第12話

 グラウンドに着いたら、もう私以外のクラスメイトは到着していて、私も急いで列に並んだ。

 「遅くなってるかなー」

 「ねえ、競争しようよ。」

 幸いにも、私に視線を向ける人は見当たらず、濡れた体操服を気に掛ける様子もない。

 まるで私と彼らの間に透明なマジックミラーで隔てられているみたいだ。

 私からはみんなが見えるのに、彼らからは私が見えない。

 安心するとともに、どうしようもない疎外感が胸を覆ってきた。

 先生がやってきて、楽しそうに会話をしていたクラスメイトたちも、列を整えるように前を向く。

 ちょうどその時校舎からチャイムが鳴って、教室の中から飛び出すように鐘の音がバラバラと溢れた。

 外で聞く予冷の音は、教室とは違って山びこみたいに跳ね返ってこず、壁のない空間をどこまでも過ぎ去っていった。

 「よし授業始めるぞー」

 先生の先の割れた太い声が外に響く。

 そこまで声を出さなくても聞こえるというのに、体育の教師は大抵皆こんな感じだ。

 「気をつけ、休め、気をつけ、お願いします。」

 外だからか、いつもより声を張って日直が号令を出す。

 少し鼻のかかった声で、その声は濡れた背中にじっとりと飲まれていった。

 それに合わせて生徒たちは各々締まりの無い姿勢で動く。

 でも、授業のときのあの礼よりは幾分かマシな気がする。

 私も少し草の覗いたグラウンドを蹴って号令に従う。

 ちょうどそこに大きめの石があり、靴にコツっとあたった。

 靴には土の汚れがカチカチに固まってこびりついており、白い靴底がくすんで見える。

 「じゃあ今日は前も言った通り50m測るぞ。」

 先生がそう言った直後、前の方で「シャァァァァ!」と雄叫びのような少し喉がひっくり返った声が飛んだ。

 同時に、クラスメイトたちの笑い声がざわざわとわき上がる。

 いろんな音の笑い声が交差し混ざり合って、乾燥した空気の中をカラカラと流れていく。

 それを見て先生も思わずとでも言うように笑いをこぼした。

 叫んだのはクラスの中心的な人物で、だから周りの生徒達は彼の奇声に笑い声をあげたのだろう。

 理解するつもりは毛ほどもないが、何が面白いのかわからない。

 笑い声を飛ばしている人たちの中にも、私と同じように思っている人も何人かいるだろうに。いや、もしかしたら、大半がそう思っているかもしれない。それでも、社会の縮図のような高校という狭い世界では、これが「正しい生き方」なんだろう。

 窮屈だな、と私はあくまで無表情のままだった。どうせ、私が笑おうが笑うまいが皆からは見えない。

 その後体操を済ませ、いよいよ50mを走る。

 クラスメイトたちの気分の高揚が空の日差しと相まって少し暑くなってきた。

 眩しくて、上を見ることは叶わないが影を見るともう真上の方まで太陽が登っている。

 体操服から覗く自分の腕がいつもよりも白く見えた。

 「ルカ、ちょっとスタートの合図頼めるか?」

 視界の端の方で、先生とルカが話す様子が見えた。

 「もちろん!任せてください。」

 ルカは嬉しそうに笑みを飛ばしながら先生から手渡しで合図の旗と笛をもらっている。

 先生はタイムを計測するため、誰か一人に合図を頼まなければいけない。

 先生はバレー部の顧問で、ルカもバレー部の部員というのもあって、頼み事がしやすいのだろう。

 それに、皮肉にもルカはなぜか先生に好かれやすい。

 勉強はさほど得意じゃないし、授業をまともに受けるわけでもないが、いつも楽しそうに先生方と会話している様子をよく見る。

 人懐っこく、相手の気を乗せるのが上手いのだ。

 ルカが先生と会話する様子を見ていると、お腹の奥の方から何か酸っぱいものがせり上がってくる気がして気持ち悪くなった。

 私はすぐ視線を逸らして、気を紛らわせるように少し離れたところへ歩いた。

 その頃には、もう体操服もすっかり乾いていて、体操服の少し硬い繊維が私の背中をなでた。

 先生からの呼びかけで、男女それぞれ2列で並び、男子から測ることになった。

 私が横をちらりと見ると、そこにはいつも仲の良い友達と楽しそうに話しているおとなしめの子が少し気まずそうに座っている。

 いつも話している友達が近くにいないから、話しかける人もいなくて居心地が悪いのだろう。

 それとも、私と走ることになって気まずいのだろうか。

 私はかぶりを振って一緒に走る人がアミたちではないことに安心する。

 「位置について、よーい…」

 ビ!と空気を切り裂き高音と低音が混ざったような音がなる。

 同時に、前の生徒が地面を蹴って走り出す。

 乾いた砂がざっと舞い、数秒もすれば彼らの背中も小さくなっていった。

 何人かの生徒が応援するように「がんばれ」と声をかけている。

 その後も何度もこの空気の中を不協和音のような笛の音が鳴り響いた。

 段々と前に座る生徒が少なくなり、遂に私の番が来た。

 さっきまで燦々と輝いていた太陽は薄い雲に隠れ、グラウンドに影をかぶせる。

 目の前の景色が少し褪せたように見えた。

 スタートの白線の前に立つと、どうも落ち着かずせわしなく手を握った。

 スタートラインの白線は、今までの生徒たちが走ったせいで無数の足跡とともに線が伸びてしまっている。

 「位置についてーよーい…」

 ルカの声に従って少し呼吸を整えるようにゆっくりクラウチングスタートのポーズを取る。

 曲げた足を上げ、耳を澄ませて笛の音を待つ。

 少し間を空けて、ピ!という音が耳を貫いた。

 その瞬間私は爆発したように前へ飛んだ。

 足の先に力を込め、地面をえぐるように蹴る。

 しかし、私の意識とは反対に、足は地面を擦り目の前にグラウンドの砂が迫った。

 まるでこの一瞬の間だけ時間が止まったのかと思うほど、目の前が白飛びしたみたいに真っ白になった。

 次の瞬間、電流が流れるみたいな鋭い痛みが体中を駆け回った。

 それは一瞬で、何が起きたかわからなかった。

 隣から地面を蹴って走る足音が聞こえ、舞った砂が腕にかかった。

 目の前に地面があって、日差しを十分に浴びた草の匂いがする。でも今はそれがいい匂いだとは思えなかった。

 「アハ!」

 こらえきれないとでも言うように、超音波みたいな高い声のルカの嘲笑が耳を痛いほど割いた。

 揺らいだ視界が落ち着き、ばやけていたピントが合うと、ようやく自分がスタートと同時に瑠香に足を引っ掛けられ、盛大に転んでしまったことを理解する。

 顔を抑えていた手のひらにはべっとりと血がついている。

 見ると、膝も血だらけで、地面に擦れてしまったからか皮が剝けている。

 そんな私の様子を見て、亜美たちはもちろん、他の皆からもクスクスとした笑い声が聞こえる。

 状況を理解して余計に痛みが強くなり、傷の痛みに悶える。

 その様子を哀れな目で見るみんなの視線が私を痛いほど刺してくる。

 どうしてこいつらは笑っていられるんだろう。

 怖くて顔を上げることができない。

 目の前がモノクロになったみたいだ。

 「大丈夫か!?」

 心配したのか先生が駆け寄ってきた。

 50mほどの距離ならばルカが足を引っ掛けたのは見えたんじゃないのか。

 顔を上げて見た先生の顔は、クレヨンで描いたみたいに黒色で塗りつぶされている。

 頭の中がバチバチ花火が弾けるみたいに私に痛みを伝える。

 視界が安定しなくて、何度まばたきをしても乾燥していて目の中の何かがずれてるみたいな感じがする。

 顎の付け根あたりがツンと酸っぱくなった。

 後ろからはもう笑い声は聞こえないが、空気を伝って冷たすぎて最早痛いほどの蔑みの視線が体へ流れ込んでくる。

 それは体の中で狂犬みたいに抵抗してぐるぐると暴れまわる。

 「保健室に行くか?」

 そう言って先生が手を差し伸べてきた。

 その手を見た瞬間、頭の天辺で何か熱いものが弾けた。

 口の中から溢れてきそうで私は口を押さえた。

 体の中をゴムボールみたいにもう突き破るんじゃないかと何かがはね続ける。

 それが痛みなのか嘲笑なのか恥ずかしさなのか何なのかもう分からない。

 息ができない。

 さっきまで乾燥していた空気が一瞬で蒸したみたいに体を空気で圧縮される。

 もう我慢が出来なくなって、私は先生の手を断って飛び出した。

 膝の痛みが襲ってきて走れない。

 それでも息継ぎをする肺魚みたいにもつれながらも息をできる場所へ、誰もいないところへと向かった。

 もう音なんて聞こえなくて、自分の鼓動の音しか聞こえない。

 止まればなにか、恐ろしいものに食われる気がした。

 やっとの思いで玄関について、ドアを力任せに開ける。

 太陽からも誰からも見えない場所で、私は崩れるように座った。

 思い出したように膝がじくじくと痛む。

 泣きたいほどに痛くて苦しいのに、それでも涙は出なかった。

 体中の水分が、さっきのゴムボールに飲み尽くされたみたいだ。

 少しだけ息ができるようになって、鼓動を落ち着かせる。

 今更になって、授業を抜け出してしまった焦りが沸々と湧き上がる。

 でも、ここまで来てしまえばもうどうでも良くなって、私は寝そべった。

 するとガチャリとドアが開いて、職員室から先生が出てきた。

 私は急いで靴箱に隠れる。

 少しばかり落ち着いた心臓が時が戻ったみたいにバクバクと拍動し始めた。

 幸い先生は私に気づかないまま過ぎていった。

 安心したが、やはりここにも居場所はない。

 先生に見つかればなんと言えばいいかわからない。

 きゅっと細くなったような喉を左手で押さえ、私は仕方なく保健室へ歩みを進めた。

 立ち上がって歩くたびに、金槌で叩かれたように膝が鈍く痛む。

 流血は止まったが、自分の身体ながらになかなかグロい。

 流石に手当をしなければならないだろう。

 時間が経っても、呼吸は相変わらず忙しなく二酸化炭素を吐いている。

 苦しい。

 保健室になんていかないで、屋上に行きたい。

 ハクはいないかもしれないけど、でも、あそこなら私が見える。

 息も、膝も、手も痛い。

 それなのに、汗も涙も出ない。

 それでも止まれば誰かに見られるかもしれない。それは嫌だ。 

 必死に足を前に動かして、保健室につく。

 カタリと抵抗なくドアが滑る。

 しかし、保健室の先生は中にいなかった。

 誰もいない空間だ。引き絞られた喉が緩み、地べたにペタンと座った。

 ひんやりとした感触が足を撫でる。

 先生が来ない間に、勝手に手当でもしてしまおうか。

 そう考えていると、横の方からカシャンッと金属同士がこすれるような音がして、保健室のド兄かけられていたカーテンが開いた。

 人がいるとは思っていなかったため、息が止まった。

 思い切ってベッドの方に顔を向ける。

 「あ」

 いったい、どちらが先に声を発したのだろうか。 

 カーテンからは白い絹のような髪が流れ、その隙間からは色素の薄い瞳が覗いている。

 「ミク?」

 いつもの優しい顔が覗いたと思うと、ハクは私の手と膝の怪我を見て顔を真っ青に変えた。

 「どうしたの!?」

 ハクを見た瞬間、全身の力が抜けてとけだしていくようだ。

 うまく息の吸えなかった肺も、やっと役割を思い出したように伸縮し始めた。

 「えっと、体育の授業で、盛大に転んじゃって…」

 嘘はいっていない。でも少し心苦しくなった。

 ハクはもともと白い肌を真っ青にして駆け寄る。肌に赤みが感じられなくて、ハクのほうが病人みたいだ。

 「大丈夫?とりあえず、簡単に手当だけするね。」

 そう言うとハクは慣れたように棚からガーゼやら消毒液などを取り出した。

 よく保健室に来るんだろうか? ものの位置を把握している。

 「っ…」

 傷口に消毒液がしみてピリピリと痛む。

 「ごめん、大丈夫?」

 「うん、気にしないで続けて。」

 ハクは手際よく手当をしていく。まるで医者みたいだ。

 「よし」と、手当をし終わったハクは呟いた。

 愛でるように、絆創膏の貼られた私の膝を一つ撫でた。

 不思議と、痛みが引いていくようだった。

 保健室の端においてある鏡に映る私は、両手と両膝に大判の絆創膏を貼られていて、だいぶ間抜けな姿だ。

 「とりあえず簡単に手当はできたけど、一応先生が来るのを待とう。」

 ハクはベッドに再び寄りかかり、隣に私を誘導した。

 私は流されるままベッドに座った。

 「体育で何してたの?」

 ハクはいつもみたいな空を見上げるような体勢じゃなくて、私の目を見つめるような姿勢だった。

 保健室の電球のせいで光の多い薄い瞳は、黄色がかったような色味に変わっている。

 普段より鋭さのある瞳は、私が何を言っても全て見透かしてしまうんじゃないかと思ってしまって素直に目が合わせれない。

  「50m走。久しぶりに走ったからスタートで転んじゃって。」

 「ふうん」と、納得していないような顔をしたが、すぐにいつもみたいに私から目を離して前を見つめた。

 嘘に嘘を重ねる、というべきか、胸に罪悪感のような憂鬱感のようなものが広がっていく。同時に、孤独感のようなものも頭から被せられるように流れてくる。

 「ねえ、こんな話知ってる?」

 軽やかで心地良い声だった。

 そう言ってハクはグーッと背中を沿った。

 予想していなかった反応に、とっさに声が出なかった。

 「野生のハワイガラスっていう鳥の最後の一匹の話なんだけどね。」

 「野生のハワイガラス?」

 急に何の話なのかと思って聞いてみると、これまた予想のできない変化球に、ハクのセリフをそのまま聞き返す。

 ハクは私の言葉に「うん」と頷くと、人差し指をピンと立て、そのまま話を始めた。

 「野生のハワイガラスは求愛の鳴き声で鳴いてパートナーを探すんだ。でも、どんどん仲間が減っていって、同種の数が何日も何月も何年も見えなくなっていくんだ。だから、野生のハワイガラスの声が誰かに届くことは永遠にない。それでもハワイガラスは鳴き続けている…っていう話。」

 ハクは話し終わり、ベッドに座っていた状態から体制を崩してベッドに軽く寝そべった。

 その振動でベッドがキシ…ッと揺れた。

一体どうしてハクがそんな話をしたのか分からず、私は何か言葉を発せずハクの様子をうかがう。

 ベッドに手を乗せると、鋭い痛みがヒリついて、やはり膝の上に乗せた。

 ハクは腕を上に伸ばし、天井を見上げる。

 天井の明かりで陰影が明確になり、ハクの整った顔の彫りが浮き彫りになる。

 「でも、すごいと思わない?」

 ハクが上を向いたまま私に疑問を投げかける。

 私はハクの意図がつかめず「何が?」と思わず聞き返す。

 ハクは人差し指をくるりと時計回りに回した。

 「だって、いくら泣き叫んでも誰にも聞こえない。そんな日々を繰り返しているのに、諦めず今でも鳴いているんだよ。」

 「……」

 私は黙って次の言葉を待つ。

 するとハクは上げていた手を降ろし、寝返りを打って私の方を向いた。

 「光虹だったら、どれだけ待っても自分の言葉は届かなかった。それでも鳴き続けられる?」

 「どう、だろう」

 「届かなかった」という部分を妙に強調して、ハクは私に問いかけた。

 言葉に詰まり、曖昧な返事になってしまう。

 どれだけ待っても声が伝わらない、か。

 そんな状況、あまりにも現実離れしていて、想像がつかない。

 「僕なら、とっくに諦めてるな。でも、ハワイガラスは今でも鳴いてる。人間とは大違いだと思うよ。」

 ハクは再び、体勢を戻して天井を見上げた。

 人間とは大違い、とはどういうことだろう。

 私は腰を曲げてハクの方へ体を向ける。

 窓から覗く空は、わずかな時間でたくさんの雲で覆い隠れてしまっている。

 でも、さっきよりもここは彩度が高い。

 「いじめや虐待に遭ってる人で、助けを求めない人は結構多いんだってさ。助けを求めないのは、誰かに相談したところで解決しない、自分で解決する、時間が経てば解決する、心配をかけたくないって理由が多いみたい。皆、諦めるんだ。」

 「いじめ」という単語に思わず反応してしまう。

 はっと驚いて、ハクの方を見る。

 誰かに相談したところで解決しない、自分で解決する、時間が経てば解決する…まさに、私みたいだと思った。

 どうせ変わらない、だから諦める―

 ハクは私の方を見ないまま、話を続ける。

 「でも、このまま変わらないなんて、言い切れないでしょ?ハワイガラスだって、このまま仲間に会える確率が0%だなんて言い切れない。」

 ハクの表情は、いつものような柔和な表情じゃなくて、子供を諭す親みたいだった。

 ハクの言葉が、まるで私を責めるように胸をじくじくと痛めつける。

 そんなことはとっくにわかっている、でも、改めてそう言われると耳をふさいでしまいたくなる。キーンと耳鳴りがする。

 すると急に、勢いよく白がベッドから起き上がって私に体を向けて目の前に立つ。

 反動で、体が少し跳ねる。

 体勢を崩して手をついてしまい、ちくりと痛みが走った。

 「だからね、助けを求めていいんだよ。君を絶対に助かる。だって君の誰にも言えない声を、僕は一音もこぼさずに聞くから。」

 そういい、ハクは優しく包み込むような、そして少し自信を浮かべたような眩しい笑みを浮かべ、両腕をひろげた。

 「だから、話そうよ。」

 太陽みたいな声だった。

 眩しい。乳白色のくすんだ保健室が、新品みたいに輝いて見えた。

 ハクが私の何を知っているのか、どうしてこんな言葉をくれるのかわからない。

 でも、その姿がお父さんと重なった。

 視界が二重にゆがむ。

 ふと自分の手に、ポタリという生暖かい感覚がした。

 見ると、水滴が落ちている。

 手に落ちてくる水滴は、次々に降ってくる。

 気づけば私は、泣いていた。

 泣いていることに気がついてしまうと、涙は止まるどころかさらに溢れてくる。

 さっきまでどうしたって涙なんて出てこなかったのに。

 「えっ」と、ハクが息を呑むような声が聞こえる。

 目の前で相手が泣き出したら驚くのは無理もないだろう。

 それでも防波堤を壊したように涙はどんどん流れてくる。

 「ごめん」と、先程の声とは大違いの弱々しい声が頭の上から降ってくる。

 ハクがきっと困惑した表情をしているのだと容易に想像できるが、泣き顔のまま顔を合わせる事ができない。

 「違う、ハクのせいじゃなくて…」

 必死に訂正しようとするが、嗚咽で上手く喋れることができない。

 ハクが私の隣に座る気配がする。

 涙をこらえようとする自分の顔がどんなものか、きっとひどい顔をしているんだろうと思い、これでもかと俯いて重力で下がる髪で顔を隠す。

 するとハクが私の背中をさするようになで始めた。

 「ごめん、抑えないでいいよ、全部。」

 ささやくような優しい声は、鼓膜に溶け出すように甘く入ってきた。

 白がポンポンと背中を叩く度に嗚咽が漏れる。

 白の言葉がきっかけになって、ついにこらえきれなかった嗚咽が、声が、涙がボロボロと流れだした。

 心の奥の異物を流すように、なにか苦しいものがどんどん流れてくる。

 授業時間の静かな学校で、私の声が静かに響く。

 きっとそれは誰にも届かないだろうが、白は私の背中をさすり続けた。

 まるでこの世界で二人だけになったみたいだった。でも、もういつもみたいにひとりじゃない。

 それだけが私の心に優しく温かく滲んだ。

 グラウンドに着いたら、もう私以外のクラスメイトは到着していて、私も急いで列に並んだ。

 「遅くなってるかなー」

 「ねえ、競争しようよ。」

 幸いにも、私に視線を向ける人は見当たらず、濡れた体操服を気に掛ける様子もない。

 まるで私と彼らの間に透明なマジックミラーで隔てられているみたいだ。

 私からはみんなが見えるのに、彼らからは私が見えない。

 安心するとともに、どうしようもない疎外感が胸を覆ってきた。

 先生がやってきて、楽しそうに会話をしていたクラスメイトたちも、列を整えるように前を向く。

 ちょうどその時校舎からチャイムが鳴って、教室の中から飛び出すように鐘の音がバラバラと溢れた。

 外で聞く予冷の音は、教室とは違って山びこみたいに跳ね返ってこず、壁のない空間をどこまでも過ぎ去っていった。

 「よし授業始めるぞー」

 先生の先の割れた太い声が外に響く。

 そこまで声を出さなくても聞こえるというのに、体育の教師は大抵皆こんな感じだ。

 「気をつけ、休め、気をつけ、お願いします。」

 外だからか、いつもより声を張って日直が号令を出す。

 少し鼻のかかった声で、その声は濡れた背中にじっとりと飲まれていった。

 それに合わせて生徒たちは各々締まりの無い姿勢で動く。

 でも、授業のときのあの礼よりは幾分かマシな気がする。

 私も少し草の覗いたグラウンドを蹴って号令に従う。

 ちょうどそこに大きめの石があり、靴にコツっとあたった。

 靴には土の汚れがカチカチに固まってこびりついており、白い靴底がくすんで見える。

 「じゃあ今日は前も言った通り50m測るぞ。」

 先生がそう言った直後、前の方で「シャァァァァ!」と雄叫びのような少し喉がひっくり返った声が飛んだ。

 同時に、クラスメイトたちの笑い声がざわざわとわき上がる。

 いろんな音の笑い声が交差し混ざり合って、乾燥した空気の中をカラカラと流れていく。

 それを見て先生も思わずとでも言うように笑いをこぼした。

 叫んだのはクラスの中心的な人物で、だから周りの生徒達は彼の奇声に笑い声をあげたのだろう。

 理解するつもりは毛ほどもないが、何が面白いのかわからない。

 笑い声を飛ばしている人たちの中にも、私と同じように思っている人も何人かいるだろうに。いや、もしかしたら、大半がそう思っているかもしれない。それでも、社会の縮図のような高校という狭い世界では、これが「正しい生き方」なんだろう。

 窮屈だな、と私はあくまで無表情のままだった。どうせ、私が笑おうが笑うまいが皆からは見えない。

 その後体操を済ませ、いよいよ50mを走る。

 クラスメイトたちの気分の高揚が空の日差しと相まって少し暑くなってきた。

 眩しくて、上を見ることは叶わないが影を見るともう真上の方まで太陽が登っている。

 体操服から覗く自分の腕がいつもよりも白く見えた。

 「ルカ、ちょっとスタートの合図頼めるか?」

 視界の端の方で、先生とルカが話す様子が見えた。

 「もちろん!任せてください。」

 ルカは嬉しそうに笑みを飛ばしながら先生から手渡しで合図の旗と笛をもらっている。

 先生はタイムを計測するため、誰か一人に合図を頼まなければいけない。

 先生はバレー部の顧問で、ルカもバレー部の部員というのもあって、頼み事がしやすいのだろう。

 それに、皮肉にもルカはなぜか先生に好かれやすい。

 勉強はさほど得意じゃないし、授業をまともに受けるわけでもないが、いつも楽しそうに先生方と会話している様子をよく見る。

 人懐っこく、相手の気を乗せるのが上手いのだ。

 ルカが先生と会話する様子を見ていると、お腹の奥の方から何か酸っぱいものがせり上がってくる気がして気持ち悪くなった。

 私はすぐ視線を逸らして、気を紛らわせるように少し離れたところへ歩いた。

 その頃には、もう体操服もすっかり乾いていて、体操服の少し硬い繊維が私の背中をなでた。

 先生からの呼びかけで、男女それぞれ2列で並び、男子から測ることになった。

 私が横をちらりと見ると、そこにはいつも仲の良い友達と楽しそうに話しているおとなしめの子が少し気まずそうに座っている。

 いつも話している友達が近くにいないから、話しかける人もいなくて居心地が悪いのだろう。

 それとも、私と走ることになって気まずいのだろうか。

 私はかぶりを振って一緒に走る人がアミたちではないことに安心する。

 「位置について、よーい…」

 ビ!と空気を切り裂き高音と低音が混ざったような音がなる。

 同時に、前の生徒が地面を蹴って走り出す。

 乾いた砂がざっと舞い、数秒もすれば彼らの背中も小さくなっていった。

 何人かの生徒が応援するように「がんばれ」と声をかけている。

 その後も何度もこの空気の中を不協和音のような笛の音が鳴り響いた。

 段々と前に座る生徒が少なくなり、遂に私の番が来た。

 さっきまで燦々と輝いていた太陽は薄い雲に隠れ、グラウンドに影をかぶせる。

 目の前の景色が少し褪せたように見えた。

 スタートの白線の前に立つと、どうも落ち着かずせわしなく手を握った。

 スタートラインの白線は、今までの生徒たちが走ったせいで無数の足跡とともに線が伸びてしまっている。

 「位置についてーよーい…」

 ルカの声に従って少し呼吸を整えるようにゆっくりクラウチングスタートのポーズを取る。

 曲げた足を上げ、耳を澄ませて笛の音を待つ。

 少し間を空けて、ピ!という音が耳を貫いた。

 その瞬間私は爆発したように前へ飛んだ。

 足の先に力を込め、地面をえぐるように蹴る。

 しかし、私の意識とは反対に、足は地面を擦り目の前にグラウンドの砂が迫った。

 まるでこの一瞬の間だけ時間が止まったのかと思うほど、目の前が白飛びしたみたいに真っ白になった。

 次の瞬間、電流が流れるみたいな鋭い痛みが体中を駆け回った。

 それは一瞬で、何が起きたかわからなかった。

 隣から地面を蹴って走る足音が聞こえ、舞った砂が腕にかかった。

 目の前に地面があって、日差しを十分に浴びた草の匂いがする。でも今はそれがいい匂いだとは思えなかった。

 「アハ!」

 こらえきれないとでも言うように、超音波みたいな高い声のルカの嘲笑が耳を痛いほど割いた。

 揺らいだ視界が落ち着き、ばやけていたピントが合うと、ようやく自分がスタートと同時に瑠香に足を引っ掛けられ、盛大に転んでしまったことを理解する。

 顔を抑えていた手のひらにはべっとりと血がついている。

 見ると、膝も血だらけで、地面に擦れてしまったからか皮が剝けている。

 そんな私の様子を見て、亜美たちはもちろん、他の皆からもクスクスとした笑い声が聞こえる。

 状況を理解して余計に痛みが強くなり、傷の痛みに悶える。

 その様子を哀れな目で見るみんなの視線が私を痛いほど刺してくる。

 どうしてこいつらは笑っていられるんだろう。

 怖くて顔を上げることができない。

 目の前がモノクロになったみたいだ。

 「大丈夫か!?」

 心配したのか先生が駆け寄ってきた。

 50mほどの距離ならばルカが足を引っ掛けたのは見えたんじゃないのか。

 顔を上げて見た先生の顔は、クレヨンで描いたみたいに黒色で塗りつぶされている。

 頭の中がバチバチ花火が弾けるみたいに私に痛みを伝える。

 視界が安定しなくて、何度まばたきをしても乾燥していて目の中の何かがずれてるみたいな感じがする。

 顎の付け根あたりがツンと酸っぱくなった。

 後ろからはもう笑い声は聞こえないが、空気を伝って冷たすぎて最早痛いほどの蔑みの視線が体へ流れ込んでくる。

 それは体の中で狂犬みたいに抵抗してぐるぐると暴れまわる。

 「保健室に行くか?」

 そう言って先生が手を差し伸べてきた。

 その手を見た瞬間、頭の天辺で何か熱いものが弾けた。

 口の中から溢れてきそうで私は口を押さえた。

 体の中をゴムボールみたいにもう突き破るんじゃないかと何かがはね続ける。

 それが痛みなのか嘲笑なのか恥ずかしさなのか何なのかもう分からない。

 息ができない。

 さっきまで乾燥していた空気が一瞬で蒸したみたいに体を空気で圧縮される。

 もう我慢が出来なくなって、私は先生の手を断って飛び出した。

 膝の痛みが襲ってきて走れない。

 それでも息継ぎをする肺魚みたいにもつれながらも息をできる場所へ、誰もいないところへと向かった。

 もう音なんて聞こえなくて、自分の鼓動の音しか聞こえない。

 止まればなにか、恐ろしいものに食われる気がした。

 やっとの思いで玄関について、ドアを力任せに開ける。

 太陽からも誰からも見えない場所で、私は崩れるように座った。

 思い出したように膝がじくじくと痛む。

 泣きたいほどに痛くて苦しいのに、それでも涙は出なかった。

 体中の水分が、さっきのゴムボールに飲み尽くされたみたいだ。

 少しだけ息ができるようになって、鼓動を落ち着かせる。

 今更になって、授業を抜け出してしまった焦りが沸々と湧き上がる。

 でも、ここまで来てしまえばもうどうでも良くなって、私は寝そべった。

 するとガチャリとドアが開いて、職員室から先生が出てきた。

 私は急いで靴箱に隠れる。

 少しばかり落ち着いた心臓が時が戻ったみたいにバクバクと拍動し始めた。

 幸い先生は私に気づかないまま過ぎていった。

 安心したが、やはりここにも居場所はない。

 先生に見つかればなんと言えばいいかわからない。

 きゅっと細くなったような喉を左手で押さえ、私は仕方なく保健室へ歩みを進めた。

 立ち上がって歩くたびに、金槌で叩かれたように膝が鈍く痛む。

 流血は止まったが、自分の身体ながらになかなかグロい。

 流石に手当をしなければならないだろう。

 時間が経っても、呼吸は相変わらず忙しなく二酸化炭素を吐いている。

 苦しい。

 保健室になんていかないで、屋上に行きたい。

 ハクはいないかもしれないけど、でも、あそこなら私が見える。

 息も、膝も、手も痛い。

 それなのに、汗も涙も出ない。

 それでも止まれば誰かに見られるかもしれない。それは嫌だ。 

 必死に足を前に動かして、保健室につく。

 カタリと抵抗なくドアが滑る。

 しかし、保健室の先生は中にいなかった。

 誰もいない空間だ。引き絞られた喉が緩み、地べたにペタンと座った。

 ひんやりとした感触が足を撫でる。

 先生が来ない間に、勝手に手当でもしてしまおうか。

 そう考えていると、横の方からカシャンッと金属同士がこすれるような音がして、保健室のド兄かけられていたカーテンが開いた。

 人がいるとは思っていなかったため、息が止まった。

 思い切ってベッドの方に顔を向ける。

 「あ」

 いったい、どちらが先に声を発したのだろうか。 

 カーテンからは白い絹のような髪が流れ、その隙間からは色素の薄い瞳が覗いている。

 「ミク?」

 いつもの優しい顔が覗いたと思うと、ハクは私の手と膝の怪我を見て顔を真っ青に変えた。

 「どうしたの!?」

 ハクを見た瞬間、全身の力が抜けてとけだしていくようだ。

 うまく息の吸えなかった肺も、やっと役割を思い出したように伸縮し始めた。

 「えっと、体育の授業で、盛大に転んじゃって…」

 嘘はいっていない。でも少し心苦しくなった。

 ハクはもともと白い肌を真っ青にして駆け寄る。肌に赤みが感じられなくて、ハクのほうが病人みたいだ。

 「大丈夫?とりあえず、簡単に手当だけするね。」

 そう言うとハクは慣れたように棚からガーゼやら消毒液などを取り出した。

 よく保健室に来るんだろうか? ものの位置を把握している。

 「っ…」

 傷口に消毒液がしみてピリピリと痛む。

 「ごめん、大丈夫?」

 「うん、気にしないで続けて。」

 ハクは手際よく手当をしていく。まるで医者みたいだ。

 「よし」と、手当をし終わったハクは呟いた。

 愛でるように、絆創膏の貼られた私の膝を一つ撫でた。

 不思議と、痛みが引いていくようだった。

 保健室の端においてある鏡に映る私は、両手と両膝に大判の絆創膏を貼られていて、だいぶ間抜けな姿だ。

 「とりあえず簡単に手当はできたけど、一応先生が来るのを待とう。」

 ハクはベッドに再び寄りかかり、隣に私を誘導した。

 私は流されるままベッドに座った。

 「体育で何してたの?」

 ハクはいつもみたいな空を見上げるような体勢じゃなくて、私の目を見つめるような姿勢だった。

 保健室の電球のせいで光の多い薄い瞳は、黄色がかったような色味に変わっている。

 普段より鋭さのある瞳は、私が何を言っても全て見透かしてしまうんじゃないかと思ってしまって素直に目が合わせれない。

  「50m走。久しぶりに走ったからスタートで転んじゃって。」

 「ふうん」と、納得していないような顔をしたが、すぐにいつもみたいに私から目を離して前を見つめた。

 嘘に嘘を重ねる、というべきか、胸に罪悪感のような憂鬱感のようなものが広がっていく。同時に、孤独感のようなものも頭から被せられるように流れてくる。

 「ねえ、こんな話知ってる?」

 軽やかで心地良い声だった。

 そう言ってハクはグーッと背中を沿った。

 予想していなかった反応に、とっさに声が出なかった。

 「野生のハワイガラスっていう鳥の最後の一匹の話なんだけどね。」

 「野生のハワイガラス?」

 急に何の話なのかと思って聞いてみると、これまた予想のできない変化球に、ハクのセリフをそのまま聞き返す。

 ハクは私の言葉に「うん」と頷くと、人差し指をピンと立て、そのまま話を始めた。

 「野生のハワイガラスは求愛の鳴き声で鳴いてパートナーを探すんだ。でも、どんどん仲間が減っていって、同種の数が何日も何月も何年も見えなくなっていくんだ。だから、野生のハワイガラスの声が誰かに届くことは永遠にない。それでもハワイガラスは鳴き続けている…っていう話。」

 ハクは話し終わり、ベッドに座っていた状態から体制を崩してベッドに軽く寝そべった。

 その振動でベッドがキシ…ッと揺れた。

一体どうしてハクがそんな話をしたのか分からず、私は何か言葉を発せずハクの様子をうかがう。

 ベッドに手を乗せると、鋭い痛みがヒリついて、やはり膝の上に乗せた。

 ハクは腕を上に伸ばし、天井を見上げる。

 天井の明かりで陰影が明確になり、ハクの整った顔の彫りが浮き彫りになる。

 「でも、すごいと思わない?」

 ハクが上を向いたまま私に疑問を投げかける。

 私はハクの意図がつかめず「何が?」と思わず聞き返す。

 ハクは人差し指をくるりと時計回りに回した。

 「だって、いくら泣き叫んでも誰にも聞こえない。そんな日々を繰り返しているのに、諦めず今でも鳴いているんだよ。」

 「……」

 私は黙って次の言葉を待つ。

 するとハクは上げていた手を降ろし、寝返りを打って私の方を向いた。

 「光虹だったら、どれだけ待っても自分の言葉は届かなかった。それでも鳴き続けられる?」

 「どう、だろう」

 「届かなかった」という部分を妙に強調して、ハクは私に問いかけた。

 言葉に詰まり、曖昧な返事になってしまう。

 どれだけ待っても声が伝わらない、か。

 そんな状況、あまりにも現実離れしていて、想像がつかない。

 「僕なら、とっくに諦めてるな。でも、ハワイガラスは今でも鳴いてる。人間とは大違いだと思うよ。」

 ハクは再び、体勢を戻して天井を見上げた。

 人間とは大違い、とはどういうことだろう。

 私は腰を曲げてハクの方へ体を向ける。

 窓から覗く空は、わずかな時間でたくさんの雲で覆い隠れてしまっている。

 でも、さっきよりもここは彩度が高い。

 「いじめや虐待に遭ってる人で、助けを求めない人は結構多いんだってさ。助けを求めないのは、誰かに相談したところで解決しない、自分で解決する、時間が経てば解決する、心配をかけたくないって理由が多いみたい。皆、諦めるんだ。」

 「いじめ」という単語に思わず反応してしまう。

 はっと驚いて、ハクの方を見る。

 誰かに相談したところで解決しない、自分で解決する、時間が経てば解決する…まさに、私みたいだと思った。

 どうせ変わらない、だから諦める―

 ハクは私の方を見ないまま、話を続ける。

 「でも、このまま変わらないなんて、言い切れないでしょ?ハワイガラスだって、このまま仲間に会える確率が0%だなんて言い切れない。」

 ハクの表情は、いつものような柔和な表情じゃなくて、子供を諭す親みたいだった。

 ハクの言葉が、まるで私を責めるように胸をじくじくと痛めつける。

 そんなことはとっくにわかっている、でも、改めてそう言われると耳をふさいでしまいたくなる。キーンと耳鳴りがする。

 すると急に、勢いよく白がベッドから起き上がって私に体を向けて目の前に立つ。

 反動で、体が少し跳ねる。

 体勢を崩して手をついてしまい、ちくりと痛みが走った。

 「だからね、助けを求めていいんだよ。君を絶対に助かる。だって君の誰にも言えない声を、僕は一音もこぼさずに聞くから。」

 そういい、ハクは優しく包み込むような、そして少し自信を浮かべたような眩しい笑みを浮かべ、両腕をひろげた。

 「だから、話そうよ。」

 太陽みたいな声だった。

 眩しい。乳白色のくすんだ保健室が、新品みたいに輝いて見えた。

 ハクが私の何を知っているのか、どうしてこんな言葉をくれるのかわからない。

 でも、その姿がお父さんと重なった。

 視界が二重にゆがむ。

 ふと自分の手に、ポタリという生暖かい感覚がした。

 見ると、水滴が落ちている。

 手に落ちてくる水滴は、次々に降ってくる。

 気づけば私は、泣いていた。

 泣いていることに気がついてしまうと、涙は止まるどころかさらに溢れてくる。

 さっきまでどうしたって涙なんて出てこなかったのに。

 「えっ」と、ハクが息を呑むような声が聞こえる。

 目の前で相手が泣き出したら驚くのは無理もないだろう。

 それでも防波堤を壊したように涙はどんどん流れてくる。

 「ごめん」と、先程の声とは大違いの弱々しい声が頭の上から降ってくる。

 ハクがきっと困惑した表情をしているのだと容易に想像できるが、泣き顔のまま顔を合わせる事ができない。

 「違う、ハクのせいじゃなくて…」

 必死に訂正しようとするが、嗚咽で上手く喋れることができない。

 ハクが私の隣に座る気配がする。

 涙をこらえようとする自分の顔がどんなものか、きっとひどい顔をしているんだろうと思い、これでもかと俯いて重力で下がる髪で顔を隠す。

 するとハクが私の背中をさするようになで始めた。

 「ごめん、抑えないでいいよ、全部。」

 ささやくような優しい声は、鼓膜に溶け出すように甘く入ってきた。

 白がポンポンと背中を叩く度に嗚咽が漏れる。

 白の言葉がきっかけになって、ついにこらえきれなかった嗚咽が、声が、涙がボロボロと流れだした。

 心の奥の異物を流すように、なにか苦しいものがどんどん流れてくる。

 授業時間の静かな学校で、私の声が静かに響く。

 きっとそれは誰にも届かないだろうが、白は私の背中をさすり続けた。

 まるでこの世界で二人だけになったみたいだった。でも、もういつもみたいにひとりじゃない。

 それだけが私の心に優しく温かく滲んだ。

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