第21話

 前に来たときよりも人が少なかった。

 1階もそうだが、2階は特に人が少ない。

 でも1階よりもほんの少しだが空気がこもっていて温かい。冷気のせいで騒いだ鳥肌も落ち着いていった。

 やっぱりここは静かだけれど、周りを囲う一冊一冊の本が呼びかけてくるような感じがする。外とは酸素とか窒素とかの割合が少し違うのかもしれない。図書館にしかない独特の空気が周りを満たしている

 自然と視線が少し上の方に向く。

 天井についているライトとは違った明かりが目の前に広がった。

 今更だが、人が少ない図書館は、ハクの言ったことには不向きな場所なんじゃないだろうか。

 脳裏に一瞬だけそんなことが浮かんだがすぐに追い払い、私は読書や勉強をするスペースの椅子に座った。

 静かな空間にキイっと甲高い不快音が小さく飛び出した。

 それを踏みつけゆっくりと椅子を引いて座る。

 皮のような素材の小さな抵抗が背中を押した。白いテーブルには古い図書館とは相反してシミ一つなく、大切に使われているのがよくわかった。覗くと自分の無感情な顔が薄っすらと反射した。

 足をなんとなくこすりつけて、私はハクから預かった本のページを開いてみた。

 クリーム色のような、クラフト紙を薄めたような色のページがパラパラとめくれていく。

 ぼんやりと親指を本に添えながら滑らせパラパラとページをめくる。かすかな風圧と本のインクのような香りが鼻先に漂ってくる。

 きれいな明朝体が無数に並んだ文字を眺めていると、ふと一つの文字がページから離れて目の中に飛び込んできた。

 ピクッと親指が一度震えて本を滑らす指を止めた。数ページ滑り込むようにめくれてしまってそれらをめくり戻した。

 めくり戻したそのページにあるそれを私は指でなぞった。紙のザラザラとしたわずかに突っかかる感覚が指を摩擦した。

 「涙が出ないのは、心が満たされていないから。涙が出るのは、それだけ満たされているから。」

 そこには、そう書かれていた。

 ハクがあの時言ってくれた言葉。

 胸に温かい模様がふわっと広がった。筆洗器に絵の具のついた筆を入れたときみたいな、そんな模様。

 その文字の細部一つ一つをなぞるように見つめる。

 愛おしい、という感情はこういうことを言うのだろう。私はその言葉をそっと胸に抱いた。

 自然とあのときのハクの顔が瞼の裏に浮かんだ。

 私の笑顔を見て嬉しそうに透明度の高いきれいな瞳を皮膚で隠して笑うハクの顔。

 いつの間にか、自分の中で大きな存在になっていたのかもしれない。それがこそばゆいような、でも嬉しいと思った。

 また明日会えるだろうか、とふわりと頭に乗った。

 パタリと重圧の感じる音を出して本が閉じた。

 表紙をサラリと撫でてそろそろ本を返そうかと立ち上がろうとすると、視界の端が黒く染まった。

 「あの、その本好きなんですか?」

 鈴のような可愛らしい声だった。

 視界の端の黒い影が視界の真ん中の方へ移動して、その姿が照らされた。

 少し色素の薄いストレートな細い髪が肩から垂れている。見た感じは同じくらいの年だろうか。顔つきが童顔で可愛らしい。

 薄く細い線のきれいな眉尻が少し下がっていて、遠慮がちな表情を浮かべている。

 「あ、えっと、その本をすごい大事そうに見ていたので。」

 私が黙って見つめていたからか、相手は瞳を揺らせて不安げにそういった。

 どうやらさっきの光景を見られてしまっていたらしい。

 「あ、これは知り合いから返却を頼まれてて。」

 ハクのことをなんと表現したらいいかわからずあやふやな答えになってしまう。

 二人の間を沈黙が支配して、相手の表情が後悔の色に変わっていく。

 相手の小さな桃色の唇が開きこの場を去ろうとなにか言いかけたとき、私は慌てて口を開いた。

 「知り合いが言ってたこの本の言葉がすごい好きで、さっき眺めてて。」

 若干しどろもどろになりながらも、相手に届くように芯の強めた声で言った。

 「自分から出会いのきっかけを掴みに行くんだよ。」とハクの静かな声が後ろからかかった気がした。

 その声が相手の耳に触れたとき、気まずそうな顔が明るく染まっていった。

 「そうなんですね!もしかしてあれですか?”涙が出ないのは、心が満たされていないから。”ってやつですか?」

 「あ、そうです。よくわかりましたね。」

 「私この本の大ファンなんです。でも、周りにはあんまり読んでいる人がいないから、見つけて思わず声かけちゃって。」

 へにゃっと目尻を歪ませてはにかむ顔を見ていると、本当にこの本が好きなんだろうなと伝わってきた。

 普段ならあのまま声をかけずに別れていただろうところを思い切って声をかけてしまったからか、心臓が冷たいような熱いようなわからないくらい拍動している。

 後頭部がきゅうっと掴まれたような痛みが滲む。

 でも同時に、向こうの嬉しそうな微笑みからオレンジのような鮮やかな色が指先に触れた。

 「もしよかったら、連絡先交換しませんか?」

 指を絡ませながら遠慮がちにそう言われた。

 どう会話を返したらいいか迷っていたところに振ってきた、予想してなかった言葉につい目を開く。

 とっさに声が出なかった。

 「あ、や、全然他意はないんですけど…。嫌だったら大丈夫です。」

 私の様子を見たのか、大きな丸い目を伏せて、視線を泳がせた。

 絡ませていた手が止まっていて、寄せるように指を引っ張っている。

 「嫌ではないです。ただちょっと驚いて。」

 私はスカートのポケットからスマホを取り出した。

 カバーも付けられていないまっさらなそれは、美咲さんから買ってもらったものだが、調べ物以外では使ったことがあまりない。

 特別傷も汚れもないが、普段触れないとそれはただの金属の塊みたいに冷たい。

 それを見て向こうも肩からかけていたカバンからスマホを取り出した。

 ベージュ色の可愛らしいカバーのつけられたそれには沢山のキーホルダーがぶら下がっていた。熊や猫にひよこ。少しデザインが似て見えるから、なにかのキャラクターだろうか。いかにも、年頃のスマホという感じだ。

 そのスマホを操作する表情は笑みをこらえたように口を横に伸ばしていて、小型犬に似てる。コロコロと表情が変わるところは、ハクと似ているかもしれない。

 「私、香るに織物の織でカオリって言います。」

 連絡先を無事に交換し終えると、パッと顔をこちらに向けて溌剌とした声で言った。

 図書館だから声は抑えられているが、蛍光色みたいな明るい声は息のこすれる小声とはまた違っていた。

 僅かに首を傾げていて、顔から嬉色を弾けさせている。

 「えっと、ミクって言います。」

 カオリの勢いに若干押されながらも、私も名前を伝えた。少しくらい愛想のいい顔をしたほうがいいんだろうかと思ったが、自分の顔がどう見えているのかわからず、結局目を何度か瞬いただけで諦めた。

 新しい連絡先の入った裸のスマホは、ほんのり温かくなっている。

 カーテンから覗いた空には細く太陽の光が刺さっていた。

 「ミクちゃんかー、かわいい。」

 「ありがとうございます」といって、カオリは何冊か入ったカバンを肩に掛け直して小さく勢いよく会釈すると、そのまま帰っていった。

 私もつられて軽く会釈して、カオリが帰っていく後ろ姿を眺めた。

 階段の下へとカオリが消えていく。

 久しぶりに誰かと話したかもしれない、と緊張感から拘束されていた手足がだらりと垂れる。

 美咲さんはいつも顔を合わせているし、ハクは話すとはなんとなく定義が違う気がする。

 プレッシャーから無駄な力が入っていたことに驚く。疲れはしたものの、正直嫌ではなかった。

 暗いスマホの画面を開き、連絡先の一番上に表示されたカオリの字をなぞるように眺める。

 下に並ぶ連絡先とは違った、区別感を感じる。

 窓の隙間から風が忍び入ってきて、ハクから預かった本がパララ…とページがめくれていく。差し込んだ光でページが白く見える。

 そこには、「死ぬことに意味なんてない。だって、皆生きるために生きてるんだから。」と書かれていた。

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