第12話 引き継いだもの、引き継がれたもの

打ち上げられた花火の光が室内を照らし、その開花音が時折聞こえた。

人びとの歓声は、暴虐と混迷の果てに分かたれてしまった国の喜ばしき復活の呼び声となりつつある。

イデオロギーの対立によって分断されていた人びとが一つになろうとする日。

東西の融合による統一ドイツの産声が響き続けていた。


だが、この空間に満ちている死出への静寂に勝てるものではない。


今、一人の男の命が潰えようとしている。


「……を……傍に……」


老人は途絶えがちになった意識を必死に繋ぎ止めながら呟き、それを聞いた医者が息子を呼んだ。

未だ思考を保持している老人の頭は、自身がもう1時間後には旅立っているか、思考能力を喪失しているだろうと見切りをつけていた。

専属の医師たちの波が分かれ、老人の息子が前に進む。

カシャリと音を立て、歩行補助具を付けた男性が、器用にベッドの傍に寄った。


「父さん、俺はここにいるよ」


喪失を受け入れつつある息子の優しげな声が、花火の合間に静かに響いた。

老人の痩せ細った手を、たくましい手で力強く、壊れないように優しく握りながら。


次第にすすり泣きや嗚咽が、周囲で漏れだした。


広い病室には、いずれも悲しみの表情を浮かべた老若男女が集まっている。

その人びとは、傍からすると老人とはまるで繋がりがないように見えるだろう。


会社の重役のような身なりの良い者。

クローゼットにしまいっぱなしだったスーツを急いで仕立て直してきたような者。

どう考えても路地裏から紛れ込んできたとしか思えない怪しげな風体の者。

二人の幼子を抱えた主婦、新生まもない制服を着た軍人のような逞しい肢体を持つ者。

幾つかの宗教団体の幹部となった者、医師たちの一部もそうだった。

そして、人生の何たるものかを頬の皺に刻んだ生き抜いた人種の違う老人たち。


これが欧州の誇る企業グループの王者であった病人の、家族のほんの一部であった。


この場に来られない者も大勢居たが、それでも各自が悲しみ、別れを惜しんでいた。

銃声の途切れない紛争地帯で、あるいは戦争を控えた地で、血に濡れた両手で作業をつつけながら。

極東の弓状列島の商社で、道のない東南アジアの奥地で、自由と民主主義の根城の奥で声を張り上げて。

遠く広がる同じ空の下で、皆同じことを考えていた。


老人は来れるものだけでいいと前もって断っている、そういった点が彼の業績を作っていた。

活動基金は溢れ出る泉のように、苦境に陥った者を救い続けている。

あらゆる業界で彼に世話になったものは多く、それらがまた彼の企業を強く下支えしていた。

老人は、この状態に至ってもなお自らの役割を果たしているのだった。


「お前に、あの方の遺産を……権限を、この会社を譲る、これが公式の最期の発言だ、よいな?」


息子の傍らには遺産の管理人も控えていた、彼も承認の頷きを返す。

もっともこの状態に至る前までにある程度のお膳立ては済んでいたが、戴冠の儀式は必要だった。


そして会社の保有する総資産から見れば、塵芥のように質素な寝室のベッドが男の最期の地となろうとしている。

男は遺される義務を果たすためにもっとも優れ、もっとも知識に富み、そして器の深い我が子に、今、自らの重たい花の冠を譲ろうとしていた。


奇しくも、その冠は創造者自身の手に渡ろうとしている。


「引き継ぎできるな? お前になら……」

「抜かりありません」

「さすが我が息子だ……」


病床にいる弱りきった老人がおおよそ投射できる限界量の愛情を、たった一言に込めて放った。

青白い頬には息子のこれからを励ますように、しばらく灯ることのなかった明るい笑みを浮かべて。


息子と呼ばれた男は、幼子に戻ったようにただ頷きながら、応えるように一筋の線を瞳から頬に描いた。

血脈的には全くの他人である二人の間には、確かに親子としての繋がりが存在していた。

それは数十年来の企業内の仲間としての繋がりだけではない。

もっと言語化できないような深い感情の繋がりである。

周りにいる者たちも、その例外ではなかった。

家族と読んでも差し支えない者たちではあったが、老人とは一切血の繋がりはない。


全てはあのたった一人の人間の下で、命を救われた者たちであったのだから。

その縁が今日まで結びつき、複雑に絡み合いながらも確かに存在し続けていた。


老人は、親友が託してくれた幾つかの望みをどうにか叶えてやりたかった。

約束を果たすために、ただ、それだけであった。

それだけで、すでに半世紀近くの時が過ぎていた。

あっという間だった、今や親友が死んだ齢よりも長く生きてしまっていた。

だが仕事はまだまだ残っている、幾つかの惨事も、救うべき人びとも、たくさん。

これから起こる出来事がどういった確率で起こるかは、まさしく誰も知らないだろうが。

どれだけの人を、手を、金を割いたとしてもどうしようもならないかもしれない。

薄っすらとした絶望を感じた時、老人にはやっとあの憎たらしい親友の横で肩を並べられた気がしたのだった。

骨のある位置すらわかってない友は、今の俺を見てどう思っているのだろうと考えど答えは出なかった。

それでも命ある限り、懸命に老人は働き続けた。

長い時を経て始まった、友の願いへの反抗である名誉回復運動も、その途上であった。

老人には悔しかった……やりきれなかったことが。

息子にその役目を押し付けてしまうであろう、己の不甲斐なさも、悔やんでいた。

だから、そんな言葉が出たかもしれない。


「お前には、これから、辛い役目を押し付けてしまうかもしれんな」

「何を言いますか、父さん、僕は嬉しいんですよ?」


涙を拭い、老人の息子は努めて明るく言った。

息子としては心底思っている言葉だったので何の偽りもなかった。

彼が思い出すのは、記憶の根底にあるのは母とも言えるような人の抱擁と名前が付けられた瞬間のことだった。


「これでやっと、僕は父さんやあの人と共犯者になれるんだ、だから……」

「うん」

「安心して」


その言葉を聞いた時、老人を縛っていた精神的な鎖が解かれていった。

眉間に寄っていた皺は薄っすらと溶けて、深く息を吸う音が聞こえた。

それが最期になると、息子にはわかっていた。

魂が、責務や、辛く悲しい記憶が、天へと登っていく瞬間が訪れている。

息子は、父の唇が紡ぐ言葉を、静かに聞いている。


「ありがとう、”我らが息子”トミオよ……」


サウルは、どこか遠くの過去を見るようにつぶやいた。

宗教の嫌いなアイツの魂だ、何処にいるかも見当がつかないが。

必ず見つけ出して、そして……。



「……やっと、アイツを……殴りにいける……」


友が予言した未来はまだまだ残っていたが、信頼できる息子にそれを託すことができた。

喪われてしまった名誉は、浸透させた影響力によって徐々に回復していくであろう。

あとは……あの事件だけは……なんとしてでも……。


サウルの半生を賭けた長い反抗が終わった。





老人の意識は、ついに途絶えた。

医者が死亡を宣告する、悲しみが決壊した人びとの中。

かつて、トミオと名付けられた男が拳を強く握りしめている。

託された物の重さに、じっと耐えているのだった。

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