第11話 老研究者の手記2

『告発の日』を迎えるまで、彼の評価は批判や否定の一辺倒だったことは否めない。


事実としてみた場合、彼は悪名を恣とした親衛隊の、その極めて模範的将校であった。

直接的にではないにしろ、大勢の死に関与している事も公的に認められていた。

1943年の『もったいない』演説や再利用局の工場群は、入っていった人間が出てこなかったという証言の信憑性を高めている。

親を働かせるために子供を人質に取っていたという事実は、それに拍車をかけていた。


彼を”周囲に出し抜かれ、まんまとユダヤ人を養った間抜けな成金ナチス”と言う者もいる。


戦前からの党幹部との私的な付き合い、根回し、贈収賄はドイツ国内の富を吸い尽くすために行われていたという見方もあり、国内外からも反感を買っている。

戦後の映画の中には、勲章と宝石類を身に纏いデップリと太った彼が、こき使っていたユダヤ人秘書に、ナチス降伏と共に射殺されるという物まであった。

(私はそれを見た時、現実とのあまりの乖離に思わず笑ってしまった憶えがある)


その日を迎えるときまで、彼の世間からの評価は得てして、そんなものだった。


それでも主流派ではない一部の研究者は、ただ事実のみを追求し続けた。

彼の工場と他の収容所を比べた際の死傷率の著しい低さを糸口に、様々な疑問を抱くにいたった者たちも居た。

あの地下の子供たちや、教師や医者たちの存在を探り当てたものもいる。

だがその答えを持つ体験者たちの解答を引き出すまでには及ばず、いずれも告発の日を待たなければならなかった。

そして何より、彼の庇護を受けた人びとは課せられた約束の下で一様に口を噤んでいたのだった。


何故、人びとが口を噤んでいたかを私は説明できる。


私も、沈黙の体験者の一人であったからだ。


沈黙は、彼と人びとの間に結んだ、たった一つの理不尽な契約だったからである。

厳密に言うならばナチスによる最終的解決と戦争の狭間にあって、完全な自由とまではいかなくとも、あの地下で教育と安全が与えられたことへの、何も持てなかった人びとによる彼への対価だった。


きっと戦後において周囲の余計な反感を買うだろうから、と彼が言っていたと人づてに聞いたこともある。

その選択が良かったのか悪かったのかは、未だに私の中で答えを出せていない。


彼の視点から見た場合、自身の名誉など、どうでもいいと思っていたのだろう。

そういう独りよがりな欠点が、確かにあったのかもしれない。

彼は自身への否定的な全てを受け止めるつもりでいた一方で、その余波が自らの保護した人びとに及ぶことを極度に恐れていた。

自他ともに認めていた悪辣な評判というものを過剰評価していたのかもしれない。


それに彼自身、自らの犯した罪に耐えられなかったのだろうと今でならわかる。

公のもとに裁かれたがっていたとしか思えない行動を取った事も、ある程度なら。

きっと一人の人間が抱えられる量の事柄ではなかったのだろう。

モラルが崩壊した世界の中で、水のない海で泳ぐ魚のように苦しかったのかもしれない。

はっきり言えば1945年に向かうにつれて、彼の精神状態は悪化していったのだろう。


年月という砂礫に埋もれてしまいそうなほどに昔の、彼と初めて会った記憶を思い出す。


あれは1944年の8月のことだった。


私たち家族と同居人らは、紆余曲折の末にヴェステルボルク収容所に向かう列車にユダヤ人として乗せられていて。

突然、不衛生な貨物列車から無作為に降ろされ、駅で選別された時に、私は家族と離れ離れになっていた。

戦後に判明することだが、父以外の家族とはそれが最後の別れになるなんて思ってもいないまま、お別れもできなかった。


分けられた同じグループの人びとは別の線路を辿る列車で、違う駅に着くことになる。

想像していたのとは別で、すぐに収容所に入れられることはなかった。

そこからは普通のバスに乗せられて、長い長い道のりを征くことになった。

一緒に隠れていた人たち、初めての恋人のこと、家族のこと、どうしても頭から離れずに、窓の外を見つづけて。

あの狭く、息苦しかった隠れ場所に、この時ほど戻りたいと思ったことはなかった。

座り続けてお尻が痛くなったけれども、途中で缶詰が配られて、皆それが最後の晩餐になるかもしれないと黙々と食べていた。

どういう味をしていたのかも思い出せないけれど、そこで初めて、少しだけ落ち着けた。


そしてバスの止まった場所で、最初に工場の人びとと出会うことになった。

倉庫の様な一角で、それは秘密裏に行われた

並ばせられ年齢、職業、どこから来たのかをしっかりと記録される。

喋れない子は無理に言わなくていいと、その場の大人からは優しくされていた。

収容所に連れて行かれるとばかり覚悟していたのだから、その空気の差に戸惑ったと思う。

私を含め子供だけは別の場所に移されたのだけれど、それが地下行きを意味したのだった。


子供たちは、更に工場の裏手で貨物トラックに乗せ替えられた。

同乗していた『地下』職員たちは、手慣れた様に乗り込んで来た子供たちを宥めていた。

彼らは口々に言う”私達もユダヤ人だ、君たちを助けに来たぞ”と。

そうして用意されたクッションに座り、子供たちは幌の中へと収まったのである。

途中止まった時もあった、恐らく検問か何かあったのだろう。

当時はもう西も東もめちゃくちゃだったから、まともな兵隊なんていなかったから、あるいは何らかの契約が交わされていたのだろう、そのまま通過した。


そして、あの森の中に続く、細い一本の道を荷物と一緒にゴトゴト震えながら私達は通ったんだろう。


私を含めて降車した子供たちは。トラックの停まった森の一角に地下へと続く入口を見た。

当時の私の目には異様に映ったが、親切な職員たちが先導して入口を開く。

そこは所謂『広場』と呼ばれた所で、そのまま集会場みたいに広い空間が広がっていて。

そこには何人かの子供と大人が居たと思う。


その大人たちの中に、彼が居た。


背が高くて怖そうな、軍人の様に最初は見えた、まぁ事実そうだったけれども。

続くように職員たちの自己紹介や医師たちの診断が始まる、弱っていた子供たちは別の部屋に移されていった。

私は何だか夢を見ているようで、視線を漂わせていた所、同乗した職員たちが彼と話しているのが見えた。

何事かを聞き、書類を見ながら、この場にいる子供たちのことを把握していたのだろう。

だが突然、彼は酷く動揺したように顔を歪めて、ふらつくのが見えた。

傍に控えていた強面のおじさんがそれを支えて、私は見てはいけないようなものを見てしまった気がして視線を逸らしてしまった。


でも本当に驚くのは、その後だった。


「社長、無理せんでくだせえ」

「いや、いい、俺は大丈夫だボーマン、少し……彼女と話す」


その社長と呼ばれた大人が、明らかにこっちへ来たのだから縮こまってしまった。

何でだろうと泣きそうになっていると、逆にこっちが申し訳なくなってしまいそうな声で聞いてきた。


「君の名前に間違いはないか? 家族三人と別れてしまったと聞いたが」


嘘をつく必要もなかったから正直に私が家族と離れ離れになってしまったことを伝えたら、一層狼狽えたように見えた。


「そうか……それは、本当に、すまなかった……」


罪人が許しを告解するように、項垂れながら言う。

私が理由もわからず困ってしまったところ、いつの間にか来ていたおじさんが、彼に肩を貸していた。


「これがなんの慰めにもならないかもしれない、戦後、君の家族を探すのを約束する……必ず……」

「すまねぇなフロイライン、社長は疲れが溜まってるんでさ」


それが、彼との初めての対面だった。

後から保母長であるヘルマさんに、彼がこの施設の運営者であることを伝えられて私は二度驚く事になった。

以降、終戦までの1年に満たない間に、何度か地下で顔を会わせて挨拶したこともある。

彼は周囲に厳しくは振る舞えど、玩具や菓子を持ってきては振る舞い、子供たちに終始優しかったと思う。

だからこそ彼の降伏後の振る舞いを見た時、その残忍な親衛隊将校の顔が、私にはまるで演技のように思えたのだった。


彼の所業も、人びとの傘となったことも、私は全てを知ってはいないかもしれないけれど。

私を含め、彼が救った人びとは確かに存在しているのだ。

だからこそ、人びとは契約の履行のためにそれぞれ口を噤んだ。


それが恩人の望んだ事であったのだから。                

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