また勢いよく雨が降り始めた。


 夜の帳が降りつつあった。しばらく方角も定まらないまま彷徨っていた平の足は、知らず知らずのうちに「そこ」へ向かっていた。丁字路はパチンコ屋とカラオケ屋のネオンに照らされて明かるかったが、その分、影になる路地裏は不気味な闇に支配されていた。

 外へ出るときに見た渦を巻く光は、もうそこには無かった。だが、それは平にとってもはやどうでも良いことだった。戻るつもりは無かったし、戻れるとも思っていなかった。そもそも、あの「お化けの学校」が現実だったかどうかも分からない。いや、きっと夢だったのだ。平は苦い笑いを浮かべた。

――ハハ、現実はおろか、夢の居場所も棄てちゃったなァ……

 小さな笑いを漏らすと、平はそこへ大の字になった。もう、何も考えたくなかった。

 元来、平は一晩寝れば忘れる性分だった。だからこそ、四月からの擦り切れるような日々の中でも、件の失敗で対応に追われていた時にも、何とか首の皮一枚で自我を保っていたのだ。


 だが、今回ばかりはダメそうだった。

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