第4話

ピピピ…

 どこか遠くで音がなっているような感じがして、すぐにそれは自分の耳元で鳴っていることに気が付き、うっすらと重いまぶたを開いてアラームを止める。

 そのまま布団に突っ伏して眠りたかったが、鉛のように重い体を懸命に起こした。

 それでも布団から出るのはまだ嫌で、座ったままカーテンを開く。

 カーテンを開くと隙間から暖かい春の日差しが入る。

 風が緩み、初夏の草の匂いを含んだその風は、空気に漂うホコリをチラチラと照らした。

 座った状態ではうまくカーテンを閉めることができず、あと少しというところで突っかかる。

 仕方なく布団から起き上がって、カーテンをしっかりと開けて紐で縛る。

 裸足で畳を踏むと、ふわりとホコリが舞うのといっしょに、日差しを吸収した畳特有の香りが鼻をかする。

 だるい体を叱咤するように、一度大きく伸びをする。

 ぐーっとお腹がちぎれちゃうんじゃないかと思うぐらい伸びると、ぐらりとバランスを崩して慌てて手をおろした。

 ふわあと大きめなアクビが出て、眠気が私をもう一度布団においでと言ってくる。

 それをぐっと抑えて私は畳の上を歩き始めた。

 廊下に出て階段を進むと、ギッギッと木の板が短い悲鳴をあげる。

 階段上には小窓がついていて、朝日が良く入るのだが、下に一段、また一段と降りていくにつれて、どんどん明度が下がっていく。

 階段の隅にはホコリが溜まっていて、掃除をしなければいけないな、と嫌なものを見つけた気分になった。

 階段を下りてリビングにつくと、机の上に小さな紙がおいてあった。

 正方形で、原色のピンク色をした付箋は、眠気た目には少しばかり刺激が強い。

 付箋には、ピンク色に負けじと濃い筆圧で書かれた、ちょっと崩れていて、でもきれいな字で、

 「今日は朝ちょっと用事があるから、申し訳ないけど朝ごはんは自分で用意してね。それと、今日は夜勤だから、晩ご飯は冷蔵庫にあります。」

 と書かれている。 

 「ご飯くらい私が準備するって言ってるのに。」

 と、思わず本人に対してはそんな強く言えないくせして一丁前に、そんな愚痴がこぼれた。

 ぼそっと放った言葉はそのまま空気に溶けることなく滲んでいった。

 これを書いたのは美咲さんという人で、両親のいない私の親代わりとして世話をしてくれている人だ。

 すっぴんでも見劣りしない、大きくて少し釣った目と、アッシュブラウンだとかなんだとか言っていた、ムラなくきれいに染められた髪がきれいな人だ。

 両親は私が小学三年生の時に亡くなった。

 交通事故だったらしい。

 あの時のことは、今でも昨日あったかのように鮮明に覚えている。

 お父さんとお母さんが、結婚記念日だから、たまには2人で出かけようと、お父さんの友人らしい人に私を預けて出かけていった。

 出かける時に、お母さんが私の手に自分の手を合わせて、「いい子にしてるんだよ。すぐに帰るから。」と、慈しむような、線の細い輪郭を上げて笑った。

 その後はお母さんの言いつけを守るため、「いい子」で待っていたのだが、突然、ジリリリリリッとけたたましい電話の音が部屋の中を、まるで紙をビリビリに破るように、四方八方を切り裂いた。

 びっくりして耳をふさいだのだが、驚きと恐怖で、心臓が外に聞こえるんじゃないかと思うぐらいバクバクと拍動した。

 電話の音じゃなくて、その向こうにもっと何か怖いものがある気がして、不安が濁流のように押し寄せてきた。

 急いで受話器を取ったお父さんの友人は、電話からの音を聞くと、コマ送りみたいにどんどん表情が険しくなっていった。

 そして一言、

 「わかりました」

 というと、私を連れて病院へと向かった。

 それは本当にあっという間で、周りの人たちも台風みたいにぐるぐる回っていて、病院についてからはよく覚えていない。

 でも結局、私はお母さんとお父さんには会えなかった。

 周りの気遣いだったのかもしれない。

 直接お母さんとお父さんが亡くなってしまったということは誰にも言われなかったが、子供ながらになんとなく察した。

 それからは葬式もないまま美咲さんと暮らすことになり、通っていた学校も変わってしまった。

 今では、美咲さんには本当に感謝している。

 毎日のように病院で働き、私が不自由なく暮らせるように気遣ってくれて、時々お出かけに誘ってもくれる。

 そんな人だからこそ、少しでも恩を返したくて何かと手伝おうとするのだが、いつも「子供に無理はさせられない」と断られてしまう。

 短くため息を吐いて、付箋にチェックマークを書く。

 これは、私がメモを読んだという合図だ。

 台所には食パンがあったので、今日の朝ごはんはこれにしよう。

 久しぶりにピザトーストが食べたいと思ったが、作るのが億劫で、パターを塗ってトースターでそのまま焼くことにする。

 私は標準よりもちょっと焦げたぐらいが好きなので、少し悩んだが秒数をもう10秒だけ増やすことにした。 

 トースターで食パンを焼いている間、コップを取り出して牛乳を注ぐ。

 牛乳は傾けるとドバっと出てくるので、少し慎重にいれる。

 ペットボトルに入っているジュースなんかは滑らかに注げるのに、どうしてパックのものは波打って出てくるのだろうか。

 その時ちょうど、トースターが焼き終わった合図がした。

 開くと、トーストのこんがり焼けたいい匂いが鼻をくすぐる。

 「アチッ」

 トーストの角の方をつまんで引きずるようにして皿にすべらせる。

 右手でコップ、左手で皿を持ってリビングまで行こうと思ったが、面倒になってやはり台所で食べることにした。

 「いただきます」

 小さくそう言ってトーストをかじる。

 誰かの声が返ってくるわけじゃないから、その言葉は虚空に消えていく。

 それを寂しいと思ったことがないわけじゃない。

 でも、一人でいるのも嫌いじゃないので、今の生活に不満はない。

 もちろん、美咲さんとご飯を食べることもよくある。

 でも、未だに美咲さんとの距離は掴めずにいて、何を喋ればいいかわからないから、いつも美咲さんの方から話しかけてくれる。

 「最近学校どう?」

 「今日は雨が降るんだって。」

 その言葉に「まあまあかな」「そうなんだ」とうまく返事を返せないまま、なあなあと話してしまう。

 時折、パズルがかちりとハマるように、会話のテンポがピッタリ噛み合う時があって、そういう時はそれなりにラリーが続く。

 だから、別に美咲さんと仲が悪いとかそういうのではなくて、どうしてか自分の中で美咲さんをどう形容していいかが分からず、一本線の引かれたその向こう側に足を踏み入れることができないでいる。

 その時、ガタンと硬いものが落ちるような音と同時に、軽快で陽気な音楽と賑やかな笑い声が静まり返った部屋に響く。

 どうやら、テレビのリモコンが落ちてしまい、その拍子に反応して電源がついたようだ。

 取りに行く気も起きず、食べながらテレビから流れてくる音を聞き流す。

 聞いていても無意味な掛け合いに、意味もなく面白げに話す人達。一人暮らしをすると、さみしくてテレビの音声を付けてしまうと前どこかで聞いたことがあるが、気持ちは理解できない。

 部屋に音が生まれただけで、寂しさが紛れるのだろうか。

 トーストを食べ終わり、台所へ皿を洗うため立ち上がる。

 食べたトーストの味は覚えていないが、空っぽだった腹は満たされた。

 洗い終わってもまだテレビからは騒がしい音が流れ続けている。

 時計を見るとまだ7時で、せっかくだから、と思いリモコンを手にとって番組を変える。

 ちょうどニュース番組がやっていたようで、きれいに髪を内巻きにワンカールさせた、柔和な表情をしたニュースキャスターが映った。

 「続いてのニュースです。月海高等学校の女子生徒一人が、昨夜0時頃、学校の屋上から飛び降り自殺をしたとして、警察側はいじめの可能性を視野に...」

 滑舌良く、口を大きく開閉させながら話すキャスターの声に、胸のずっと奥の方で心臓が、ゴトッゴトッとノックするように鳴る。

 手足が少し痺れるような感じがして、リモコンの電源を切った。

 するとさっきまでの音が消えてなくなり、沈黙がまた眼の前を通り過ぎていった。

 ぼんやりと立ったまま、視線をテレビの黒い画面に縫い付けられたように眺めていると、ふと、はっと意識が戻ったように2度大きく瞬きをした。

 最近、こんなことが多い気がする。

 ふーっとゆっくり息を吐いて、身支度を始めた。

 一瞬だけ、もし昨日私があのまま飛び降りていたら、このニュースに出てくるのは私の名前だったのかな、とあの人の白い艷やかな髪が頭の中をかすめた。

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