第32話 殺しはしたくない
俺が目の前の大樹こそ世界樹であることを教えたら学者たちの目は輝きだし、護衛の男は目を見開いて剣を握る手の力を強めた。俺の纏っている雰囲気が変化したことに気が付いたのだろう。
「ヘンリー・ディエゴ君、金は幾らでもやる……ここから離れてくれないか?」
「と、言うと?」
「これが本当に世界樹だとすれば世紀の発見……人間社会に絶大な影響を与えるだけの代物だ。そうなると国の総力を挙げて調査しなければならないのだが……個人が近くに住んでいて権利を持っていると言うのは非常に面倒くさいことになる。だから、ね?」
護衛の男は剣を抜いた。流石に反応が早い……だが、既に俺の逆鱗に触れているぞ。
「悪いが、この土地は俺のものだ。国から買い取ったものでもないしな……セルジュ大森林なんて国が管理していない土地でそんな横暴ができる訳ないだろ」
「一度開拓されればそれは国の管理下に置かれる。開拓者である君なら知っているはずだが?」
「わからない奴だな……人間に世界樹を売り渡すつもりはないって言ってるんだよ」
俺が剣を抜くよりも早く護衛の男が剣を片手にこちらに突っ込んできて、それに反応したグレイが男の剣を咥えて噛み砕いた。
「なっ!?」
地面に伏せていたから犬がいるぐらいにしか思われていなかったようだが、グレイの体長は既に人間の背丈を追い越している。それも世界樹の恩恵なのだろうが……力も相応のものになっている。
シルバーウルフ……リリエルさん曰く森の奥地にのみ生息している希少種らしい。その警戒心の高さから人前には姿を現すことが殆どないことから、人間からは伝説の狼として存在していることだけが語り継がれている。そんな狼にいきなり武器を破壊された男は、一気に距離を取ったが……グレイは既に男の背後に移動していた。
「……学者さん、ここは穏便に済んでいるうちにやめておきませんか?」
「何を言っている! こんなモンスターが出た時の為に君のような実力ある探索者を雇ったんじゃないか! これくらいで諦めてもらっては困る!」
「そうは言われましてもね……このモンスター、強さだけで言えば勝てる人間なんて殆どいませんよ」
男の言う通り、グレイの実力は既に圧倒的なものにまで成長している。シルバーウルフという森の奥地に住んでいる種族だからなのか、それとも単純にグレイが強いのか知らないが……その成長速度は異常だ。身体が大きくなっていく速度が早いのもそうだが、それ以上にグレイはいつの間にか天性の直観力と戦闘本能によってとんでもない実力を身につけている。既に、リュカオンと1対1で戦っても遜色ない……いや、下手するとリュカオンよりも強くなっているかもしれない。そう感じさせるほどに、グレイは強い。
「今ここで手を引けば……何もなかったことにできますけど、それでもまだ人類の発見のためとやらを優先して俺の土地を好き勝手しようって言うなら……徹底的にやりますか?」
脅しの為に上空から大量の剣を降らせる。
「わ、我々は権威ある学者だぞ!? このようなことをしてこれから先、まともにヨハンナでまともに生きていけると──」
「そんな脅しで退くなら、最初から提案を受け入れてますよ……この人は本気だ。このまま俺たちが退かなかったら、最悪……俺たちの命を奪うことまで想定している」
「ここは未開拓地だからな。人間が数人行方不明になってもあんまり気にする人はいないだろ?」
「ひっ!?」
勿論、威嚇だけで殺す気なんかない。
人間と敵対することはできるし、武器を持って戦うことはできる。モンスターみたいな怪物と戦って命を奪うこともできるし、痛みを我慢してなんとか堪えることはできる。けど、やっぱり人間を殺すのは俺には無理だ。
護衛の男は逃げの姿勢を見せたので、俺はグレイに視線だけで見逃してやれと伝えると、グレイはゆっくりとその身を移動させてマグニカまでの道を開けた。
「くっ! ふざけるな……探索者風情が──あぇ?」
俺とグレイの意識が逸れた瞬間に、学者が懐からなにかしらの武器を取り出してこちらに向かって放り投げてきたのが見えた。常人が投げたものを避けることなど造作もないことだから特に意識もしていなかったのだが、投げられた物は透明なガラス瓶のようなもので、中の物体が破裂することで容器を破壊、俺の方に向かって急加速してきた。
流石に意識してなかったところからいきなり急加速されたら避けることができない。傷を覚悟で頭だけは守ろうと腕を顔の間で組んだら、それよりも早く俺の前に氷の壁が形成され、学者と護衛の足が氷によってその場に固定されていた。
「……指定毒物ですか。こんなものを人間に向かって投げるなんて、国に知られたら投獄、最悪死罪もあるでしょうに……本当に手段を選ばないんですね」
「参ったなぁ……まさかあんたみたいな女までここにいるとは思わなかった」
護衛の男は、自分の凍り付いた足と凍てつくような視線を向けながら歩いてきたマリーの姿を見て、誰なのかをはっきりと認識したらしい。まぁ、俺みたいな甘い人間と違って、マリーは平然と同族でも殺してしまうだろうというイカれた倫理観を持っている。実際、俺に向かって薬品を投げた学者は、腕が凍結したことで声にならない悲鳴を上げている。
「マリー、殺すなよ」
「…………」
「殺すな……いいな?」
「はぁ」
なんだ、その俺の方が間違ってるみたいなため息の吐き方は。
学者がやったことはただの不法侵入だけなんだから殺すことないだろ。指定毒物とか聞こえたけど、別にそれだって当たる前にマリーがなんとかしてくれたんだから大丈夫だったんだから。
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