Crying in the rain (1)
荒れた雑木林の獣道を歩いていた。夕暮れが近づいている。校舎の外は普通の夕刻とは違う、不思議なセピア色の世界だった。
「本当に、戻るのですか?」
平の隣で、クズハがぽつりと漏らす。
結局、平の意志は変わらなかった。教頭は尚もしつこく彼のことを引き留めたが、最終的には根負けしたようだった。
林道の出口にそれはあった。鬱蒼と茂った葛の間に鎮座する、石造りの小さな神明鳥居。その中で薄ぼんやりとした光が渦を巻いているように見えた。
「あの鳥居が境です」
いつにも増して静かなクズハの口調が、平の後ろ髪を引いた。
「せっかく誘っていただいたのに、申し訳ありません」
「いえ。ですが、きっと辛い現実が待っていますよ」
「分かっています。でも、このままではダメなんです」
クズハはそれ以上何も言わなかった。ただ、道の脇に生える葛の葉を取ると、平に手渡した。不思議な一葉だった。クズハの瞳と同じ、翡翠の輝きを放っている。平は昔どこかで聞いた和歌をふと思い出す。
――恋しくば、たずね来て見よ、信太なる……何だっけな、この歌
恐らく何かの
※
ぽつりぽつりと、生ぬるい雨が降り始めている。その道を歩くのは、およそ一週間ぶりだった。平の足取りは鉛のように重い。だが、もはや彼はそこへ向かうほか無かった。
鳥居に足を踏み入れた瞬間、平を眩い光が取り巻いた。その光が失せ、視界がはっきりしてくると、そこは平のよく知る路地裏だった。メキメキ☆エデュケイションから北へ少し歩いた丁字路の突き当たりに、ぽっかりと開いた路地裏。パチンコ屋とカラオケ屋に挟まれているせいで、店の自動ドアが開くたびに騒音が雪崩れ込んでくる。そこは平が刺された場所だった。正確にいえば、彼は丁度路地裏の入り口辺りで刺され、その衝撃で路地裏に転がり込んだのだ。
掃除されたのか、それとも雨で流れてしまったのか、血痕は無くなっていた。
平とて、件の騒動に関する謝罪や弁解をこれ以上重ねたところで意味のないことは分かっていた。あれだけの騒動を引き起こし、数えきれないほどの迷惑をかけたのだ。許してくれというのは虫の良すぎる話である。
だが、それでも平の足は塾に向かう。実際のところ、彼の後悔は別のところにあった。
四月だ。明確に覚えている。
四月から、生徒の様子が急変した。それも全学年の全員である。あからさまだった。挙手を求めても反応がない。指名をしても答えてくれない。目さえ合わせてくれない。
少なくとも三月、塾における新学年授業が始まった時点で異変は無かった。だから学校で何か変化があったのかと考えてもみたが、どうも違う。なにせ山野が授業をしている教室や学生講師が個別授業をしているスペースからは、いつもと変わらぬ活気に満ちた笑い声が聞こえていたのだ。にも関わらず、平が授業を始めると、示し合わせたように教室がドンヨリと静まり返った。
もとより派手な授業をする講師ではなかった分、平は生徒とのコミュニケーションを大切にしていた。質問、発問、そして生徒との何気ない会話や冗談の言い合いが、授業の醍醐味だと考えていた。だからこそ、ただ板書をしてテキストを読み上げるだけの授業は、平にとって苦痛以外の何ものでもなかった。まして周囲から楽しそうな笑い声が聞こえる中でのそれは、拷問といっても過言ではなかった。
何か原因があったはずなのだ。平自身が気付かないところで、生徒の信頼を損ねるような言動があったのかもしれない。平は何とか原因を探ろうとしたが、無理矢理に生徒を捕まえて話をすることは出来なかった。そんなことをしても生徒が本音を言うとは思えないし、余計に彼らの心が離れかねない。――生徒の様子や何気ない会話から原因を探ろう――などと生ぬるいことをやっている内に、事態は悪化していった。生徒の成績は下がり、保護者からのクレームは日ごとに増えた。教室長から毎日のように夜中まで詰問され、明け方まで始末書や報告書を書かされる日々。そして心身共に擦り切れていく中、件の騒動を起こしてしまった。
無理矢理にでも生徒と向き合えていれば……畢竟、彼の後悔はその点にあった。
ふと、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてくる。中学二年の女子生徒だった。多くの生徒が塾バスを利用するのだが、家が近いと徒歩で通う者もいる。平は物陰に身を隠す。生徒と向き合うとはいっても、こんなところで突然鉢合わせになるのは拙い。今日は取り敢えず様子を伺い、可能であれば全ての授業が終わったあと、教職員だけになったタイミングで話をしに行く計画なのだ。いかにも無難な考えだった。
よもや自分の話などしてはいないだろうとは思いつつ、微かな期待を込めて聞き耳を立てる。
「……そういえばさ、あの事件、犯人捕まったっけ?」
「事件って?」
一瞬、平の心臓が撥ねる。まさか、自分が刺されたことを言っているのだろうか。
「あれだよあれ。確か三月くらいにあったでしょ。野良犬のやつ」
平はホッとすると同時に苦笑した。考えてみれば、自分は刺された後ですぐ境の内側に連れていかれているのだ。規制線もなく、血痕も綺麗に無くなているのだから、事件にさえなっていないと考えるのが自然だろう。
「ああ、あったあった。犬の首無し死体のやつでしょ? 怖いよねー」
確かにそんな事件があったなと、平は記憶を辿る。三月の二週目くらい。塾からさほど離れていない場所だったはずだ。ノホホンと平和な田舎町で起きた事件としては陰惨な部類なので、地元紙にはそこそこ大きく載っていた。
女子生徒たちはそれからも引っ切りなしに喋りながら、塾の方へと向かっていった。どんよりとした空に、夕焼けの気配が近づいている。そろそろ中学生を乗せた塾バスも来る時間のはずだった。
塾の正面には片側一車線の狭い道路を挟んで空き地があり、伸び放題に草が茂っている。大人でも屈めば身を隠すには十分だ。平は草の中から塾の様子を伺うことにした。
やがて、塾が入るテナントビルの中から、くぐもった挨拶が聞こえてくる。小学部の授業が終わったらしい。元気な声とともに小学生が飛び出してくる。四年生の連中だ。バサバサとジャンプ傘を開く音の隙間から漏れだす黄色い声。傘から時おり覗く懐かしい顔ぶれに、平は危うく駆け出しそうになるのを必死で堪える。
やがて、小学生の後を追い、大人の人影が出てくる。その姿を見て、平は体をこわばらせた。
「はいはい、みんな! 駐車場で走り回るのは危ないって言ってるだろう! ちゃんと列に並ぶ! ジッとする!」
白池だった。彼は元気いっぱい駆け回る小学生に手こずりながら、なんとか塾バスの乗車位置に小学生たちをまとめていく。
――まさか、白池先生がクラスを持っているのか?
クラス授業は正社員が受け持つという塾の運用ルールには反するが、考えてみれば無理もない話だった。メキメキ☆エデュケイションは一教室だけの弱小塾で、正社員は平と教室長である山野の二人だけ。平の代わりを正社員で用意することは不可能なのだ。白池は経験年数が長いし、生徒にも保護者にも人気がある。彼が代打を務めるのは必然だった。何より、彼は以前からクラス授業を希望していたのだ。
平の中で、いろんな感情がぶつかりあっていた。白池の希望が叶ったのだから、素直に喜んでやるべきなのか。自分が戻ってくるか、あるいは次の正社員が入ってくるまでの繋ぎをやらされているのであれば、申し訳ないと思うべきなのか。いや、自分のポストが学生講師に奪われたのだ。まずは怒りや焦りを覚えるべきなのではないのか。しかし、以前から白池の方が自分よりも優れていると思うことが平には幾度となくあったわけで……
白池は聞かん気の強い生徒に手を焼きながらも、楽しそうに笑っていた。腕白な男子をくすぐったり抱き上げたり、女子に冗談を言って笑い合ったり……
――僕は、あんな風に生徒と接することが出来ていただろうか……
早くも、平の中で何かがヒビ割れ始めていた。
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