Got messed up (2)

 五限目のチャイムが鳴り、教室の扉が開いた。

「あちらはミサキ先生。現代文を担当してもろとります」

 滑瓢が耳打ちをしてくる。教壇を歩く女性教諭の姿を見て、平はおや、と首を傾げた。

 薄いピンクのポロシャツに黒いスウェットパンツ。「いかにも学校の先生」といった地味な出立ちである。黒いセミロングに包まれた顔立ちは、整ってはいるが薄幸な印象で、化粧もほとんどしていないようだ。耳も尻尾も生えておらず、タマモとは違ってお胸も控えめで……いや、お胸はどうでもいい。

――彼女も妖怪なのか?

 平の目線に気付いたのか、ミサキはニッコリと微笑んで軽く会釈をした。平も釣られて会釈を返す。

 平はふと気づいた。教室の様子がおかしい。やけに静まり返っている。タマモの授業ではあれだけ騒いでいた三人娘も俯いて押し黙っている。ミサキ先生が入ってきてから、妙に教室の空気が重い。

――な、なんだろう。生徒に嫌われているのだろうか。実は見た目に反してもの凄く恐い先生だとか?

 不安の色を禁じ得ない平をよそに、ミサキは授業を始める。そして、さらに平は困惑した。

 ミサキは持ってきた大判の模造紙を広げると、黒板に磁石で貼り付けた。そこには「犬と肉」と題が書いてあり、読みやすいゴシックのフォントで本文が書いてある。模造紙を貼り終えてから一呼吸おくと、彼女はムージーから順に、段落区切りで音読をさせていった。現代文の授業でイソップ童話が適切かとか、そもそも教科書はないのかとか、そういった問題は別として、至極真っ当な授業の進め方ではある。

――あれ? すごくマトモじゃないか……

 これまでの授業が酷すぎたのも手伝って、平はホッとしていた。なんだ、普通の授業をする先生もいるじゃあないか。もちろん授業として改善すべき点はいくらでもあるが、他の教員の授業とも呼べない悪フザケに比べれば天国だ。まあ、みんなが静かなのは、面白みがないからに違いない。

 音読が終わると、ミサキは「はい、よく出来ました」と優しい口調で言った。そして続けざま、板書をする。


『問、犬はどうして肉を落としたのですか?』


 平は心の中で頷いた。やや短絡的ではあるが、無難な質問だろう。教科としての国語は、本文から読み取れることを確実に読み取るトレーニングだ。それに、このクラスの連中であれば、そのレベルの質問でも大半が答えられない可能性がある。

 ミサキは教室中をぐるり見渡すと、ニッコリと微笑んだ。

「はい、じゃあ、ユメちゃん。答えられますか?」

 瞬間、ユメの肩が微かに跳ねた、ように見えた。心なしか、教室の空気がさらに重くなっている。

――なんだ、この空気は……

 少し間を空けて、ユメがおずおずと立ち上がる。

「ヌ、ヌフフ……とうとうこの時が来てしまいましたな。良いでしょう。答えてみしょうトールギス……デュフ、デュフフ……」

 ゆらゆらと左右に揺れるユメを、ミサキはニコニコと見守っている。

「えー、つまるところ、犬はウマヤラシイ……もとい、デュフフ……羨ましいと思ってしまったのでありますな。それで欲が出てですな……」

「なるほど。もう少し詳しく教えてください。犬は何に対して羨ましいと思ったのでしょうか?」

 ミサキはユメの言葉を遮って追撃を加える。相変わらずニコニコしていたが、その口調にはどこか棘があった。

――なんだ? なんかおかしいぞ、あの先生……

「ええと、ですね。ジュフ……犬は、ですな、その、水面に映った自分の姿を他の犬であると勘違いしてですな、『あ、彼奴の方がデカい肉を持っている』なぞと思ったのに相違いないのであって……」

「はい、全然違いまーす」

 至極一般的な「犬と肉」の解釈を述べていたユメの言葉を、ミサキが遮った。それはそれは、はち切れんばかりの笑顔だった。

「ヌ、ヌフフ……すまない、皆の者……」

 ユメが謎の一言を残して着席する。ミサキの笑顔と反比例するように、教室の空気が一気に澱んだ。

「それでは解説をしますね。まずこの犬というのは、文字通りに解釈してはいけません。昔から飼い犬に手を噛まれるという諺があるように、この犬というのは、いわば奴隷の暗喩なワケですね」

――ほうほう、犬が奴隷のメタファー。これは斬新な解釈……かいしゃ……いやいや、何を言ってるんだ、彼女は!

 平は呆気に取られてミサキの顔を見る。彼女の笑顔が、どこか病的なものを纏っているように感じられた。

「さて、では犬、つまり奴隷の持っていた『肉』とは何を指しているのでしょうか。その裏にはこんな話があるのです」

「この奴隷の主人は、非常に奴隷を大切にする人でした。他の金持ち連中が奴隷をビニール傘のように使い捨てるなか、彼はきちんとした衣食や暖かい寝床まで奴隷に与え、家族同然の扱いをしていたのです。しかし、人間とはあさましいものです。いくら他の奴隷より恵まれているとはいえ、それは飽くまで主人や第三者の目線。奴隷当人にとって、自分が奴隷であるという事実は変わりないのです」

 ミサキの笑顔は急速に病みついていく。目が霞んでいるのか、ミサキの背後から黒い靄のようなものが湧き出ているのが平には見えた。

「奴隷は自分の出自を呪い、また、自分を奴隷として働かせている主人のことを呪いました。そしてある日、彼は超えてはならない一線を越えてしまうのです。自らの手の中でヌラリと赤黒く光る凶刃、どうして……という顔で崩れ落ちる主人。奴隷は倒れた主人に馬乗りになると、何度も何度も刃を突き立てました。もう二度と、その男が立ち上がることのないように。自分をがんじがらめにした鎖を残さず断ち切らんとするように……」

 もはや生徒全員が、ガックリと肩を落として俯いていた。平は小刻みに震えていた。目の霞みなどでは決してない。七体の黒い影がミサキの背後から這い出し、それが教室全体にドス黒い瘴気を撒き散らしているのだ。

「奴隷はそのまま遁走しました。しかし、自由を手に入れたと思っていた彼を待ち受けていたのは、奴隷生活などよりも遥かに過酷な日々でした。いつ来るか分からない追手の影に怯え、しけったくさむらに身を隠し、食う物も寝る場所も保証されない地獄。それでも、あのがんじがらめの日々よりはマシだと自分に言い聞かせるのです。彼は深い森の中に入り、彷徨の日々を重ねました。そして、ようやく川を見つけ、久々の飲み水に有り付こうと駆け寄ります。そして、奴隷は見てしまいました。水面に映る自分の顔を。血に染まり、ガリガリに痩せ細った、呪われし顔を……」

 教室を漂う瘴気が、生徒たちに纏わりついていく。彼らは一人、また一人と席を立ち始める。ポツリポツリと覚束ない足取りで歩き始める。向かう先は、教室の窓。

――あれ? これ、拙いんじゃないの?

「奴隷はそこでようやく認めました。自分は、奴隷だったからこそ幸せだったのだと。鎖に繋がれ、餌と寝床を与えられねば所詮生きていけない犬畜生同然の身の程だったのだと。何と思いあがったことをしたのか、自責に喘ぐ奴隷の脳裏に、優しかった主人の記憶が駆け巡ります。人の記憶とはなんと意地の悪いことでしょう。あれほど憎くて憎くて、一刻も早く抜け出したくて堪らなかった日々の記憶が、途轍もなく輝かしいものとして思い出されていくのです。しばらく蹲って嗚咽を押し殺していた奴隷でしたが、ふと、彼の中で何かが切れました。彼は突如狂ったように哄笑すると、川へと身を投げ……」

 平は席を立ち、駆け出した。先陣を切って窓から飛び降りようとしていたガサブロウの腰にしがみつくと、死に物狂いで引き留める。ミサキに応援を求めても無駄だった。彼女は嬉々とした笑顔で、さらに持論を展開しようとしている。ガサブロウは細身の見た目に反して力が強く、その上極度の多汗症なのか、ヌルついて上手く掴めない。

「お、おい!待て!早まるなガサブロウ君!まだまだ人生楽しいことがいっぱいあるぞ! ほら、オッパイとか、オッパイとか、オツパイとかアァ!」

 半狂乱でオッパイを連呼する平の声を無視して、ガタロウはいよいよ窓の桟に足をかける。

――ああ、もうダメだ。ガサブロウ君はオッパイ派じゃなかったのか……

 絶望した平の耳に、チャイムの音が鳴り響いた。同時に黒い靄が消え、生徒たちが我に帰る。ヘナヘナとへたり込んだ平の顔をガサブロウの屁が直撃し、彼はそのまま気を失った。


   ※


 再び保健室に運び込まれた平は、ベッドの上でゲッソリと項垂れていた。だが、その原因を教頭は理解していないようだった。

「すんまへんな、病み上がりに無理させてしまいまして」

「いや、別に……」

 平は言葉を濁した。本当のことを言っても仕方がないと思っていたし、言うつもりもなかった。だが……

「どないでしたか。優秀な教員にやる気溢れる生徒たち。素晴らしいやおまへんか。平先生、どないです? 授業をやってもらえる気になってもらえましたか?」

 能天気極まりない言葉に、平の堪忍袋の緒が切れた。

「どの口がそんなことを言っているんですか! やってもらえる気になった? 誰があんな悪ふざけに付き合うと思っているんです?」

「わ、悪ふざけェ?」

 教頭のいかにも心外という顔が、平の怒りに油を注いだ。

「悪ふざけ以外の何ものでもないでしょう。ましかまるだの源スーチーだのハゲだのハゲだの! 挙句生徒を鬱状態にしてあわや集団自殺なんて、お笑いにもならない! それに何より許せないのは、形だけの理解度確認です。結局サトル君しか答えられていないじゃないですか。よく出来る生徒に頼って形だけ授業を締めくくるなんて、一番やってはならない手法ですよ」

 教頭は俄かに表情を緩めると、乾いた笑いを漏らした。

「ああ、サトルでんな。彼は決してよく出来るわけやのうて、相手の心が読めるんですわ。だからこっちが正解を心に浮かべてさえおれば、絶対に答えられるという算段でおまして」

 平は絶句した。

――話にならない……

「とにかく、僕はこれ以上ここにいるつもりはありません。帰る方法を教えてください」

 鼻息荒く吐き捨てた平に、教頭はいかにも困ったという顔を向けた。

 少し離れた場所から、クズハが不安そうに二人のやりとりを見守っていた。

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