プロローグ・地球:後編

居間に向かう。

 真ん中には卓袱台ちゃぶだいがあり、1人の女性が胡座をかいて床に座っている。

 彼はそれを見ると、従姉あねに構わずのもとに向かった。


「おう、おかえり。お邪魔し」

「はぁ~……!」

「わっとと。」


 彼女が言い切る前に、彼は覆い被さるように抱き付いた。


「おい吸うな吸うな。」

「疲れた……」

「……チッ」

明音あかね、舌打ち。」

「気のせい。私料理の用意してるから……食べてくんでしょ?」

従弟これが残ってて欲しいなら。」


 彼は彼女――めぐむに抱き付いたまま、黙って頷いた。

 従姉あね――明音はまた顔を険しくして、包丁を握りしめながら台所に移った。


パシャッ


「よし、これでいっか。」


 めぐむは今撮った自身らの写真を見ながら、彼の頭を撫でる。


「で、今日は何あった?」

「朝は京虎けいこが横断歩道でふらついてて、その後はクラスのやつらが何人か来て、帰り際にはまた京虎けいこに詰められた。帰りに至ったは、先生とやった。」

「そっか、お疲れ。」

「そんで一生通知来てるし……」

「お前いい加減、5人くらいブロックしても良いんじゃないか?」

「それは流石に。何されるか分かんないし……」


 めぐむはそっかと答え、抱き付く彼に頭を寄せた。

 すると彼は、また一段と強く抱き締めた。


「てかマジでスマホ鳴りまねぇな。」

「あぁ……」


 彼がスマホを取り出して画面を確認していると、めぐむはそれを取り上げた。


「今くらいほっとけ。」

「っ……あぁ。」


 微笑み、少し腕に込める力を弱めた。

 めぐむの肩に顔を乗せたまま、目を閉じて、大きく呼吸する。少し前まで、いろんな感情が彼の中にあり疲れていたが、徐々に落ち着いていく。


ピーン……ポーン………


「え、誰だ?」

「お前今日誰か呼んだ?」

「いや、一切……思い当たる人はちらほら……」


 彼は思考を巡らせる。だが、出来れば今日は彼女と共にいたい。


「どっちか出てきてもらって良い~?今手ぇ汚れててさ~」

「あぁ、オレ出るよ。」


 めぐむから手を離し、インターホンの画面にに向かう。

 先ほどまで落ち着いていた気持ちが、徐々に崩れていく。不安か、焦燥か、気疲れか、或いは苛立ちか……


「はい、どちら様で……」


 画面には、1人の知人が映っていた。


京虎けいこ……」


 なにも言わず、大層暗い表情で佇んでた。


「どうした?」

『……』

「……開けるから、少し待っててくれ。」


 なにも言わない彼女だったが、彼は玄関に向かっていった。

 扉を開けるや否や、彼女は彼にもたれ掛かるように近付いた。

 もう一度彼が用件を聞こうとするが、それよりも早く彼女が口を開いた。


、さ……」


 その一言に、彼の背中はビクッと強ばった。


「やっぱり、もっと、ちゃんと話した方が、いや……話したいから……戻ろうと、したら、さ………」


 歪で鎮具破具ちぐはぐな羅列。徐々に感情が籠っていく。


「二人の……押江おしえ先生との声、聞こえたんだ。」


 彼の体はより強ばっていく。だが、汗ばむことや、困惑することはなかった。もう慣れたことだったから。

 ただただ「あぁまたか」という、鬱陶しいような、煩わしいような、でもそれ以上に悲しいような気持ちが体を強張らせる。


「ねぇ、先生と、そういう関係……てか、そういうことしたの?」

「……うん。」


 彼女はすっと答えた彼に、苛立ちを覚えた。だが同時に、切なさと惜しさを感じた。


「そう……」


 涙ぐんだ目を閉じて、諦めたような微笑みを浮かべる。彼の胸に頭をぐっと押し付け、乱れる呼吸を整える。


「ね、ねぇ、彼女いるんだよね?」

「あァ。」

「そうい、そういうのしていいの?もし、いいんだったらさ、わ、わた、し、私とだって……!」

「それは……」

「せ、先生は、お金、払ったからやったんでしょ?いいよ、渡すよ、いくらがいい?」


 鬼気迫る表情で詰め寄る。

 彼は慣れているとはいえ、普段静かだった彼女が初めて見せるその姿に気圧された。


「今すぐ渡せるよっ、ほらっ!ね?あ、そうだ、ここで話すのもあれじゃん?あ、上がっていい?今は明音あかねさんいるの?」


 否応なしに距離を詰め、中に入っていく。


「大丈夫か?」


 と、奥から声をかける。


「おい、めぐむ……」


 京虎は彼女を視認すると、握っていた札たちを落とし、靴を脱ぐことなく中に入っていく。

 彼はそれを抑える。


「はぁ、はぁ、はぁ!!お前、お前っ……!!」


 京虎は抑えられながら、激しく暴れる。呼吸を荒くし、血眼になって怒鳴る。


「お前がっ、なんでお前が……!!」

「京虎!だからっ、アイツは彼女だって言ってんだろっ!」

「~っ!!なんで、なんでよ!私の……は、私の場所でしょ!!ずっと、ずっと……!!」


 彼をつかむ力が強くなっていく。指と爪が食い込み、鬱血する勢いだ。


「お前がいなきゃ、私が!私がぁッ!!」


 めぐむを睨み、そう怒鳴る京虎。

 そんな彼女を、彼は掴んで話し、その瞳を見る。


めぐむを選んだんだ……」


 その言葉に、彼女は言葉を失った。先ほどまでの怒号が嘘だったように、何も言わなくなった。

 だが、大きく開いた瞳は依然怒りが籠っている。


「オレは京虎を嫌いじゃない、朝一緒に学校に行きたいなら一緒に行く、行きたいとこがあるなら時間を作る、してほしいことがあるなら」

「皆にそうでしょ!!?頼まれたら聞く、相談に乗る!!皆にそうしてる!!それに金を貢げば身体だって許す!!?」


 彼を突き放し、また怒鳴りつける。


「誰にだってすることをしてほしいんじゃない、他の人より嫌われたくないわけじゃない!!わかってるでしょ!!?私はっ……!!」


 まためぐむの方を見る。


「アイツじゃなくて、私を選んでほしいの!!お前に、お前のっ!!」


 そうして彼女は怒号ことばを止め、彼らの方へと歩いていく。


「やめて京ちゃん!」

「っ……明音さんっ、あなたはどうなんですか?なんであの人を、あの人のこと嫌いじゃないんですか!?」

「っ!!そんなのっ――」


 二人は怒鳴り合い、口論を始める。

 一方で彼らは静かに話し合う。


「ごめんめぐむ、来てくれたのに悪いんだが……」

「あぁ、うん。でもお前この後平気……なわけないよな。どうすんの。」

従姉ねえさんとどうにか……」


 その様子を見た京虎は、口論をやめ、彼らの方へ怒号の矛先を向けた。


「また、そうやって……!!」


 そして台所にあった、明音あかねが使っていた包丁を手に取り、彼らの方へ歩いていく。


「京!!やめなさ」

「うるさい!!!」

「ぁっ!!」


 静止しようとしてきた彼女を払うように、腕を振り上げた。刃は彼女の目元を掠めたようで、血が出ている。

 彼はそれを見ると、めぐむとの会話をやめ、明音の手当てをするように頼み、京虎の方へ向かった。


「おい……」

「はぁ、はぁ……!ねぇ、こうやったら怒るのに、なんでをこっちに向けてくれないの……いいよ、怒鳴ってよ!私にも好きでも嫌いでも、大きな気持ち向けてよ!!」


 包丁を握ったまま、彼の方へ走っていく。冷静さを失い、その切先は彼へ向いている。

 彼は向かってくる腕を外側に払い、そのまま彼女の胴を受け止めた。包丁が刺さらぬよう、その手首を握る。

 めぐむは明音のもとに向かった。ポケットからハンカチを取り出し、彼女の傷口に添えた。


「おい、目ぇ切ってねぇか?」

「うん、斜め下っ……でも、痛い……」


 突然の痛みで呼吸を乱し、汗がにじんでいる。


「京虎!!やめろ!!!」

「離して!!」


 手を抑えられているが、それでも暴れるのをやめず、彼の脚や腰を蹴っている。


「あぁぁっ!!あ゛ぁっ!!あ゛ぁぁぁっ!!!!」

「おい!京――」


ズシュッ……


「――ぁっ……」


ザシュッ……


「あぁっ!!あ゛ぁっ!!あぁっ!!」

「ぇあっ……っ……ぃぇっ……」


ザシュッ……


ザジュッ……ズジュッ……


「明音はやく、消毒……明音?」

「あっ、あっ、待って、だめ、やだ……」

「は?おい、どうし……た……」


 呆ける明音に戸惑い、めぐむは彼女が見ている方を振り返る。


「はぁ……!はぁ……あ、あぇ……?」


 そこには、先ほどまで暴れていた京虎に、汗が止まらぬ青ざめた表情でもたれ掛かる彼の姿があった。京虎の手を見ると、包丁はなく、代わりに半分くらいが真っ赤に染まっていた。


「え……あ……ち、違う……違う……そんな、あ、あっ、あぁっ……」


 彼の背中は赤黒い液体に染まっており、それが止まる気配もなく床に滴っている。


「―――っ!!おい明音っ!警察と医者!!!早く!!!」

「あ、あ、あ……やだ、やだ……いやだ……!」

「おい!!こんのっ、くっそ……!!」


「待って、違うの!だめっ、だめだめ!!」

「はァっ、はァっ……ぁっ……はァ!!」


 徐々に力が込められなくなっていき、彼女に体重をかけていく。

 汗が止まらない。視界が歪んでいき、吐き気や寒気を感じる。

 彼女はもたれ掛かる彼を床に下ろし、包丁を抜いた。すると血が一層溢れ、ただひたすらに床が染まっていった。


「あ、もしもし!!?はい、えっと、恋人が刺されました!!場所はそいつの家で……あ、住所は!」


 警察に連絡しつつ、彼のもとへ向かう。心臓や肺に近い傷口を抑えながら、彼の意識を確認する。


「おいお前ら手ェ貸せよ!おい!!」

「あっ……ぇ……あ……」

「いやっ、い、やだ……いあだぁ……」


 明音は出来事に腰が抜け、彼のもとに向かおうとするがうまく立ち上がれない。

 京虎は包丁を落とし、ただただ呼吸を乱して座っていた。


「はァ……はァ……!」

「18の男!刺されたのは背中の真ん中あたりで!!」


 意識が朦朧とし、呼吸器から溢れる血が一層不快感を覚えさせた。呼吸も出来なくなり、寒いのか熱いのかもわからなくなった。呼吸は勿論、声を発することもできなかった。

 唯一微かながらに機能していた耳が、最後に聞いた言葉は――


「刺されたやつの名前は、和上わがみ紡救つむぐ!!」


 彼自身の名だった。


 やがて、彼は親しかった者たちを見ることも、血の臭いや味を感じることも、抑える彼女の手を感じることも、呼びかけを聞き答えることも出来なくなった。


 そして、何も感じないことさえも、感じなくなった。

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