第6話 炎上する歴史の中で
「ドクトル、よく来てくれた」
「こちらこそ……」
黒く重そうな診療カバンを置いてもらい、握手する。
枯れ木のような手だった、だがそれでも活力を感じる握り方だった。
互いに両手を取る。共犯者となることを覚悟したものだった。
「本当は俺の方から出向かなきゃならんのだが……防諜の都合上できなかった」
率直に謝罪する。医師も頷く。
互いに危険な橋を渡りきったのを感じている。
だが事実、少しでも情報が漏洩してしまえばそれは地下の破滅を意味する。
慎重にならざるをえない部分もあった。
『地下』で、俺はポーランド人の医師のモーゼスとこうして初めて面会をした。
様々なめぐり合わせの下、今回の会合は行われていた。
この時代、ナチスの銃口の先に選ばれた属性は多かった。
様々な被占領国と同じくポーランド人も、その一つである。
M=R協定、ヒトラーとスターリンのウェディング姿の風刺画で有名なアレだ。
東西からの挟撃、ナチスとソ連の分割によって滅ぶことになったポーランド。
協定の下、庇護のなくなった国民は選択を迫られた。
服従か抵抗、あるいはその先にある死か。
ゴミのように殺されるならと、パルチザンとなり死んだもの。
目をつけられたら収容所送りの世の中で、虐げられた人びとを庇ったもの。
ナチスと一緒にユダヤ人を密告し、追い詰めたもの。
多くの人が本来歩むべき道を捻じ曲げられ、歴史の狭間に消えていった。
そして彼の場合は、かなりの危険人物だった。
何度目かになるゲットーからの移送の際の事だ。
ユダヤ人秘書のサウル経由で、何名かの抵抗者と俺は姿を隠し会っていた。
武力闘争、亡命や逃亡を選ぶもの、意見を聞いて趣味を拡充していく必要があった。
その伝手を頼って教えられたのがこの医師である。
危険人物と言うか……あまりにも覚悟がキマりすぎていた。
封鎖後のゲットーに忍び込み、訪問看護を行っていたというのである。
無論、報酬は何も受け取っていない手弁当だ。むしろ施していたほどだった。
劣悪なる環境下で亡くなっていく人びとを何人も看取っていたという。
亡くなりゆく彼らにとってどれだけの心理的支えになったことだろう、俺にはわからない。
だが、そんな事を繰り返していたら当然、捕まりかけていた。
それを横から分捕ってきたのだ。
見せ札の一つである『出口なき部屋』に連れ込み処分した、事にする。
第一リサイクル工場から出た遺体を損壊させ、それをこの医師として提示した。
かなり汚い策であった。
しかし一人一人に捜査のリソースを割けるほど現状のドイツ統治は余裕がない。
こちらとしても反逆者に対する恐怖の処置を周知させることができた。
「最初はどうなることかと思いましたが……」
「驚かせて申し訳なかった」
拉致に近い手口だった。
伝手経由で通知された符牒を使う八百長によって、彼は此処に連れてこられていた。
それに医者には居て欲しいと思っていた、根性の入った医者が。
閉鎖空間の中での衛生環境は何としてでも保全しておきたい所があった。
この時代では致命的なチフスなどが流行れば一網打尽にされかねなかった。
実際の所、中々に医療関係者の確保は厳しい所があった。
反ナチ的な思想を持つ医師だとしても、早々に出国している場合もあった。
もしくはすでに徴兵されている人間も多かった、軍隊は人材の層を根こそぎ持っていくのだ。
十分すぎると思っていた戦前から、今では何もかもにまで手が回らなかった。
今回は後手に回ってしまったが、見通しの甘さによって人が死ぬのは御免被りたかった。
「本気なのですね」
「ああ、ずっと昔から」
モーゼスが辺りを見回して言った。
以前よりも少し、地下の拡張を進めたのだった。
地下はかなりの大所帯となりつつある、畑を作り一部では自給を行っている。
それが必要となる機会に備えてのことだった。
街からも離れているので隠れ蓑としての森は十分にそれを覆い隠せている。
なにか言われても自社で使う加工品の原料を育てていると言えばスルーされる。
小さな村ぐらいは超えている、と思わなくもない。
「私は……貴方の事を誤解していたようですな」
不意に何か素晴らしいものを見たかのようにモーゼスは言った。
胃が悲鳴を上げたように痛んで、眉にシワが寄ってしまう。
違う。地下特有の重い空気の中で、それを俺は否定する。
「いいえドクトル」
片手で、痛む腹を擦りながら。
貴方は、何一つ誤解していたわけではないよ。
「この地にいる子供の親たちを、俺は過酷な労働に従事させている」
「総てではないにしろ、その命令を出したのは俺だ、俺がやっているのだ」
「誤解が彼らに対する大いなる傘になればいいと思っていた」
「しかし結果的に、現在進行系で多くの人を、俺が下した結果のもとで死なせ続けている」
今日までに労働者の死は、34名に上っている。
見殺しにした人は、きっとそれに何桁も付け足さなければならないだろう。
がむしゃらに必死になれば、もっと、もっと何かできたはずである。
後悔など役には立たないとわかってはいたが、どうしようもならない。
結局は保身と、その後の親たちとの約束を果たすために俺は生きている。
とっくのとうに裁かれなければいけない数を超えていた。
総てを否定したくなって強く目を瞑ってしまった。
いつの間にか近くに居た医師は、俺の手を掴んで言う。
「だが貴方は此処にいるではないか、この地に、この様な物まで作って」
その目の中では炎が強く燃えていた。
俺は、なんと返していいかわからなかった。
「貴方は逃げることだってできただろう、実際私の知り合いの多くは海外へと脱出した」
「……」
「彼らを非難することはできまい、だが貴方のような人がいると私はここで知ることができた、それに腕が鈍ってきた所なんだ、是非とも協力させてくれ」
「……ありがとう」
俺はそのまま頭を45度まで下げて、モーゼスを慌てさせた。
その日、地下の住人が一人増えることになった。
苦労をかけてばかりだった保母長を安心させることにもなるだろう。
その日の晩の事だった、と思う。
大日本帝国が真珠湾を奇襲したという、既知のニュースが入ってきたのは。
俺の故国は、絶対に勝つことのできない戦争を始めたのであった。
バタフライエフェクトなどと言っても、俺の行いが地球の裏側で台風を起こすことはついぞなかった。
戦争は太平洋にまで広がり、そして大量の死を産むだろう。
餓死、病死、溺死、太平洋の南の島々や沖縄に骸を晒して。
大きなキノコ雲が落とされるその時まで続く、果てしない戦いが2つの大洋で始まりつつあった。
その日は理由も言わずボーマンを酒に付き合わせ、飲み、ゲロを吐いて、飲んではゲロを吐いた。
ボーマンを帰らせた後で、わけのわからない涙を流しながら碌でもない記憶しかなかったはずの遠い、遠い故郷のことを俺は思った。
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