第3話

「おはようチュンさん」

「…あ、おはようございます」

 頭を上げるのも億劫そうに、ちらと視線だけをこちらに向けて、再びぐったりと横になった。

「昨日から餌が減っていないじゃない。無くなったら僕が新しい餌をとってきてあげるから、好きなだけ食べなよ」

 籠の中にあるお皿には、こんもりと餌が盛られたままになっていた。

「要りません」

「でも、ちゃんと食べないと身体に悪いよ」

「ご主人さまに愛されない、こんな身体なんて在っても意味がないですもの」

「そんなことない!」

 チュンが本当に自分を存在させようとしていないことを悟り、アオはすっ、と背筋が凍った。

「何故チュンさんは、自ら追いかけて手に入れようとしないの。籠の鍵は開いているのに―――自由なのに」

「だって私は、『籠の鳥』ですもの」

 その籠もはやその役目を放棄しているというのに、チュンは心底困ったように俯いた。

「…わかりました、僕が真偽を確かめて参りましょう」

 首を傾げるチュンを見て、言葉を足す。

「僕が、ご主人さまの様子を見てきます。この家のどこかにいるのでしょう?」

 翼を大きく広げる。

「お願いしますわ」

 ひとつ頷き、青空を切って舞い上がった。一階の窓から中を覗くと、そこには全身を黒い服に包まれた、五、六人の人間たちがいた。網戸になっている箇所を発見し、耳を澄ます。

「みんな、荷造りは済んだか」

「はい。しかし旦那様、やはりもうしばらくこちらの別荘で休養していかれませんか」

「私だって、そうしたいよ。でも、いつまでも私が会社から離れるわけにはいかないんだ。わかるだろう」

「そうですね。出過ぎたことを申し上げてしまい、すみません」

「いや、いいんだ。君のような気のつく人に娘の世話をしてもらえて、良かったよ」

「そんな、私こそあのようなお優しいお嬢様にお仕えできて、幸せでした」

「泣かないでくれ。娘は君が笑っているのが好きだったろう」

「…はい、そしてお嬢様はいつも笑顔でいらっしゃいました。本当はとてもお辛かったでしょうに。最期まで、そんな様子を私どもには見せなくて。まだ信じられません…お嬢様が、もうこの世にいないだなんて」

 バクバクと、自身の心臓の音が五月蠅い。最期?この世にいない?つまり何か、もうチュンは、主人を愛してやまないチュンは、二度と想い人に会えないとでも言うのか。

「旦那様、お車の支度が整いました」

 ノックとともに部屋に入ってきた壮年の男が、恭しく頭を下げた。

「では、私はこれで失礼するよ」

 アオはふらふらと空を漂い、玄関先へまわった。やっとの思いでたどり着いたときには、森を抜ける道路の先に米粒ほどの黒い何かが見えるだけで、その米粒も直ぐに木の陰に消えてしまった。それからどれくらい時間が経ったろう、いつの間にか日は落ち空は真っ赤に燃えていた。

「そうだ、チュンさんに報告しなくちゃ…」

 ぱたぱたと両翼を振るも、身体は全く浮かび上がらなかった。再びくったりと地に伏せる。一体誰が、この現実をチュンに告げられると言うのか。

 一番星が現れた頃、ようやくアオは飛び立った。チュンの檻の前にとまると、綺麗に羽を畳んだ。

「どうでしたか」

 向けられる純な瞳から逃げるように、籠に刻まれた天使を仰ぎ見る。

「ごめんよ、チュンさんの飼い主には会えなかった。だからわからない」

「…そう、ですか」

 視線をチュンに戻すと、がっかりしたような、ほっとしたような、複雑な表情を浮かべていた。この儚い文鳥は、ほんの少しの加減で簡単に壊れてしまいそうだと感じた。

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