第13話

 「大丈夫?」

 ハクの言葉に、私は頷いた。

 涙はもう涙腺がカラカラに乾いていて出てこない。鏡を見なくても自分の目が腫れているだろうということが手に取るようにわかった。

 ハクは私が頷いたあとも背中を撫で続けてくれた。

 割れ物でも触れるかのような優しい動きだが、どこか安心感を感じるものだった。

 いつの日か、友達と喧嘩したときのことがふっと蘇った。

 子どもの喧嘩なんて大抵どうでもいいようなことばかりで、私のときも本当に些細なことだったのだが、泣きはらした顔で家に帰り、「おかえり」と声をかけてくれたお父さんに走りながら抱きついた。

 お父さんは驚いた様子もなく、何も言わずにただ背中を撫でてくれた。

 お父さんのように血管の浮き出たたくましい手ではないけれど、ハクの細い手は、思っていたよりも大きかった。

 「ミク、泣いたのなんて久しぶりなんじゃない?」

 そう言うハクの問いかけで、たしかに、と思った。

 最後に泣いたのなんていつだっただろうか。

 記憶にない。もっと言えば、人前で泣くなんて両親以外なかった気がする。どうしても、人前で泣くのは憚れて、中学校・小学校どちらの卒業式も沢山のクラスメイトが泣いていたが、私は泣かなかった。

 こんなに泣いたのなんて、お母さんとお父さんが亡くなったと知ったとき以来じゃないか。それ以来に泣いた覚えはない。

 「でも、泣けてよかったね。」

 ハクの声で顔を見ると、満足そうに少し唇を噛んでいた。

 「どういうこと?」

 さっきまで泣きはらしていたせいで、鼻が詰まったこもったような声が出る。

 「この前読んだ本の受け売り何だけどさ。”涙が出ないのは、心が満たされていないから。涙が出るのは、それだけ満たされているから。”って。」

 「だから」と、ハクは右手をこちらに向けて、体重をこちらにかけて近づいた。

 そして、人差し指を私のおでこにピンと当てた。

 まるで先生気取りで、にっと口の端を伸ばして上目遣いでこちらを覗く。

 「今のミクは”満たされてる”ってことだよ。」

 ツンっと私のおでこに当てた人差し指を押した。

 私が少し後ろに揺れると、楽しそうにコロコロと笑った。

 満たされてる、か。そうかも知れないと思った。これまでの一人ぼっちの世界じゃない。誰も聞いてくれなかった、見てくれなかった私の声を、姿をハクは受け止めてくれたから。

 じわーっと体の真ん中から染み出るみたいに、なにかあったかいものが広がった。でも、今は「なにか」じゃない。それがなにかわかる、気がする。

 「ありがとう。」

 相変わらず鼻にかかった声だった。でも、静かな保健室でちゃんと伝わるように、ハクの瞳から視線を外さないようにはっきりといった。

 ハクは私を見て驚いたように眉を上げて目を開いた。でもすぐに、形容しがたいけれど、少し首を傾けて、目を横に伸ばして、嬉しそうな顔をした。ハクは本当に色んな表情を持っている。

 「ミクが笑ってるとこ、始めてみた。」

 「え?」

 そうだっただろうか。でも、たしかにハクが笑っているところを見るばかりで、私は笑っていなかったかもしれない。

 「満たされてる?」

 ハクは心底楽しそうに、ニヤニヤしながらおどけた口調で言った。

 「うん」

 鼻が詰まっているせいで、「ん」の発音がしづらい。

 でも、力強く頷いた。今度は自然と表情が緩んでいるのが自分でもわかった。

 外は雲が薄くなっていて、窓から日差しが入ってきていた。

 「そっっかー」

 ぐっと腕を伸ばして、そのままハクはベッドに倒れた。

 あまりにも勢いよく倒れこんだせいで、私も体勢を崩して寝転んだ。ベッドからはなかなかの悲鳴が聞こえたが、大丈夫だろうか。少し不安になった。

 ハクはこちらに体を向け、私の髪に触れた。驚いたが、嫌ではなくてその手を受け入れる。私の息ができる場所は、ハクだと思った。

 胸があったかい。お母さんとお父さんといたときみたいだ。懐かしいな、とあれほど泣いたはずなのに目頭の奥がツンと熱くなった。

 でもこれも満たされているから。ハクのさっきの言葉をもう一度頭の中で繰り返した。

 「ねえ」

 ハクの声は思ったよりも近く感じた。撫でるように耳にすっと入る声。小川の水みたいな綺麗で心地良い声。

 「一緒に、学校抜け出しちゃおっか。」

 ハクはなんてことないように言った。

 ハクは私の髪をいじっていた手で私の腕を掴み、ベッドから跳ね起きた。ぐいっとベッドから起こされる。でもそれは、力任せというわけではなくて、優しいエスコートだった。

 「よし、行こう!」

 「え、ちょ…」

 その声が届かぬうちに、ハクは満面の笑顔で腕を引く。このときだけは、ハクのことがまるで小学生みたいだと思った。

 「でも、先生はどうするの?」

 慌てて私がそう言うと、ハクは今思いついたとでも言わんばかりに振り返って口を開けた。髪がサラリとなびいた。

 「あ、じゃあこうしよう」

 ハクは掴んでいた私の腕をはなし、保健室の机に向かった。そして机の上にあった紙切れのようなものを取り出し、それに何かを書き始めた。

 私が後ろから覗こうとしたとき、ハクは勢いよく振り返った。

 その勢いで風がふわりと舞った。

 ハクの手には、何やら蛍光ピンクの付箋が握られている。

 「ほら、これで大丈夫。」

 そう自信ありげに話すハクは、ずいと付箋を私に突きつけた。

 みると、「今日病院に行く予定だったのを忘れていたので早退します。あと、二年の光虹さんが体育で転んで膝と手のひらを大怪我して歩くのもつらそうなので僕が付き添って迎えを呼びます。担任の先生によろしくお願いします。」と書かれている。

 もう一度、ハクの顔を見ると、やはり自信に満ちた顔をしている。一体、この付箋のどこをみて大丈夫だというのだろう。

 そう言おうと思ったが、ハクに再び腕を掴まれ、半強制的に引かれる。

 「ちょっと待って、あんなのじゃだめでしょ!」

 腕を引かれるものの、怪我を案じてくれているのかゆっくり進んでくれている。しかし腕を掴んでいる力は意外にも強く、戻ることはできない。

 ハクは楽しそうに左右に体を揺らしながら進んでいる。

 「ん―?大丈夫だよ。保健室の先生と仲良しだから。」

 問の答えになっているかはどうも怪しいが、ここまで来ると抵抗するのも馬鹿らしく思えてきた。どうせ、このまま教室になんて戻れない。思い出したくないさっきの出来事がフッと頭をかすめ、お腹のそこに不快感が溜まった。

 「私今まで優等生でいたのに。」

 そう言うと、ハクは晴れやかに笑声を漏らした。

 運良く玄関までの間まで誰かと会うことはなく、無事に靴箱へついた。

 なんだか小学生の頃のかくれんぼをしているみたいで、童心に帰った気持ちになる。ハクがいるから余計かもしれない。

 私が靴を履き替えると、ハクは三年の靴箱の方から出てきた。

 「え、ハクって三年生なの?」

 驚いてそう聞くと、ハクはふてくされたように下唇をあげた。

 「なに、見えないって言いたいの?」

 眉をひそめ、怒ったようなセリフを言うが、口調は面白そうにしている。私は一応首を横に振っておいた。

 それを見てハクは舌先を見せた。

 「敬語で話したほうがいい?」

 少しからかってやろうと思い、ハクに問いかけた。

 玄関から差し込む日が逆光となっていて、表情が薄暗く見える。

 「ハク先輩ってこと? 嫌だ。」

 ハクは相変わらず笑みを崩さない。 

 そう言うとわかっていたから、私はふっと笑いをこぼした。

 「じゃあ行こう。」 

 差し出された腕を、私は掴んで起き上がる。

 逆光によって輪郭線が光でなぞられている。

 私はハクの手を離さないように強く握った。それに気づいたのか、ハクは空気を漏らしながら頬をほころばせた。

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