第5話

私の通っている高校は林陽高校と言って、偏差値が55程度の公立高校だ。

 どうしてその高校にしたかと聞かれると、「普通だから」と答えるだろう。

 制服も校則も行事も普通。強いて言うなら、学費などの支援が充実していたことぐらいだろうか。

 別にお金に困っているわけではないが、美咲さんに学費を払ってもらっている以上、なるべく負担はかけたくないと思ったからだ。

 まあ、それを美咲さんに言ってしまえば、「子供が何を気にしてるの。」と一蹴されてしまいそうだが。

 特に将来の夢があるわけではないから、高校選択にはこだわりはなく、受験生のときも自分の成績を見て妥当だと思った場所を選んだ。

 担任の先生には、もっと上の高校だって行けると言われたが、特段そうする理由もなかったから行かなかった。

 校舎に入って靴を履き替えようとすると、自分の上靴が入っていないことに気づく。

 昨日の帰りを思い出してみたが、たしかにあったはずだ。

 隣の靴箱に間違えて入ってしまっているわけでもない。

 「あ」と、一つだけ思い当たることが見つかり、けれども同時に頭の上に重りが乗ったように体がだるくなった。

 お腹の左奥が、きゅうっと縮んだ。

 仕方なく、通りかかった先生に「上靴を忘れました」といい、スリッパを借りて履く。

 あえて先生には上靴がなくなっていることは言わなかった。

 言っても面倒なことになるということがわかっていたから。

 教室に入ると、案の定、私の机には黒いペンで落書きがされた上靴がおいてあった。

 落書きには、雑な走り書きで「死ね」「キモい」とか、そんな言葉が書かれていて、それらが嫌な動きをしながら踊っている。

 私は上靴から目をそらして、その隣にカバンをドスンと置いた。

 衝撃で、机が少しグラグラと揺れる。

 「あれ?なにそれー」

 突然、変に媚びたような、語尾を1トーン高く伸ばして話す声が後ろから飛んできた。

 その声を聞いて、自分の眉がひそむ感覚がした。

 私はそのまま、その声を無視してカバンから教科書やら筆記用具やらを取り出す。

 それでもなおその声のやつは私の視界に入り込んできて、私の上靴を指さした。

 ムスクの甘い匂いが鼻をさし、そのにおいが嫌いなわけでもないが、私は思わず顔を退ける。

 「え、なにこれ誰にやられたの?」

 口元に手をあてて、眉を上げて大げさに驚くそいつの口元には、言動と似つかない気味の悪い笑みが浮かんでいて、楽しくてたまらないという雰囲気が肌にひしひしと伝わって頬が粟立つ。

 窓から差し込む春に日差しに透かされて茶色に見える髪はきれいにウェーブになるように巻かれてあり、顔には薄っすらと化粧の薄いピンクっぽい、肌なじみの良い色が乗っている。

 どうせ、上靴をこうしたのもこいつだろう。

 「これ、すぐに洗わないと落ちなくなっちゃうかも。」

 そういうとそいつは、今まで後ろに回していたもう片方の腕を前に出した。

 その腕には紙コップが握られている。

 次の瞬間、そいつは机に乗った上靴に、紙コップを傾けて水をかけた。

 パシャッと小さく水滴が机や床にぶつかる音が聞こえて、すぐにポタポタと机に乗った水たちが床へ降りていく。

 上靴はかけられた水を勢いよく吸収し、ペンで書かれてあった黒い文字はじんわりと紫色っぽい色に姿を変えて円状に滲んでいく。

 それでも私は何も言わず、水に濡れた上靴を眺めていた。

 「ちょ、ルカやり過ぎ。やっば。」

 すると前の方から、朝聞いたニュースキャスターみたいな、滑舌が良く聞き取りやすい声が聞こえた。

 顔を上げると、髪を頭の高いところでお団子に結び、健康的に焼けた少しボーイッシュなやつが、私と視線を合わせることなく近づいてきた。

 そいつは、ルカと呼ばれたやつの今の行為など咎める態度など微塵も感じられず、ルカと同じように歪んだ笑顔をその顔に貼り付け、楽しそうに笑っている。 

 すると前の扉から担任の先生が入ってきた。

 清潔感のある髪を真ん中でかき上げ、ぴっしりとしたスーツに身を包んだ細身の先生は、私達の方を見て、驚いたような、怪訝そうな顔で「どうした?」と、こちらに近づいてきた。

 すると、二人はさっきまでの醜い顔を一変させ、純粋で無垢な子供を演じるかのような、小汚い演技の顔を先生に見せた。

 その手荒に貼り付けた顔の奥にはチラチラとさっきまでの歪んだ笑みが見え隠れしているのに、これでこの教師は騙されるというのだから驚きだ。

 「実は、この上靴にペンで落書きがあって、それを消すために水を垂らそうと思ったら、ルカが間違って一気にこぼしちゃって…」

 ルカは申し訳無さそうに目を伏せ、目線を左下に滑らせた。

 上靴に書かれた文字は滲んでもはや何が書いていたのかわからなくなっていた。

 先生は「そうなのか?」と、私に視線を合わせるように顔を少し覗き込んで尋ねる。

 仮に違っても、二人の前で「違います、この人達がやったんです。」なんて言えるわけがないだろう。

 どうしてこの教師はそこまで頭が回らないんだと不思議で仕方がない。

 「そうです。ルカが落としてくれようとしたんですけど、こぼしちゃって。」

 それでも、ここで二人に合わせてしまう自分の弱さに腹が立つ。

 先生は「そうか」というと、「後で上履きに書いてあった落書きについて聞きたいから、君は昼休みに先生の所まで来なさい。」と私を指差して言った。

 それと、「水はしっかり掃除するように」と。

 先生は一度教室を出ていった。

 そうすると二人はさっきまでのキレイな顔をベリッと剥がし、また下心な顔で笑いあった。

 「だからやりすぎだって言ったじゃん。」

 「えー、ハルカだって楽しそうにしてたくせに。」

 そう言ってハルカと呼ばれた方は私に雑巾を放り投げ、「んじゃ、拭いといてね。」と言って去っていった。

 私は雑巾を強く握りしめたが、なにかできるわけでもなく、机の水を拭き始めた。

 口の中で、何かを潰したような、酸っぱい味がした。

 私がこんなふうなことをされ始めたのは高1のときだ。

 この高校には、近くに少し大きめな中学校があり、学年の半分くらいがその中学校の卒業生でできている。

 私は違う中学校から来ていて知らなかったのだが、さっきの二人、ルカとハルカともう一人、アミというやつは、中学校の最初の方からいじめていた子がいたらしい。

 そして、運悪くその三人といじめられていた子は、私も含めて同じクラスになってしまった。

 高校に入ってからも三人のいじめは変わることなく続いていて、三人は、特に中心にいるアミは周りからも怖がられていて、他のクラスメイト皆は荒波立てず傍観していることしかできなかった。

 高校に入学してすぐの頃、私はアミがいじめられている子を蹴っているところを見てしまい、思わず、「やめなよ。格好悪い。」とアミに対して言ってしまったのだ。

 その時から、気づけばいじめのターゲットは私に変わり、次の日に学校に行くと、私をかばった子は私をいじめる側になっていた。

 二年生になればいじめられていた子は違うクラスになって、今はどうしているかわからない。

 もちろんアミたちに脅されていたんだろうという想像は容易につくが、新しい環境に馴染めきれなかった私にとって、それはすごく残酷なものだった。

 今じゃ、中学校の頃の友人も離れ、他のクラスメイトたちは私を腫れ物のように遠巻きに見るだけだ。

 ぎゅっと雑巾を握りしめると、紫色のインクが混じった水が、じわりと揺らぎながら、水の中を泳ぐように広がった。

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