第3話

 「ん…」

 パッと電源がつくかのように、目が覚めた。

 しかし、脳と身体をつなぐ回路がうまく作動しないのか、意識は目覚めているのに体が上手く動かない。

 仕方がないので、とりあえず辺りを目線だけ動かして確認する。

 意識がなくなってからそれなりに時間が経っているのか、空にはもうあの茜色は消えていて、空一面が紺桔梗色に塗りつぶされている。

 その上には、まるで宝石をばらまいたような星が散らばっていた。

 幼い頃はよく空を見上げていたが、こうしてまじまじと空を見上げるのは久しぶりだ。

 夜空は遠いようで近くて、このまま手を伸ばせばあの大粒の星を掴めるんじゃないかと思う。

 実際に届くことなんてあり得ないが、あの星を掴んだら、どんな見た目で、匂いで、どんな温度なんだろう、と半ば放心したような頭で考える。

 「あ、起きた?」

 突然、頭の上に声が降ってきた。

 少し高めで、蛇口をひねって流れてくる水のように、流れるような透き通った声だ。

 ふわふわと降ってきたその声は、どこから聞こえているのか分からない、例えるなら空気のようで、でも真ん中に1本細い筋が入っているような、楽器のような声だった。

 目の前の綺麗な夜空が影で遮られ、声の主の顔が見える。

 驚いて思わず目を見開いた。

 まるで、物語から引っ張り出したような人だった。

 耳にかけてあった髪がするりと落ち、髪の艶が美しい曲線を描くように移動する。

 その髪色には色素がなく真っ白で、背景の濃い紺桔梗色とのコントラストのせいで、あの星のように、白い光を帯びているように見えた。

 風に揺れる長めの前髪の隙間からは、すっと鼻筋の通った鼻と、色素の薄い、クリアな赤茶色の瞳が、白く滑らかで陶器のような肌に乗っていた。

 テレビの中にいる芸能人たちとは似ても似つかない、本当に生きている人間なのかと疑ってしまいそうな儚げで美しい目の前の人は、口の端を上げて、花が咲いたような笑みを浮かべた。

 「君がここから飛び降りようとしているのを見て、慌てて助けたんだ。」 

 月のような見た目とは反対に、明るくて、朗らかな印象を受ける話し方で、少し遠慮がちに小首をかしげた。

 その動きに合わせてサラサラと動く髪の上には、夜空の青や紫を吸い込んで形や色を変える艶の輪が滑っている。

 ピクリと、今になって思い出したかのように、身体の回路が繋がって指先がわずかに動く。

 それをきっかけに、「あ…」と、吐息のようなかすれた声が出る。 

 一度喉のつまみを調節するように、口を開かずにしたううん、と小さく声を出し、ようやく相手に語りかけた。

 「えっと、あなたが私を助けてくれたってこと、ですか?」

 目の前の相手はおそらく高校生ぐらいではあるが、顔は童顔で幼く見えるのに反し、雰囲気は大人みたいに落ち着いていて冷たい。

 「そうだよ。…迷惑だった?」

 口の端を上げてコクリと頷いたが、ふと考えを巡らすように目を上から横へと流すと、間をおいて少し不安げな表情に変わった。

 返事をしようと思ったが、自分が今目の前の相手の行動に対して感謝してるのか、それとも迷惑に思っているのか、ぐちゃぐちゃに沢山の絵の具が混ぜられているみたいでわからない。

 さっきまでの、衝動に駆られた「楽になりたい」という感情も、どこかに落としてしまったのか、ぽっかりと抜け落ちたような感覚だ。

 中身がなくなってしまった容器みたいで、結局、首を横にするだけだった。

 それを相手がどう受け取ったのか分からないが、ふうと一度呼吸を置き、

 「そろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」

 と、遠慮がちに言った。

 「あれなら、家まで送るよ。」

 少し目を伏せると、長いまつげが印象的だ。

 長いまつげは絡まることなくそれぞれがまっすぐと伸びていて、等しい間隔で広がっている。

 たしかに、自殺を図ろうとしていた高校生くらいの子供1人を一人で帰らすのも気が引けるだろう。

 しかし、私はまた首を横に振ってそれを断った。

 「大丈夫です。ありがとうございます。」

 そう言うと相手は「そう」と、眉尻を下げて小さく笑った。

 起き上がろうとすると手を差し伸べられ、断るのも気が引けたのでそのまま手を取って上体を起こす。

 体についたゴミを手である程度払うと、砂や小さな石がパラパラと落ちる。

 地面を見ると、うっすら苔の生えた場所もあり、白かったであろうタイルが黄色っぽく見える。

 家に帰ったら制服を洗わなければ、と床から視線を離した。

 しっかりと立ち上がって相手を見ると、思っていたよりも身長が高くて少し驚く。

 さっきまでは煽りの構図だったからか、顔の印象もさっきとは若干違うように感じた。

 私は相手に礼をして、この場を立ち去ろうとしたが、「あ」という声で呼び止められた。

 振り返ると、笑顔だがどこか悲しげで、でも穏やかな、不思議な表情をしていた。

 「僕の名前、ハクっていうんだ。」

 「それだけ」と少し茶目っ気っぽく顔を横へ揺らすと、手を小さく振って「またね」といった。

 「また」なんてあるんだろうか。

 そう思ったが、でも不思議とまた会う気がした。

 特段なにか確証があったわけではないし、予兆があるというわけでもない。

 だがなんとなく、「また会うのか」とふんわりと言葉が心に浮いた。

 手を振り返すのは少しばかりためらって、胸の方まで挙げた手に行き場はなく、小さく会釈をしてその場から去った。

 歩き始めた時に、私も名前を言うべきだったか、と思ったが、わざわざまた振り返って名前だけ伝えるのも気まずいと思い、歩みは止めずに屋上の扉を開けた。

 錆のついた無駄に重い扉は、ギギギと不快な音を出しながら、沈黙の空間を裂いた。

 閉めるときにちらりと振り返ると、あの人は柵に腕をかけて夜空を眺めていた。

 ブラブラと足を揺らし、風に吹かれる後ろ姿は、どうしてか少し儚く見えた。

 ふと、あの人はなぜここにいたのだろうと、疑問が頭によぎったが、何かをおいていくように、そのまま屋上の扉をバタリと閉めた。

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