タイラタロウの学校改革 第一部 英語講師地獄変
澤ノブワレ
Beginning
六月下旬 某日
窓を打つ雨音に共鳴して、微かな痛みが背中を苛んでいた。
うっすらと目を開けた
――眩しい……
目が慣れてくるにつれ、平はどうやら自分が仰向けに寝ているのだと認識した。石膏ボードの天井が視界の中で畝っている。萌葱色のフワフワとしたものが頭部を覆っている。眩しいのは、その透き通る緑が部屋の明かりを反射しているせいらしい。
温かく柔らかい感触が平の後頭部を支えている。日なたのような優しい匂いが心地良い。
目線を臍の方へ下げてみる。切れかかった蛍光灯が文句を垂れている。右手側では、大粒の雨が窓を打っている。さらに限界まで視線を下げていくと、足先に事務机の天板が見えた。
日なたの匂いに混じり、微かに鼻を突く匂いがある。どこか懐かしい、やわらかな刺激臭。
――クレゾール? どこだ? ここは……
平は胡乱な頭で考えながら、今度はグリンと目を剥くような形で目線を上にやる。瞬間、アッと声が出そうになるのを必死で抑えた。彼はようやく、自分がどういう状態になっているのかを正確に認識したのだ。
――ハアァァンッ!これは……O・HI・ZA・MA・KU・RA!
心臓が跳ね、加速度的に鼓動が速くなる。無理もない。彼は人生で一度も母親以外の女性に膝枕をしてもらったことなど無いのだ。しかも、しかもである……
――も、ものすごく、可愛いじゃァないか!
平に膝枕をしていたのは、臙脂の着物を来た少女だった。彼女は俯き、平の顔を覗き込む形でうつらうつらとしている。萌葱の正体は彼女の豊かな毛髪だった。それが滝のように流れ落ち、平を包み込んでいるのだった。
ふっくらとした輪郭に麻呂眉と低めの鼻……あどけない相貌であるのにも関わらず、彼女の全身からは母性が溢れている。
――ま、まったくもって天使じゃァないか! もしかしてここは……heaven?
よく見ると、少女の毛髪にはところどころに浅葱色の斑模様が薄く浮かんでいる。そして、頭には尖った耳が二つ。斑模様と同じ色の、先端にチョンチョンと毛の飛び出たそれは、まるで狐の……
――しかし、天国にしてはヤケに現実味があるなァ。ふうむ……これは一体どういう状況なんだ? どうして僕はケモミミでモフモフな美少女のお膝枕で寝ているんだ。そういう趣向のお店に来てたんだっけ? コスプレ・リフレクソロジー的な…… まあ、それは別の意味で天国だが…… いやいや、そんなところに入店した覚えはないぞ。神仏に誓ってもいい。今までに一度もそういったお店を利用したことなどない。というか……
平はふと我に帰った。
今まで何をしていたんだっけ。
平は必死で記憶を辿ろうとした。だが、余りに濛々とした記憶の海に、彼は思わずウーンと呻り声を上げてしまっていた。
口をつぐんだ時には遅かった。向き合った少女の目が、ゆっくりと開いていく。
大粒の翡翠が二つ、じっと平のことを見つめた。
「あ、平先生、おはようございます」
寝ぼけ眼の微笑みに、平の理性がみるみる
「う、うわああぁぁぁぁぁ!」
平は微かに生き残ったよわよわ理性君たちを掻き集め、頓狂な叫びをあげて上体を起こした。と……
「オビャアアぁぁぁぁぁ!」
立て続けに、今度は悲鳴を上げて悶絶する。それまで微かに感じていた痛みが一気に増幅し、右腰の辺りから脳天に突き抜けたのだ。
「いけません。まだちゃんと怪我が治っていないのです」
平の背後から、少女が声を掛けた。柔らかくも、凜と響く芯のある声だった。彼女は平の肩へそっと手をかけると、その頭を再び自らの膝へ誘う。平はそれに任せたが、もはやその柔らかな感触を堪能する余裕など無かった。彼は痛みの正体を急速に思い出していた。
――そうだ。怪我……僕は、あの夜……
平太郎。二十六歳。
彼がとある零細学習塾で働き始めたのは二十二の春。音楽で生きていくという大言壮語を吐いて大学を中退してから、たった三年後のことだった。
充実した日々だった。待遇が良いとは決して言えなかったものの、彼は塾のことも生徒のことも愛していた。
だが、就職してから五年目となる今年、彼は大きなミスを犯してしまう。致命的なミスだった。生徒や保護者はもちろん、教室長を始めとした同僚からの信頼は失墜。彼は孤立した。何とか信頼を取り戻そうと奮闘したが、無情にも彼に突き付けられたのは、「
それでも彼は諦めるわけにはいかなかった。大学中退という十字架を背負って、ようやく就けた仕事。やりがいも感じていたし、もともと音楽と同じくらい教育にも興味があったのだ。その仕事を失うということが何を意味するか、平には十分に分かっていた。教室長に土下座をしてでもやり直さなければ……馘首を宣告された夜、彼はそう思いながら教室を後にした。
そして、その帰り道……
――僕は、背中を刺されたんだ……
ほとんど無意識に、平の手は背中へ回っていた。厭な感触が指先に触れる。悪寒が走った。一部分だけバリバリと固まったワイシャツの生地が、あの夜の出来事は現実なのだと実感させた。
厭な動悸を無理に抑え、平は口を開いた。
「僕のこと、助けて頂いたんですか?」
「はい。刺し傷が腎臓まで到達していまして、もう少しで危ないところでした。一週間もお目覚めにならなかったので、一時はどうなることかと」
陽だまりのような声に反して、言っている内容は物々しい。それに、どこか事務的なその調子が、平に得体のしれない不安を覚えさせた。
「ああ、そ、そうなんですね。何とお礼を言えばいいのやら……」
少女はふふっと笑うと、何でもないという風に首を振った。平は少しずつ疑念を持ち始めていた。彼女が腎臓まで達した刃傷を治療する外科技術を持ち合わせているようには見えない。この部屋にそんな設備があるとも思えない。
――ここは病院なのか? とすれば、彼女は看護師? こんな獣耳に着物の看護師がいるだろうか……というか、看護師がいち患者に膝枕などというサービスを……?
「ここは、一体どこなんですか?」
少女は首を傾げた。少しばかり考えてから口を開く。
「そうですね……私たちからすれば、『境の内側』とでも言いましょうか。内側とか外側とかいうのは、飽くまで人間的な概念ですが」
「人間的な概念?」
「はい。つまり、ここは人ならぬ者の住む世界。あなた方の言葉で言えば、妖怪という呼び名が分かりやすいかもしれません」
ああ……と、平は心の内で苦い顔をしていた。この少女、外見が非常に好みなのはさておき、ちょっと頭がアレなのではないか。実は背中の怪我など極めて軽微なもので、自分はBJ先生顔負けのスゴウデ無免許医だいう彼女の妄想に付き合わされているのではないか。あるいは、本当にそういうお店に連れ込まれたのかもしれぬ。ケモミミコンセプトカフェ的な…… どちらにせよ、彼女の言うことを馬鹿にしたり否定したりするのは危険だろう。彼女の世界観にケチをつけた瞬間、豹変されて再び刃傷沙汰なんて笑えない。あるいは恐いお兄さんが駆け付けてくるやもしれない。平は出来るだけ少女の世界観を傷付けないよう、話を合わせることにした。
「ええと、なるほど。境の内側なんですね。しかし、助けていただいて申し訳ないんですが、僕はすぐにでも戻らないといけないんです。ちょっとのっぴきならない用向きでして。だいたいで良いので、ここの住所を教えて頂けませんか?」
「住所、ですか? さあ……私たちは、そういうものを定めておりませんから」
「じゃあ、建物の名前でも。ここは病院ですか?」
「いいえ。ここは学校です」
学校――ひとまず外科設備云々の話は置いて、平は小さく首肯した。部屋の造り、味気ない事務机、クレゾールの匂い。なるほど、ここは保健室か。学校なら好都合だ。職業柄、近隣の学校は全て頭に入っている。頭の中にチラついた「学校の保健室をコンセプトにしたお店」という可能性を一笑に付すと、平はにこやかな笑顔で少女に聞いた。
「どこの学校ですかね。西中ですか?それとも北小?」
また少女は首を傾げた。
「学校は学校です。西も北もありません」
平は流石に少しばかり苛つき始めていた。この少女は確かに可愛い。お胸はちょっと控えめだが、またと無いほどの超弩級ストライクだ。だが、それはそれ、これはこれ。何が目的かは知らないが、このままのらりくらり躱し続けられては堪らない。
「分かりました」
平は静かに言うと、ベッドに手をついた。今度は痛みがぶり返さないよう、慎重に上体を起こしていく。それでも時おり痛みが走り、微かな呻きが漏れた。
「ちょっと、平先生。まだ寝ていないとダメです。そんな体でどうするつもりなんですか?」
少女がやや強い口調で諫めるのも聞かず、平はようやく上体を起こした。見ず知らずの少女から「平先生」と呼ばれたことに小さな違和感は感じたものの、とくに気には留めなかった。
「だから言っているでしょう。僕は戻らないといけないんです」
「本当に、戻りたいと思っていらっしゃるのですか?」
「え?」
平は驚いていた。不意に少女からぶつけられた質問に対して。そして、その問いに「もちろんだ」と即答しなかった自分に対して。
ふと、凝固した血液の感触が生々しく主張してくる。
途端、体が小刻みに震え始める。
――戻るのか? 本当に……
――戻れると思っているのか? 本当に……
「それに……」
黙りこくってしまった平に、少女は元の優しい口調で話しかけた。
「それに、平先生をここへお連れしたのには、理由があるのです」
「……理由?」
「それについては、私から説明させてもらいましょ」
突如ベッドの左手から飛んできた声に、平は顔を上げた。
大きな頭をした、恐ろしく皺深い初老の男が立っていた。平は特段妖怪に詳しいわけではなかったが、何かの本でその容姿を見たことはあった。
「ぬ、ぬらりひょん?」
頓狂な声を上げた平に、男はニッコリと頭を下げる。
「如何にも。
――コスプレにしてはよく出来ているなァ――そんなことをボンヤリ考えながら、平は男の迫り出した額をボンヤリと見つめていた。
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