第15話

なにもない空間に、周りの環境音だけが響く。

 鼻先には爽やかな甘い香りが香っている。

 視界は真っ暗で、ゆっくりと歩みを進める。何も見えないせいでおぼつかない歩きになってしまうが、不安ではない。

 それを支えるように背後から誘導するハクの気配がする。

 あれからしばらく公園で特に何をするわけでもなく空を見上げていたのだが、ハクが急に立ち上がり、「もう少しで着くから」と、私の目を手のひらで覆いながら案内し始めたのだ。

 本当に道の長さ的にはそこまで長くはないのだろうが、視界を塞がれているせいでずいぶん長く感じる。

 歩く振動で揺れたハクの手が時々肌に触れて離れるというのを繰り返す。

 さっきとは違い、もう周りからの視線は一切気にならなくなってる。それがどうにも変な感じはするが、純粋にハクに振り回されるこの状況を楽しんでいる自分がいる。

 鼻歌を歌うハクも自分と同じなのかなと思うと自然と笑みが漏れた。

 すると瞼の裏に光がさして、赤いようなオレンジっぽいような色が震えながら混ざり合ってうごめいた。

 「よし、ついたよ。」

 そうハクが言ったのを合図に目を開く。眩しい光が目に飛び込んできて、思わず目を細める。

 ようやく目が慣れてくると、目の前には四角形やら円柱やらの図形が組み合わさったような赤茶色の建物が立っていた。

 赤茶色のような部分にはグレーの石みたいなものが混ざっている。レンガとはちょっと違うが似ているような雰囲気もする。

 玄関口の上には立体的な字で市立図書館と書かれていた。

 「図書館?」

 「そ。中に入ろう。」

 ハクは私の手を握りしめ、中に入っていく。親指を指の根元ですくうように包み込んだ。

 外とは違って建物の中に入るとひやりと冷気が漂っていて空気が変わった感じがする。肌にヒヤッとした冷気がかかる。

 平日の昼間だからということもあってか、人はあまり見られない。

 入口近くにいた警備員のような人がこちらをちらりと見たが、わずかに一瞥しただけで特に気にした様子もなく視線をそらした。

 そのまま廊下を進んでいくと自動ドアがあり、近づくと機械らしい音を鳴らして扉が開いた。

 少し低めの本棚がたくさん並んでいる。そのうちのひとつの店を見ると、ライトノベルがずらりと並んでいて、どうやらこの階は児童書が並んでいるらしい。

 入口近くにあった消毒液を一応手のひらに出すとアルコール特有のツンとした香りが鼻を刺す。

 「こんにちは〜」

 ふと入口のすぐ右をぐっと進んだところから穏やかそうな柔らかい声が聞こえた。

 静かな空間だったためにその声はよく通り、私はその方に視線を向けた。

 カウンターに座った司書さんがにこやかな笑顔を浮かべている。

 私はなんと応えたらわからなかったため、無視をするのもなんともと思い軽く会釈をした。

 ハクは私の様子を見たのか失笑し、「こっちに行こう」と私の小指をいじるように絡めた。

 前を歩いているがハクの表情がなんとなくわかるような気がして少しもどかしくなる。

 階段は湾曲していて、壁には大小様々な沢山のポスターが並んでいる。

 カラフルなポスターが階段を進むたびにコロコロと変わっていく。そのたびに光の差し方も変わっていって、この静かな空間も相まって不思議な気分になる。

 少し屋上と似た感覚を感じて、息をすっと吸った。

 階段を登りきると、そこはまた児童書が並んでいた一階とはまた違って冷たいが突き放すわけではない空気が染み渡っている。

 やはり一般書が並んでいることもあって棚も高くなっている。

 両脇に棚が立っていると、なかなかに威圧感がある。自分がちょっと小さくなった気分だった。

 ハクは無言で私の手を引いて歩いていく。

 進んでいくたびに次々と棚が迫ってきて、端が曲がっているように見える。まるで昔見たテレビで小人が草をかき分けて歩いていく場面みたいだ。

 今更だが怪我の痛みが引いてきているのに気づく。

 薄めのライトに照らされてハクの髪が銀色に近しい色に変わる。ライトの真上に立ったときと離れたときとで髪色がグラデーションと鳴って変わる。

 するとハクがいきなり足を止め、並んでいた棚の方へ歩き始める。

 少しこちらをちらりと振り返って、潤った唇に人差し指を押し当て、静かにするように促す。ライトで照らされているせいか、唇は線に沿ってハイライトがついていて、人差し指が押し当てているところが柔らかそうにプニッとしてる。

 その先にはStaff onlyと書かれた扉があって、そこから光が漏れている。

 まさかと思ったが、ハクは迷うことなくその扉をゆっくりと開いた。

 「ちょ、それだめなんじゃ…」

 言いかけたが、ハクが振り返って私の唇に小指を押し当て、乾燥でやや固くなった唇にハクの柔らかい少しひんやりとした指が触れる。

 ハクは右の口の端をきゅっと上げ、いたずらする小学生みたいな上目遣いをする。

 この場で声を出してしまってもバレてしまいそうで口をつぐむ。

 背中がひやっっと冷める。

 素早く扉の向こうに体を滑り込ませてすぐに扉を閉じる。少しガタンと音を立ててしまって心臓をぎゅっと掴まれたように時が止まった。しかし特になにも起きずに全身の関節が外れたように脱力する。

 ふふっと後ろで笑い声が聞こえ、また私を見てハクが笑っているのかと少しばかりカチンときて扉にかけていた手をとって振り返る。

 しかし、振り返ってみてもハクはおらず、周囲に視線を撒き散らす。

 するとすぐ横に続く階段から突如にゅっと手が生えてきた。

 その手はグワングワンと手を振っている。

 私は階段をなるべく音を立てないように登り、獲物を仕留めるように勢いよくその手を掴んだ。

 するとハクが壁の奥から覗いてきて、へへっと少し舌の覗く少年のような笑みを出した。

 そのまま私が掴んだ手を滑らすように今度は逆に私が掴まれ、階段の上へと引っ張られる。

 「これが僕の世界。」

 視界がひらけたとき、目の前の景色が襲ってくるように私に流れ込んできた。

 雲が真ん中の点を中心に広がっていて、雲は青と紫色に染まっている。

 目の前は青でいっぱいなのに、雲の隙間から眩しくて白い光が差し込んでいて、そこだけがどこがずうっと遠くにあるように見える。

 いま自分が踏み入れている場所はとても狭いのに、どこまでも広がっていく空のせいで世界の全部がここにあるんじゃないかと思うほど広大だ。

 「世界でしょ?」

 そう言ってハクは手すりに寄りかかって眩しそうに目を細めた。

 もう入ってはいけないところに入ってしまった罪悪感などとうに消えてしまっていて、五感が視覚だけになってそれ以外の情報が一切遮断される。

 「綺麗だよね。この瞬間だけは目に入るすべてが自分のものになりそうな気がする。」

 そう言ってハクはこちらを振り返って私を見つめた。

 瞳が揺らぎ、慈しむような、眉を下げた儚げな表情を浮かべた。

 それはこのまま溶けて消えてしまいそうで、今にも抱きしめたくなるくらい悲しくも見えた。

 でもそれはすぐに消えて、ハクは下唇を突き出すようにいつものようなつかめない顔をした。

 私も近づいてハクと同じように柵に腕をかける。

 「話そう、ミク。」

 ハクは横目で私を見て、すっと目尻を下げた。

 それがすごくきれいに見えて、自然と口を開いた。

 「いじめられてるんだ、私。もう気づいてるだろうけど。」

 今まで誰にも言えなかった、言うのが怖かったセリフ。それは息を吐くようにすうっと音として出た。

 ハクは何も言わず、まるで世間話を聞いているような態度のままだ。私は続けて言った。

 「1年のときにいじめられてる子をかばったら逆にターゲットにされて。」

 次の言葉は、ハク相手でも少し緊張して、細く息を吸った。

 「私、両親がいなくて、親代わりの人と一緒に暮らしてるから、心配かけたくなくて学校には毎日行ってる。」

 交通事故で、っていうのはいらないかと思ってやはり言わなかった。

 たいしたことないように、今まで私を縛っていた縄の話をする。ハクは何も言わないままだった。

 でも、何も言わないそれが変な同情も見掛け倒しの正義感もない本心を隠すものがなにもないんだなとわかって不快に思うことが何もない。

 「偉いね、ミクは。」

 ハクが口を開いてぽつりと、でも力強く言った。

 どういう意味かわからず私は顔を隣に傾けた。

 「無理して学校へ行くのは正しいことかって言ったらそうじゃないだろうけど、誰かにためってそこまでできるのはすごいよ。」

 そんな事考えたことがなくて、予想外の言葉に目を開いてしまう。

 すると白い腕が伸びてきて、私の頭にふわりと乗った。

 優しく愛でるようなその手のひらはあったかくて心地よかった。

 目の奥がツンとして、目の奥と鼻の奥の繋がる部分が熱くなる。

 今日はそのまま空が赤く染まるまでそうしていた。

 これから先いつ思い返しても、今日が私の分岐点となる日と言えると思う。

 頬に熱い感覚が流れた。

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