第10話 碧太と杏奈

 数日後。沢尻さん一家が俺の家に引っ越してきた。


 浮かれる親父、マイペースな陽子さん。冷たい空気をまとった杏奈ちゃん。ラブラブな親父と陽子さんとは対照的に俺と杏奈ちゃんの間にはブリザードが吹雪いていた。


 そんなブリザードな杏奈ちゃんを置いて先週、二人は新婚旅行へ出かけた。その期間、なんと二週間。


 俺と杏奈ちゃんのふたり暮らし。会話もない。笑いもない。そりゃそうだ、小学生女子と会話が弾むわけない。


 だから杏奈ちゃんが「食後にケーキを食べませんか」と言ってきたときは驚いた。


「学校で作ったんです。量がありますので。一緒に食べてくれませんか?」


 杏奈ちゃんが冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中から小さな箱を取り出す。


「ニューヨークチーズケーキです」


 杏奈ちゃんが取り分けてくれた。


「コーヒーとの相性がいいそうです。私はコーヒー飲めないので、牛乳にします。得能さんはどうしますか?」

「俺はコーヒーにする。あ、自分でやるからお構いなく」

「わかりました。私も牛乳自分で温めます」


 杏奈ちゃんが牛乳をレンジで温める。俺は電熱ポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーを作った。


「頂きます」

「召し上がれ」


 頂きますに対して召し上がれ、か。育ちがいいんだなあ。


 さっそく口に運ぶ。美味しい。すげーうまい。


「どうですか?」

「美味しい、すごく美味しい。甘いんだけど、うっすら酸っぱくて、そこがいいね」

「サワークリームを使ってるんです」


 サワークリーム? なんだろ?

 俺の疑問を感じ取ったのか杏奈ちゃんが「生クリームを乳酸菌で発酵させたもの。自然な酸味が特徴なんです」と言った。


 名門小学校レベル高いな。


 あっという間に一切れ食べてしまった。無意識のうちに残りがストックされている冷蔵庫を見てしまう。


「もう一つどうです?」

「えーと……」

「遠慮なさらないでください」

「……じゃあ、遠慮無く」


 コクリと頷き、とりわけてくれた。


「どうぞ」

「あ、ありがとう」


 二つ目を食べる。杏奈ちゃん、じっと俺を見ている。なんだが気恥ずかしい。


「ごちそうさまでした、杏奈ちゃん」

「得能さん。お話ししたいことがあります」

「なんだい?」

「……お兄さん、って呼んでもいいでしょうか?」


 杏奈ちゃんが俺の目を見つめる。

 長いまつげがかすかに震えている。ほんのり頬が赤い。言われた俺もこそばゆいが言った杏奈ちゃんも恥ずかしいみたいだ。


「俺は別に構わないよ。ていうか、杏奈ちゃんが俺をどう呼ぼうが杏奈ちゃんの勝手だから。好きに呼んだらいいよ」

「ありがとうございます。拒否されたらどうしようかって思って心配していました。受け入れてもらえて良かったです」


 文字通り胸をなで下ろす。


「今日からお兄さんて呼びます」

「おう。わかった」

「では早速ですが、お兄さん。食器の後片付けお願いします」

「まかせとけ」


 といっても食洗に突っ込むだけだが。


「あと今日は無地、白物のお洗濯の日です」

「ああ」

「では、よろしくです」


 ぺこり。頭を下げる杏奈ちゃん。そのまま自室へ向かった。


「……お兄さん、か」


 お兄ちゃんでも、お兄いでも、お兄様でもなく、お兄さん。言葉遣いの端々に育ちの良さが垣間見られる杏奈ちゃん。親父によれば杏奈ちゃんの母方は地方の名家なのだそうだ。


 理想の兄であろうとする俺は、洗濯をするか。


 手には杏奈ちゃんのパンツ。白無地が多いが時々ピンクだったり水色のストライプだったりもする。

 今日のパンツは純白だった。


「色柄とまぜないようにしないとな」


 ちっちゃなパンツだ。もう少し年が近ければ俺に下着を洗わせたりはしないのだろうが、なんといっても小学校5年生。異性を意識なんてしていないのだろう。平気で使用済みパンツを洗濯カゴに突っ込んである。


 杏奈ちゃんのパンツ、タオル、俺の靴下等々をドラム型洗濯機に入れる。

 あとは乾燥までおまかせだ。しばらく時間がある。その間、風呂に入る。


 洗濯機の鈍い音を聞きながら俺は湯船につかった。

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