Sabbath bloody sabbath

   六月上旬 某日


 眼の前に、血の海が広がっていた。


   先生……


 平は悲鳴を聞いて隣の教室から駆け付けた。その目に飛び込んだのは、男の後ろ姿と、その奥で怯える生徒たちだった。男が左手に携えた日本刀からは、ぽたぽたと鮮血が滴っている。そして、右手には黒々とした丸いものが提げられている。それが何かを認識するのに、さほど時間は掛からなかった。何故なら男のすぐ脇には、つい先ほどまで連立方程式の授業をしていた教室長の山野が寝っ転がっていて、その首から上が綺麗さっぱり喪失していたからだ。

「き、君!」

 やっとのことで絞り出した声が、宙を上滑りしていく。男は平の声など聞こえていないかのように、ピクリとも動かない。


               先生……


 教室の隅に追い詰められた生徒たちから、次第に恐慌が漏れ出してくる。小さな悲鳴が連鎖し、次第に増大していく。――ダメだ、男を刺激しちゃいけない――平は生徒たちに目配せをするが、それが意味を成さないことは明らかだった。

「イヤアァァァァ!」

 とうとう、一人の女子が悲鳴を上げた。堰を切ったように狂乱が始まる。男子の一人が、一か八かで平の方へ駆け出す。男が無情にも刀を振り上げる。

「や、やめろオオォォォ!」

 叫んだ平の声に、ようやく男は反応した。ゆっくりと平の方を振り向く。

 

 びんが、目尻が、鼻先が、スローモーションで露わになって……


「何やってるんですか、先生!」

 半ば悲鳴に近い声で、平はようやく目を覚ました。頭の中で吊り鐘を突かれるような頭痛に、グラングランと視界が揺れる。どうやらうたた寝をしてしまったらしい。声のした方を見ると、最前列に座った真面目女子の中川がギラリと眼鏡を光らせている。

「ああ、すまない。ちょっとウトウトしてしまって……」

 平は朦朧とした頭で記憶を辿っていく。そう、今日は日曜日。本来なら週に一度の貴重な休日だが、今日は休日出勤中。何故か……そうだ、実用英語能力検定の試験日。

 安穏たるベッドタウン、滑が丘。町中の小さなテナントビル二階に教室を構える当学習塾「メキメキ☆エデュケイション」は英検準会場として検定を実施しており、ワタクシ平太郎は準会場実施責任者などと偉そうなものをやらせて頂いておりまして云々……ああ、そうそう。今は4級試験の監督中だったな。いけないいけない。試験中に監督が居眠りなんて何事か。全く、気合が足りてないぞ平太郎くん。中川が起こしてくれなかったらどうなっていたことやら……

 未だ強烈な耳鳴りの響く頭に鞭打って、平は時計を見上げる。


 午前十一時三十分

 試験終了、五分前


 平の全身に冷たいものが這っていく。

――九時五十分、注意事項の放送は流した

――十時半、試験開始の合図もした

――そして十一時ちょうど。筆記試験はそこで終了。からの、リスニング問題のCDを再生して……


   あれ?再生して……


        リスニング……


 平は恐る恐る生徒を見渡す。皆が、あからさまな非難の目で平を見ていた。お調子者の柳田だけが天井を見上げてニヤニヤしていた。その瞬間、平は何かおかしなものを目にしたような気がしたが、それどころではなかった。

「なあ、中川……リスニング問題、やったよな?」

 中川は、静かにかぶりを振った。

 自分が恐ろしいミスをしてしまったことに気付き、平は吐き気に似た感覚を覚えた。胡乱な頭をフル回転させる。が、考えうる手段は全て最悪の結末に収束するであろうことが目に見えていた。無情にも時計は試験終了時間を指し、生徒たちがザワつき始める。教室が入るビルの外には、もう生徒を迎えにきた保護者もいるはずだった。

――もうダメだ。保護者にも英検協会にも、正直に事情を説明するしかない。

 平が覚悟を決めたとき、教室の扉がノックされた。恐る恐る扉を開くと、学生講師の白池が立っていた。別教室で準二級試験の監督をしていたのだが、四級の終了時間になっても生徒が出てこないのを不審に思ったらしい。平は教室の外へ出て扉を閉めると、ことの顛末を話した。隠しても仕方のないことだった。

「すまない。僕は今から迎えに来ている保護者に事情を説明をするから、少しだけこちらの教室を見ていてくれないか?」

 そう言って教室から出て行こうとした平を、白池が引き留めた。

「ダメですよ。平先生。そんなことをしたら大変な騒ぎになります。最悪、今回受験した全級の受験者が不合格なんてことになりかねませんよ」

「だけど、正直に言うしかないだろう。変に取り繕ったりしたら、もっと面倒なことになる」

 平は白池の脇をすり抜けて出口へ向かおうとする。だが、その腕を白池が捕えた。

「平先生、俺にいい考えがあります」

 白池の表情は、ゾッとするほど自信に満ちていた。


「お疲れさまでした!」

 爽やかな笑顔を残して退勤しようとする白池を、平が呼び止めた。

「白池先生、今日は本当にありがとう。白池先生がいなかったら、どうなっていたことやら……」

 白池はスポーツマンらしい小麦色の肌に白い歯を光らせ、親指を立てて見せた。

「いえいえ、平先生のためなら、お安い御用ですよ。それにしても、上手くいって本当に良かったですね」


 白池の指南は極めて単純なものだった。

「保護者には「機材トラブルで試験時間が延びている」と説明しましょう。検定協会に送る報告書にもそう記載すればいい。平先生が保護者に説明をしている間、俺が四級のリスニング問題を始めます。その間に準二級のリスニングも始まってしまいますが、いい具合に時間がずれるので、俺が掛け持ちすれば問題ありません」

 不安はあったが、冷静な白池の口調に半ば圧倒され、平は従った。

 結果として、保護者たちは驚くほどすんなりと説明を受け入れ、試験も何とか完了させることができたのだった。


「まあ、あとは四級の受験生が保護者に本当のことを言わなければいいんだけど……」

 平の懸念を、白池は一笑に付した。

「アハハ、大丈夫ですよ。試験が終わったあとで、俺の方からそれとなく言い含めておきましたから。それに、彼らだって本当のことは言わない方が良いなんてことくらい、分かってますよ。なんだかんだ、中学生ってもうオトナなんですから。それじゃ、俺はこれで!」

――抜け目ないなァ……

 平は白池の背中を見送りながら、自分の不甲斐なさに苦笑した。

 夕暮れが近づいてきていた。一人になった職員室で、平は椅子に沈み込む。安堵の気持ちを追い抜いて、強烈な自己嫌悪がむくむくとせり上がってくる。ここのところ生徒とも上司とも上手くいかず、不眠症気味だったのは確かだ。週に二日は徹夜している。だがそんなことは言い訳にならない。試験監督中に居眠りだなんて、考えられないミスだ。その上、学生アルバイト講師に知恵を貸してもらって、あまつさえ慰められるなんて、無様すぎる体たらくだった。

――それに比べて白池君は……

 平は机に置かれた500mlペットボトルの緑茶と紙コップを見つめる。白池が差し入れに持ってきてくれたものだった。

――これだって、本来は僕が用意すべきだろうに……

 白池は地元の大学に通う四年生だった。もともとメキメキ☆エデュケイションの生徒で、大学合格と同時に個別指導のバイト講師として入社してきた。大学ではテニスサークルに所属していて、三年生では主将を務めていたらしい。大学での成績も優秀。日に焼けた端正な顔立ちは、ファッションモデルでも十分に通用するだろう。女子生徒からはもちろん、男子生徒からも慕われていた。

――自分なんかよりも、よほどしっかりしているよな……

 熱意だけは負けないと思っていたものの、最近はそれさえ危うかった。白池は最近になって、クラス授業を希望していたらしい。クラス授業は正社員だけが担当するため、その希望は叶わなかった。が、彼は何なら正社員になってもいいとまで言っていたというのだ。

――ハハ、何ならこのまま白池先生に代わってもらった方が、生徒も幸せなんじゃ……

 そこまで考えて、平は首を横に振る。何を考えているんだ。自分がしっかりしないといけないんだろう。それに、白池は地元の有名企業に内定を貰っているのだ。わざわざこんな薄給激務の弱小個人塾を選ぶ必要などない。というか、選んではいけない。

――そうだ。僕がしっかりしなきゃ……


 次の日、出社した平を教室長の山野が仁王立ちで待ち構えていた。でっぷりと太った体から湿った威圧感を放っている。あからさまなしかめっ面が、平を見るでもなくじっとスマートフォンの画面を見つめていた。厭な予感を覚えた平が挨拶をする間もなく、山野はスマートフォンを平の眼前に突き付けた。

「どういうことだ、これは」

 画面には某SNSのページが表示されていた。

 全身から血液が逃げていくような感覚が平を襲う。

 そこには、教壇の上で気持ちよさそうに居眠りをする平が映し出されていた。目まぐるしい勢いでコメントとイイネの数が増えていく。平の意識が急速に遠のいていった。

 そこからの一週間を、平は抽象的にしか覚えていない。

 クレーム電話への対応、押し掛けた保護者との面談、教室長からの罵倒、生徒のせせら笑い。電話対応、罵倒、面談、電話対応、退塾、罵倒、始末書、退塾、始末書、罵倒、罵倒、面談、退塾、電話対応、罵倒罵倒罵倒……

 虚偽報告が発覚したことで、当該回の受験生は全ての級が不合格となった。確実に準会場認定も取り消されるだろう。

 鳴り続ける電話や生徒の不信感で授業もままならない日々が続き、事件から一週間後に緊急保護者会が開かれた。罵詈雑言が飛び交う中、平はひたすら頭を下げるしかなかった。夜中になって、ようやく全ての保護者が帰ったあと、平は山野から呼び出された。

「もう明日から来なくていいよ、お前」

 あっさり言うと、山野は二度と平を見なかった。彼は厳しい上司だったが、そこまで冷徹な対応をする人間ではなかった。食い下がる気にはなれなかった。ただただ、自分は完全に見放されたのだと実感しただけだった。返事をしたのかどうかも覚えていない。平はもぬけの殻となって、塾を後にした。


 そして、その帰り道。

 彼の背中を衝撃が襲った。

 突き飛ばされる形で路地裏に倒れ込んだ平の背中を、生暖かい感触が広がっていく。

 灼けるような激痛にのたうち回りながら、平は安堵さえ感じていた。


――ああ、やっと解放されるんだ……


 犯人の顔は見たはずだが、ぼんやりとして思い出せない。

 多分、知っている人間だった。

 何らかの理由で、意図的にモザイクを掛けているのかもしれなかった。


 ただ、一つだけ明確に覚えている。


   獣臭。


 何年も風呂に入っていない犬のような、強烈な……

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