第8話 残りの9割
今生の話だ。
ギムナジウムの授業内容で、討論会があったなと思い出す。
広い講堂、教師がその光景を見守っている、午後の日差しが眩しかった。
級友たちと俺は色々と討論した、あれは初めての学校行事のようにワクワクしたものだ。
あの時の議題は何だったかな、そこだけが泥水の中に沈んでしまったみたいに思い出せない。
彼らは、今、どうしているだろうか。
半分ふやけた脳みそのほうが今話している内容も喋りやすいので、まぁいいだろう。
会場は中々に盛り上がっていた。
設立に向けて協力してくれた有志一同、あるいは軍関係者、地元企業。
ドイツの偉大なる総統閣下殿の、勝利のための熱望に燃えている彼ら。
俺はそんな彼らの期待に応える様に、矢継ぎ早に喋り、考える隙間を与えないようにする。
「ええそうですとも! これが皆さんの知るところの『もったいない』であります!」
会場の人々が笑う。
俺は人の笑みが”ここまで”汚く見えたことはなかった。
きっと己の顔面に浮かんでいるであろう笑みも、同じなのだろう。
全神経を動員して表情をコロコロと変えながら、会場の人々の気分をこちらに同調させる。
「むろん、あの民族の根絶には私も大賛成ではあります!」
根絶?できるわけがない。
思想や宗教は滅ぼせない、亡国の民がどうやって生き残ってきたか。
そこから中東の未来に至る、あまりにも皮肉的な思考に至りそうになって考えを中断する。
演説に集中しろ、余計なことばかり考えたくなる頭を切り替えた。
「しかし……」
動と静を組み合わせ、人びとの呼吸を一旦置き、自らの宣言を際立たせるように調整する。
俺はやはりあのちょび髭伍長のような扇動者にはなれないだろう。
だが、焚きつけることぐらいならできるはずだった。
「我々には手が足りない! あの戦争によって、偉大なる戦士たちがあまりにも失われた!」
「だからこそ……ユダヤ自身の卑劣な手によって! この問題を精算する必要がある!」
「私はここに再利用局の結成を宣言し、そして誓います!! 」
「故国勝利のために!! 精算によってこの卑劣なる民族を、大いなる鉄となり歯車となり砲弾とすることを!!! 」
熱気が爆発しそうになった所で俺は、あの言葉を叫ぶ。
この人類の歴史と比べたら、僅かな間に何千何万回と繰り返されたあの言葉を。
「ハイル・ヒトラー!!!」
人びとが次々と右手を上げる。
男性、女性、若い男、若い女、老いも幼さも関係なく。
一斉に、ただ一つの言葉だけが会場を揺るがして、魂を震わせる様に聞こえる。
これがこの国の、現状の、縮図の、総て、国家社会主義ドイツ労働者党の理想郷。
アドルフ・ヒトラーという一人の男が作り出した、崩壊する事が約束されたローマ崩れ。
俺は決断を下したこの瞬間を、一生忘れないだろう。
何処にいる誰かもわからない誰かに『赦してくれ』とその場でわめき散らかしたくなった。
会場から打って変わって、静かな場所だった。
華やかさも何も無い、ただのトイレである。
「ォエ……ッ」
俺は便器に突っ伏しながら吐く、胃液以外に吐く物がなくても吐く。
そうしながらいつか見た、インドネシアのドキュメンタリー映画を思い出す。
ある虐殺の一翼を担った男の話だ。
映画の撮影中に自らの虐殺行為を自覚してしまい、吐きながら終わる最後を。
今の俺も同じく、きっと精神的なものが口から抜け出していったのだろう。
「……クソっ……」
占領地では餓死していく人々がいるというのに。
付き合いで腹に詰めていた豪盛な食事を、俺は無駄にしてしまった。
あの後、パーティーはつつがなく終わり、局の部下たちに発破をかけた。
そうして俺は今帰ってきた所だった。酷く疲れた。
それに何だか最近、歯が痛い気もするが気の所為と思いたい。
この時代の歯医者には掛かりたくない、最悪だな。
「やはりここにいらしましたか、大歓声でしたね」
後ろから秘書のサウルが声を掛けてきていた。
サウルはユダヤ人である、そして幾つかのコネクションを持っていた。
事前に話を通達して、『趣味』をやりやすくしてもらってる。
いなくてはならない人材の一人だった。
「こうして我々はより早く生きる意義を手に入れたというわけですな」
「ああ」
「ありがとうございます」
「そう言えばお前、俺がまた吐くだろうと思ってるだろう、もう吐くもんはねーぞ」
「それは失礼いたしました」
会社の設立以来の仲ではあった。
同僚であり、共犯者ではあるが、厄介なやつだった。
全ての属性は両立するものであるとは思わなかったが。
「これからは忙しくなりますね」
「ああ、もう大管区指導者にも話は回ってるからな」
大管区指導者、所謂このナチス党世界の知事のようなものである。
ずいぶんと前の段階から餌をまいて、再利用局の協力者にしていた。
これで収容所で煙や灰になる人間を幾分か減らせるのではないかと、俺は考えていたのだ。
収容所の横領問題などを上げて攻撃もしていた。かなり危険な橋ではあった。
だが一般の善良なる市民の皆様方に知られたくない人びともいる。
犯行は大胆でありながら、一方で気を使って行われていた。
埋められるはずだった何便かの列車にいた”貨物”を、俺はこうして分捕っていた。
俺の工場であれば、ある程度の生産力を確保しつつ様々な死への回避策が取れる。
サウルが呟く。
「……あと三年ですか」
「そう、”たった”の三年だ」
サウルには、断片的な未来を伝えていた。
あくまで予言と言った形で、幾つかの出来事を当てて信頼させている。
そうして希望を持たせるためにも、戦争終結の時を伝えていた。
1945年、5月。そう、あと三年、たったの三年。
人びとへの迫害は、何も第二次世界大戦が始まった瞬間から起きたのではない。
ナチス党が政権を取った瞬間から始まったものと言える。
それを踏まえれば、たったの三年だ。もう後半戦も中程まで来ている。
だがそう考えても死傷者はこれからが加速度的に増え続ける。
最終的にどれだけこの戦争で死ぬかは、俺は覚えていない。
だがホロコーストと呼ばれるナチスの一大事業はこれから大きく伸び続けていく。
1943年頃にはホロコーストの犠牲者は、全体の確か7割方に達しているはずだった。
今こうしている間にも村々を焼いて回っては物資を略奪し、人を収容所へと詰め込んでいる。
各占領地域で略奪した物資を纏める専用の空港まで設置している状態だ。
それに何もガス室だけが死に場所じゃなかった。
パルチザン狩りと称してのただの殺戮、気に入らないから殺すだの。
収容所への輸送に耐えられない人間などはその場で処分していたりもした。
殺しまみれだ、よくもまあそんな状況下で生き残れた人がいるなと思う。
所謂、諸国民の正義の人が確かにいたということだろう。
俺はそこへ名を連ねたいわけじゃなかったが、そういった人たちの根性を俺は気に入っていた。
立ち上がる、便所で長話するのは体が冷えてくるから良くない。
振り返ってみるとサウルが見たこともない神妙な顔で、俺に尋ねてきた。
「貴方は、なんでこんな事になりながら人びとを助けようとするんですか?」
考えて当然な言葉だったが、思えばサウルがそんな事を俺に聞いてきたのは初めてだった。
コイツが意識して避けてきた話題かもしれなかった。
ナチが気に入らないだとか、ムカつくとか、勝手に体が動いただとか、果ては人類愛だとか。
笑ってしまうくらい凡庸な言葉が浮かび上がっては消えていく。
だが、この感情に一番近い言葉で表すのだとしたら……。
「これが俺なりのクソッタレな世の中に対する抵抗だからだ、”最期”まで付き合えよサウル、経理は苦手なんだ」
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