Mad house (1)

 古ぼけた教壇の上で、平太郎は激しく後悔していた。

 教室の真ん中で正々堂々高鼾を掻く男子生徒。チャイムが鳴ってもお構いなくお喋りに興じる女子生徒。教室の後方では、カップルが人目もはばからずにイチャついている。


 誰一人として平の話など聞く気がない……


 辛うじて如何にも真面目そうな生徒が数人、平の表情を伺い伺いオロオロとしている。無論、彼らに声を上げる度胸が無いことは一目瞭然だった。

「な、なんじゃあ、こりゃあ……」

 典型的学級崩壊。平は口を半開きにしたまま突っ立っていた。


   ※


「古の時代、人間と我々――便宜上、妖怪と呼ばしてもらいますが――両者はつかず離れず、互いの『境』を守って、上手いこと共存してきたのでおます」

 呆然とする平を尻目に、滑瓢教頭は語り始めた。少し高く、張りのある声で紡がれる関西弁。さらりと着こなした薄鼠の着物と緩く締めた焦げ茶の帯も相まって、さながら上方落語である。早く戻らねばという焦燥に駆られながらも、平はついその饒舌に聞き入ってしまっていた。

「もちろん諍いが起こることも御座いました。図に乗った妖怪が人様を傷つけることも、その逆も御座いました。しかしまあ、おおかたは、仲良うやってきたのでおますな。ところが、幕政が終わり、西洋の文化が流れ入ったことで、日本人の社会はそれまでに無いほど急激に進歩していきました。我々妖怪どもは、次第に人間の文明についていかれへんようになったのでおます。それでも、人間は暗黙のうちに我々との住み分けをしておりました。昔から守ってきた伝統や伝承というものを、深く意味を理解せずとも引き継いでいくことでね」

 そこまで言うと、滑瓢はやや遠い目をした。一つ咳払いをして続ける。

「しかしながら、時代が進むにつれ、事態が急速に変わりだしたのでおます。特に大戦後、日本人は戦後復興のために死に物狂いで社会を発展させましたな。それが高度経済成長を呼び、日本は世界随一の経済大国となった。それは素晴らしいことでおます。しかし、社会の発展に邁進し、日々に忙殺される中で、彼らはこの世界が自分たちだけのものではないということを忘れていったのです。山、川、海、畜生、そして我々妖怪……そういった、人ならざるモノたちと折り合って生きるための伝統、伝承を忘却していったのです。伝統や伝承というものは、ただの昔話ではありまへん。そこには人間と、人間でない者たちとの間で暗黙裏に交わされた約束事が秘められていたのです」

「そして、それらを忘却の彼方へ追いやったとき、人間は他の存在との『境』を踏み越え始めました。我々は次第に追いやられ、世間の片隅でひっそりと暮らさざるを得なくなったのでおます。無論、人間に抵抗する者もおりましたが、文明に遥か取り残された妖怪が人間に適うはずもありません。否、それどころか、科学が唯一の拠り所になった多くの人間には、我々のことなど認識だにされなくなっているのです」

 次第に熱を帯び始めた講釈に平の顔が引き攣り始めたのを見て、滑瓢はまたコホンと咳いた。

「すんまへんな、少々熱くなってしまいました。……そんなわけで、妖怪の中には人間を強く恨んでおる者もおるのです。しかし、我々は違います。人間が死に物狂いで発展を求めたのは、決して悪いことやおまへん。我々が隅へ追いやられることになったのは、我々が試験も学校もないぬるま湯の生活に甘んじてきたから……それは重々分かっておるのです」

 そこで滑瓢は再び一つ咳払いをすると、平の背後に一つ目配せをした。いつの間にかベッドを降りていた狐耳の少女が、滑瓢に湯飲みを手渡す。

「オホン……ありがとうございます。クズハ先生」

――ほう、あの子はクズハ先生というのか。名前もかわいいじゃないか。……いや、そんなことより……

 平には何となく分かり始めていた。、滑瓢の言わんとすること、そして、どうやら自分が厄介なことに巻き込まれそうだということが。

「そこで我々は、この学校を作ることにしたのでおます。そう、教育。社会の発展に一番必要なものは教育なのです!」

 滑瓢はそれ以上何も言わなかった。どうやら続きは無いらしい。大きな頭を上気させ、目を細めて平を熱っぽく見つめていた。まだまだ講釈が続くと思っていた平は肩透かしを食らう形になった。

「あの、ええと……それで……?」

 唖然とした顔の平を見て、滑瓢は何か勘違いしたようだ。

「ああ、安心してください。我々は決して人間を打倒しようなどとは思てはおらんのです。ただ、せめて人間に少しでも近づいて、再び共存の世を作りたいと、ただそれだけの話でして……」

「いや、そうではなくて……僕を連れてきた理由を聞きたいのですが」

 滑瓢は目を丸くすると、キョトンとして平の顔を覗き込んだ。

「なんや、最前からエラい察しの悪い人でんな。ですから、平先生にはこの学校で授業をして頂きたいのです。英語の授業を。やはり人間に追いつくには、国際的な人材を育成することが肝要でおますからなァ」

「英語……ですか? 妖怪に英語を……?」

「左様でおま」

 平は唖然としたまま言った。

「いやあ、無理です」


   ※


 結局、平は滑瓢教頭の「取り敢えず授業見学だけでも」という口車に乗せられ、翌日、教室へ赴くことになったのである。

 学校といっても、校舎棟は古い鉄筋コンクリート四階建ての一棟だけだった。朝から教頭に一通り学校の敷地を案内され、再び校舎に入ると、いつの間にやら騒がしい声が聞こえている。教頭に促されるまま階段を二階に上がると、喧騒が大きくなる。案内された教室の入り口には、「一年」とだけ書かれた教室札が半ば傾いた状態で刺さっていた。ぼんやりとその札を眺めていた平は、そこで見事にハメられた。いつの間にか平の背後を取っていた教頭が「ほなまあ、まずは自己紹介」と平を教室に押し込み、自らは雲隠れしてしまったのだ。


 一刻も早く塾へ戻らねばという焦燥は未だにあった。だが一方で、半ば諦めの気持ちも芽生えていた。

 昨日、平はクズハが返してくれた通勤鞄からスマートフォンを取り出した。充電は切れていたが、祈るような気持ちで電源ボタンを押し続けると、奇跡的に電源がついた。そしてロック画面に表示された日付を見た瞬間、平はガックリと肩を落としたのだった。

「一週間もお目覚めにならなかったので、一時はどうなることかと」

 というクズハの言葉は、どうやら出鱈目ではなかったようだ。

 一週間も音信不通だった者が「やっぱり馘首は勘弁してください。何でもしますから」などと土下座したところで、何の説得力もないだろう。それに、電話やメールの着信通知が一切無かったことが平に追い打ちをかけた。自分は完全に見限られた、あの塾にとって自分はどうでも良い存在となったのだ、と。スマートフォンの画面とともに、平の希望も暗転したのだった。


――いやあ、それにしても……

    「あー、皆さーん」

――誰一人として聞いちゃいないな……

       「えーと。ボクタイラでーす」

――えーと、うん……

              「皆さーん、聞いてくださーい」

    

――無理……


 平は諦観の笑みを浮かべると、取り敢えず生徒を観察することにした。そうそう、教師がまずやるべきは生徒の名前を覚えることだよね。まあ、顔を覚えたところで引き受ける気はないんだけどね。覚えておくに越したことはないからね。

 平は心の中で言い訳しつつ、滑瓢に貰った座席表と実際の生徒を照らし合わせていく。


――窓際に真面目そうなのが固まっているな。

  前から順に坊ちゃん刈りがムージー。

  肩までの黒髪に白いハンチング帽を乗せたメガネ君がガサブロウ。

  ボサボサの茶髪で窓の外を見ているのがサトル……

  ……なんじゃこりゃ。生徒名簿に渾名が載っているのか?


 廊下側の席では、クズハと同じような狐耳の女子が三人、お喋りに明け暮れている。


――金髪の盛り髪にと黄金色の耳を生やしたギャル系がナナ、

  白髪ポニーテールに黒縁眼鏡、焦げ茶の耳を生やした巨乳っ子がユメ、

  青や緑のハイライトが入った黒髪ボブに黒耳のロリっ子がクーちゃん……か。


 よく見ると、喋っているのは殆どナナばかりだ。ユメは「デュフフ」だの「ムフフ」だの奇妙な笑いで相槌を入れているだけだし、クーちゃんに至っては退屈そうに蜻蛉玉の腕輪や耳飾りを弄っている。ウィンドチャイムのように連なった管状の蜻蛉玉が揺れるたび、チリチリと微かな音が響いた。


 教室後方でイチャついているカップルがキチベーとオフク。二人揃ってぽっちゃりした小柄の体形。やはり獣の耳がある。お喋り女子連中の尖った狐耳とは違って丸っこい。ユメと同じような焦げ茶の毛色だが、黒い縁取りが特徴的。恐らく狸のつもりだろう。


――実に暑苦しいな……


 そして、教室のド真ん中で高鼾をかく二人。


 腕を組んで座る巨大な筋肉の塊がワッチ。二の腕だけで人間の赤ん坊ほどはあるだろう。深い剃り込みの入った赤髪坊主に、車輪の形をした巨大なイヤリング。当然のごとく眉毛はない。確実に二、三人は殺している。

 その前で机に脚を乗せているのがヨル。端正な顔立ちだが、濃い灰色の蓬髪で襟足が鬣のごとく散らかっている。大きく開けた詰襟から覗く赤シャツに右目を覆うメカメカしい眼帯……実に濃厚な厨二病臭だ。

――いやあ、しかし二人とも、気持ちよさそうに寝ているなァ……

 平は改めて教室全体を見渡す。

――なんというか、みんな妖怪というにはあまりにヒトっぽいよなァ……

 全員が人間の姿形をしているのはもちろん、男子は学ラン、女子はブレザーと、統一された制服が更にヒトっぽさを強調していた。

――やっぱりコスプレだよなァ。だとすると一体ここは何なんだ。俺は何をやらされているんだ。コスプレ好きの集団に担がれているのか? タチの悪いドッキリなのか? いやいや、本当にここが学校という可能性も捨てきれない。例えば勉強嫌いの子どもたちに勉強を楽しんでもらう工夫として、先生も生徒もコスプレでの授業を実施しているとか……

 考えるうち、平は馬鹿馬鹿しくなった。諦めの境地に達し、現実逃避を始める。

――ああ、もうどうでもいいや。クズハ先生に会いたいなァ。あわよくば膝枕してもらいたいなァ。嗚呼、クズハ先生、クズハ先生カワイイヨ、クズハたんハアハア……

「み、みんな……」

 後頭部へ全感覚を集中して末端神経にクズハの柔らかな膝枕と同じ感触を現前せしめ、視床下部に作り出した桃源郷へとダイブしつつあった平の意識を、蚊の鳴くような声が引き戻した。見ると、窓際最前列、坊ちゃん刈りのムージーが立ち上がっている。見るからに華奢な男子だが、立つと線の細さが際立つ。そのヒョロヒョロとした体が、可哀そうなくらいにプルプルと震えていた。

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