クロッカス

第16話

 喉に冷たい空気が流れるような、朝の風を吸い込むあくびを私は噛み締めた。

 すると耳元でピピピ…とアラーム音が鼓膜を叩いた。

 それを左手で押し止める。

 部屋の中には沈黙が痛いほど響く。

 アラームの前に目覚めるなんて久しぶりだ。

 珍しく気持ちよく目が覚めて、私は一つ大きく伸びをした。

 カーテンがぶわっと広がって、昨日窓を閉め忘れたことに気づく。カーテンの隙間からは少し濁ったような孔雀青が覗いている。

 ふと階段下で音が聞こえた気がして、私はきしむ階段を一段ずつ降りていく。

 嬉色のような光のさすドアを開けると、キッチンに立って朝ご飯を作る美咲さんが立っていた。

 すぐに私が降りてきたのがわかったのか、美咲さんはぱっとこちらを向いて少しぎこちないような、それでも嬉しそうな笑みを浮かべた。

 美咲さんの少し厚めの大人っぽい口が開いた。

 「おはよう、ございます。」

 そう美咲さんが言うよりも先に、私は走るように言った。「おはよう」が先走ってしまって、「ございます」を貼り付けるような挨拶になってしまった。

 自分から挨拶するなんてあったことがなくて、頬が熱くなる。

 美咲さんは吊った目が見開かれていて目が丸い形のように見える。

 「おはよう。」

 視線をわずかに動かしていたが、嬉しそうに目尻を下げて、柔らかな口調でいった。美咲さんの特徴的な吊り目が下がっていて、いつもより柔和な表情に見えた。

 それは少しお母さんに似ている気がしたが、でも線のしっかりした笑顔はやはり美咲さんだなと思って、こわばった心臓が解凍されたように柔らかくなった。

 「朝ご飯もうできるから、先に顔洗ってきたら?」

 美咲さんは太くキリッとした眉を下げ、さっきよりも砕けた笑みで言った。

 美咲さんの笑顔なんてあまり見たことがなかったかもしれない。寝起きのぼんやりとした頭で少し考え、美咲さんから視線を外さないよう頷いて洗面台に移動した。

 ふっと息を吐く。

 特に何かあったわけじゃないが、自分から挨拶をしようとふわっと頭に浮かんだ。

 蛇口をひねると水が出てくる。水が小さく跳ね返って小さな粒が光を吸収している。 

 手でその粒たちをすくい上げるように手を広げた。

 それらは私の手のひらの上で一つにまとまってゼリーみたいに揺れる。

 水かさがどんどん増していって手の隙間からこぼれていくようになると、手のひらを垂直に顔に打ち付けた。

 顔に冷たい水の粒がぶつかり、喉がしまる。

 目の周りが熱くなって寝ぼけた意識がぷつっと回路がつながったように目がさっぱりする。

 水滴がポタポタと落ちていく顔を柔らかいタオルで包むようにぽんぽんと拭き取る。

 後ろでカタリとお皿が置かれる音がして、私はリビングの方へ移動する。

 テーブルの上には美味しそうなスクランブルエッグとウインナー目玉焼きが乗っていて、後ろから歩いてきた美咲さんの手には御飯と味噌汁が乗っている。

 どちらもあたたかそうな湯気をゆらゆらと漂よわせている。

 美咲さんだって仕事で疲れているだろうに、早起きをしてここまで作るなんてと少し申し訳なくなる。

 「美味しそう。ありがとう、美咲さん。」

 言ってから文がおかしかったんじゃないかと不安になる。

 どうも目を合わせることができなくてご飯を見たままその場に座る。

 目をそらしてしまって美咲さんがどんな表情をしていたかわからなかったが、変に思っていなかっただろうと信じて箸を握る。

 「いただきます」といってウインナーをかじる。歯をぐっといれると跳ね返るように皮がわれて中から肉汁が溢れてくる。

 「ありがとう」

 ふと美咲さんがつぶやくように言った。

 私は顔をあげずに、特に何も言わなかった。

 でも、いつも味のしない朝ご飯は久しぶりに美味しいと感じた。

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