Mad house (2)
先ほどまでの喧騒が嘘のように、教室が静まりかえっていた。
「せ、先生が、こ、困っているじゃないか。し、静かにして、は、話を、き、ききき、聞こうよ……」
振り絞られたその言葉に反駁する者はなかった。
かといって、賛同する者もいなかった。
一切の呼応はなく、教室中が黙りこくっていた。だが、単なる無視とも違う。狐三人娘や狸のバカップルは哀れむような目線をムージーに向け、真面目連中は我関せずといわんばかりに俯いている。
それが拙い静けさだということを、平は直感していた。
お決まりだ。やがてお喋り女子たちかバカップル辺りが、ムージーのことをせせら笑い始める。それを皮切りにクラスの連中が嘲笑を始め、最終的には収拾のつかない事態になる。そうなれば、勇気を振り絞った哀れな真面目ッ子が深く傷つくことになるだろう。
――だめだ。それは避けねばなるまい。僕が何とかしてフォローをしなければ。だがどうする? あからさまに彼を褒めると、ムージー君が後でイジメられるかもしれない。だが僕が道化になってしまえば、彼を茶にしたようにも取られかねない……
平は一瞬迷ったが、意を決して口を開こうとした。が、彼の声は遮られた。まるで見計らったようなタイミング。その声は、お喋り女子のものでも、バカップルのものでもなかった。
「へえ、案外と度胸あるんだなァ、お前」
悪意に満ちた口調だった。平は声のした方を振り向いた。教室の真ん中、いつの間にか目を醒ましたヨルが、机に乗せた足の先を見ながら冷酷な笑みを浮かべていた。彼の言葉へ呼応するように、ワッチがのそっと立ち上がる。
――拙い……
これから繰り広げられる惨劇は想像に易かった。
「お、おい、ワッチ君。座りなさい」
ワッチには平の声など聞こえていないようだ。怯えるムージーに大股で一気に詰め寄ると、両腕を振り上げる。平は慌てて駆け出した。
「ちょ、やめなさ……」
制止も虚しく、太い腕が華奢な肩へと振り下ろされた。間に合わぬことを悟った平が思わず目を逸らした、次の瞬間……
ポンッと、間の抜けた音が響いた。
「へ?」
「へ?」
平とムージーの口から同時に声が漏れる。
ワッチが振り下ろした手は、ムージーの肩へ優しく手を置かれただけだった。呆気に取られて顔を上げたムージーに、ワッチはニカッと歯を見せる。
「まったく、見直したぜ!」
筋肉の塊は地鳴りのような声で笑うと、ムージーの肩をユッサユッサと揺さぶった。
――な、なんだ。案外良い奴じゃないか……
平は拍子抜けして、引き攣った笑いを浮かべた。
ハッピーエンド(仮)
『ワッチ君は強面に見えて実はお人好しなマッチョマンでした。二人の間には、熱い熱い友情が芽生えたのです。
ワッチ君は楽しそうに笑いながら、いつまでもムージー君を揺さぶっていました。
いつまでも、いつまでも、揺さぶっていました。
いつまでも、いつまでも……
ユッサユッサ、ユッサユッサ……
いつまでも、いつまでも……
ユサユサユサユサゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさ
………………
ブォンブォンブォンブォンブンブンブンブンブンブン!』
ハッピーエンド(仮)終了
「な、何をしてるんだアァァ!」
加速度的に速くなっていく前後往復運動を目の当たりにして、平は再び地面を蹴った。既にその速度は尋常でなくなり、ガクンガクンと揺れるムージーの頭が残像を生んでいる。
「ちょっと、やめなさい!マジでやめなさァい!」
ワッチは平の制止など気にも留めず、極めて楽しそうにムージーの頭を揺さぶり続ける。速度はぐんぐんと増し、もはや残像は六つに増えていた。
「ダメだ!そんなことをしたら脳味噌がバターになって、味噌バターになってしまう! アハハ! 美味い! 否、マズい! 味噌バターは美味いがそれはマズい!」
あまりの光景に意味不明なことを口走りながら、平はワッチの右腕に組み付いた。だが、ワッチの膂力は想像を遥かに超えていた。どうすることも出来ず、哀れな英語講師は組み付いたまま一緒に振り回される。身長一七六センチ、体重六九キロ、ザ・中肉中背の平がまるで赤子である。三半規管と脳味噌がグチャグチャにシェイクされていく。
そして、襲いくる眩暈と吐き気の中、平は妙な音を聞いた。
ポン……
…………ペシャ……
音のした方を恐る恐る見て、平は思わず小さな悲鳴を上げた。
床に目玉が転がっていた。それがムージーのものだということは疑いようがなかった。恐らく、あまりの勢いで揺さぶられたせいで、目玉が飛び出したのだ。
「ええぇぇ!目玉ァ!メェェダマアァァ!」
平が頓狂な声を上げると同時に、もう片方の目も飛び出した。それでもなお凶暴な腕力による加速は止まらず、哀れな少年の顔面から次々に……
鼻が
口が
眉が
無数の残像の中から、ポンポンと飛び出していくのだ。
「ちょ! らめえぇえ! いろいろ飛んでる! いろいろ飛び出してるからあぁぁ!」
平が悲鳴を上げる一方、ワッチは歓喜の雄叫びを上げる。
「ひゃあぁぁ! コイツァ、コイツァ面白えぇぇぇなあぁぁぁ!」
それからしばらく揺さぶりが続いたが、いよいよムージーの顔面から飛び出すものが無くなると、ワッチはムージーの体を右手でヒョイと持ち上げた。
「さあて、仕上げだ。何メートル飛ぶかなァ!」
言ってから、今度は右腕にすがりついたまま目を回している平の襟首を左手で摘まみ、腕から引き剥がす。そして、
「お前もついでに飛ぶかァ? ニンゲン風情がァ!」
と、両腕同時の投球フォームに入る。投球先が窓の外であることは明らかだった。
――拙い、し、死ぬ!
ギリギリと巨大な二の腕に力が込められる音がする。平は既に小便を数滴漏らしていた。
「さあて、行くぞ! 三……二……」
「一」の声と同時に、ガラガラッ……と、教室の扉が開く音がした。
「アンタら! 何やってんだい!」
ドスの効いた女の声が響き渡り、ワッチがビクリと動きを止める。狐三人娘が嬌声を上げた。
「キャアァァ!タマモセンセエェェ! かわいい!かーわーいーいぃぃ!」(ナナ)
「ヌ、ヌフフ…… タマモ氏、今日も性癖に刺さりますなぁ……」(ユメ)
「……」(クーちゃん)
「五月蠅い! 囀るんじゃないよ、このメスガキども!」
「キャアァァ! 怒ってる顔も素敵ィ! 叱って! もっと叱って!」
「ドゥフフ…… たまらんですなぁ……」
「……」
――た、タマモ……先生……?
平が朦朧とした意識で教室の入口に目を遣ると、そこには艶やかな黒髪をピッチリと後ろで束ねた女がいた。柳眉を釣りあげ、銀縁眼鏡をキラリと光らせて仁王立ちしている。黒のタイトスカートにワインレッドのサテンシャツ。ピッチリとフィットしたスーツによって強調された、豊満なボディライン。
そして、頭にピンと立った漆黒の狐耳と、背後にフサフサと蠢く漆黒の九尾……
――うああぁっ! エロい! 典型的エロ女教師だッ! ブラヴォ! BRAVO!
平の意識は一瞬にして覚醒した。脳内で各国紳士たちのスタンディングオベイションが沸き起こる。
タマモはピンヒールの音を響かせてワッチの方へと近づいていく。
平は気付いていた。彼女が姿を現してから、ワッチは完全に固まっている。当然だろう。タマモという名前から容易に想像がつく。玉藻前……謂わずと知れた、傾国の妖狐。その匂い立つ妖艶にアテられたら、どんな男だって全身のあらゆる部分をカチコチに……
――いや、違うな……
平はそこで平静を取り戻した。先刻から微かな震えが伝わっている。それは他ならぬワッチの震えであるということは明確だった。
タマモは一気に距離を詰めると、美しい顔をぐいとワッチの耳元へ寄せた。
「アンタ、またそうやって弱い者イジメをしてるのかい? まったく、詰まらない男だねぇ。いいかい、弱い者イジメなんてのはね、自慰と一緒なんだよ。人前で自分の自尊心をイジイジして悦に浸ってるだけ。まるで覚えたての男の子。ああ恥ずかしい。恥ずかしい男の子だねぇ……」
ゾッとするような色香が、発せられる一文字ごとに纏わり付く。聞く者の被虐嗜好を引き摺り出すような蔑みだった。巨体の震えが大きくなっていく。
「フフ……そんなに人前でシたいのなら、アタシが見守っててあげようかい?」
タマモは悪戯っぽく言うと、ワッチの耳にフッと息を吹きかけた。その瞬間、巨大な筋肉の城塞がビクッと跳ねる。平は固唾を呑んでことの成り行きを見守っていたが、内心ものすごく羨ましく思っていた。
しばらくワッチは硬直していたが、やがて一つ舌打ちをすると、ムージーと平を乱雑に投げ捨てた。まだ完治していない腰を強かに打った平の喉から、「アギョッ」という珍妙な音が飛び出る。
「ケッ……あいにくババアには興味ないんでね……」
捨て台詞を吐いて席に戻ったワッチだったが、微かな前屈みになっていた。
平はしばらく悶絶していたものの、やがて少しずつ痛みは引いていった。だが、ホッとしたのも束の間、重大なことに気が付いた。すぐさま蹲っているムージーの元へ駆け寄る。
「ム、ムージー君! 大丈夫か? 安心しろ。まだ目も鼻もその辺に転がっている。すぐに救急車を呼ぶからな。大丈夫、現代の医療は凄いんだぞ。かのキング・オブ・ポップだって、手術中にポロッと取れた鼻が綺麗さっぱり元通りにくっついたんだから、君の目や鼻や口だってすぐぅわああぁぁぁっ!」
ムージーを抱きかかえた平は卒倒しそうになった。その顔面には、あるべきはずの物が何一つ無かったのだ。否、そもそもあるべきはずの物は床に転がっているわけだが、そういう意味ではない。
鼻が取れた跡も
口が裂け飛んだ傷口も
眼球が入っていたはずの眼窩さえ
無い……
顔全体がツルリと、窪んだゆで卵のようになっているのだ。
「お、おお、お化けだあぁぁ!」
平は思わずムージーの体を打ち捨て、尻餅をついた。哀れなムージーはゴロゴロと床に転がったが、やがてウンウン唸りながら床を這い始めた。どうやら床に転がった顔のパーツを手探りしているらしい。
カツン、と平の目の前でヒールの音が鳴る。
「お化けって……今さら何を言ってるんだい。まったく、騒がしい殿方だねぇ……」
呆れた声で言うと、タマモはその場にしゃがんでムージーと一緒にパーツを拾い始めた。タマモが目玉を拾ってムージーに手渡すと、ノッペラボウは恭しく頭を下げ、右の眼窩(とおぼしき場所)に目玉をあてがった。ズルッと吸い込まれるように、目玉が顔面に同化していく。
「ムージー、アンタもアンタだよ。やられっぱなしで悔しくないのかい、まったく……」
小言をこぼしながらも、タマモは甲斐甲斐しく目玉や鼻を拾ってムージーに手渡してやる。
始めのうちこそ異様な光景に惑乱していたが、やがて彼らがコスプレなどでなく正真正銘の妖怪なのだという事実を飲み込むにつれ、現状を受け容れている平がいた。自身でも信じられないほど急速に、である。
――タマモ先生、案外と優しいんだなァ。めちゃエロい上にツンデレとか最高だよなァ……
いつの間にやら、そんなことをホンワカと考えていたのだ。
ムージーの顔が元通りになる頃には、平はすっかりタマモとムージーの心温まる触れ合いに見惚れていた。否、正確を期すのであれば、平は途中からある箇所に見惚れていた。否、むしろ、そこだけを凝視していたといってもいい。
他でもない。
しゃがんだタマモのタイトスカートから伸びる脚線美……
そして、その内腿から時折見え隠れする黒いレースの小宇宙……
「ふう、これで終わりね。その眉毛つけたら席に戻りなさい。もう授業始まるから。平先生は後ろの席で授業見学…………ちょっと、平先生?」
この世の理を悟ったが如き尊顔で昇天しかけていた平は、タマモの声でふと我に返った。既に彼女は立ち上がり、平のことを見下ろしている。その眼差しにどこか軽蔑の色が込められているのを察して、平は咄嗟に立ち上がった。もちろん前屈みで。
「まったく、ボーっとしてんじゃないよ。困った殿方だねぇ……」
タマモはそう言うと、踵を返して教壇へ上がった。振り返りざま、妖艶に笑った……ように、平には見えた。
教室の後ろへ向かう平とすれ違いざま、ムージーが声を掛けてきた。
「あ、あの……」
「うん?何だい?」
ムージーは少し顔を赤らめると、タマモの方を気にしながら平に耳打ちした。
「く、黒……でしたね」
コイツはデキる奴だ。平はそう確信した。
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