第4話 罪なき者たちの地下

瞳が、俺を見つめている。


煙は立ち上り続ける。

天へ、やっと救われたと言うように。

何によって発せられるか分からない熱が喉を焼く。

死体に集るシラミと蛆。銃声が何度も響く。

兵士の飼い犬に股間を噛まれた男が悲鳴を上げて、のたうち回っていた。


複数の瞳が、俺を見つめている。


運のなかった赤ん坊の声。抑えられない幼児の泣き声。

中年男性の呻き、老女の嗚咽。ロマの女がこちらを無感情に眺めている。

俺に女の子の赤いコートは必要なかった、覚悟をしていたはずだった。

フルカラーの視界で世界を見ていたはずだった、なのに、何もできない。

浅くなった息で、音のしない世界で、フラフラと鉄条網の外側を見た。




向こう側には俺がいる。














夢は記憶の反芻に過ぎない。


実際の記憶ですらなかった。

なんなら俺は、あの地へと足を運んだことはない。

全部が記憶の反芻だ、俺は色々な人の泣き声を聞いたことがあるだけだ。


笑ってくれよ、あの地が怖かったんだ、俺は。


遊び半分で軍用犬に追い立てられた人びとが怯える姿から、顔を逸らした事がある。

柵にまで追い詰められ許しを乞う姿を横目で見ながらも無視した。

本当に聞こえているのか分からない悲鳴を消すために目を瞑って眠りへ逃げた。


だが、俺はいずれ見るべきなんだろうか。

この国の人間として生まれ、あの党のごっこ遊びより稚拙な思想に加担した罪として。

餓死している人間の傍ら、自家中毒で腹一杯になって生きているからこそ。


『殺せ! 殺せ! ドイツ人に無実なる者はいない』


これは実際にあったプロパガンダだ、ソ連軍に所属したユダヤ人が書いたものである。

だが罪ある者、現代のドイツ人がどこまで知っていたのかは実際はわからない。


当時ホロコースト関連は一種のタブーだった、とされる。

前線では何万もの兵士が蠢き、軍と軍の間に挟まれた何十万もの民間人が戦火の煽りを受けている。

そんな中で嫌われ者とした、あるいはそういう事にされた民族が透明に──。

纏めていなくなった所で、気にしないようにしたっていうのが近いのかもしれない。

強制労働を行わされている程度の認識でいたというわけだ。

俺達はやってないし、知らないし、済んだこと、だと。


どうもそういった事を到底許されることではないと”わかっていながら”遂行していた。

子供が壊した壺の欠片を庭の土に埋めて隠すように。

どんなに憎く、裏切り者だと罵りたい民族でも、大量に殺していればいずれ良心が破綻していく。

その様に、わかってやっている方が救えないのかもしれない。


とめどない思考を断ち切るために、俺は起き上がった。

寝室にはベッド以外なにもない。寒々しい景色が広がっている。

夢遊病によって間違いが起きないように、物は最小限にしてあった。

インテリアも何もかも不要だった、そんな物に金を掛けるのなら『趣味』に注ぐ。

そう、趣味だ、今日は地下の視察があった。










「さぁ、挨拶するのよ」

「…………」


保母長の言葉で後ろからチョロっと顔を出した子供は、見事に俺を無視してそっぽを向いた。

遊び場のおもちゃに目が向いている、俺は保母長さんに目をやり頷いて、行かせてやった。

小さな背中が、その変形した片足を使ってうまく跳ねて遠ざかっていく。

俺は自分の表情が変わらないように努め、静かに聞いた。


「あの子は」

「前の移送で送られてきた子です、多分ジプ……ロマの122の子で、名前も何も分からなくて……」

「すまない、答えづらいことだったな、あの子は口が効けないのか……? 」

「はい……社長……」


保母長であるヘルマが辛そうに答える。

マジか、参ったな……。

空気が保たず、俺は施設へと目を向けた。

現在ここには職員たちと50名前後の色々な民族の子供たちが暮らしている。

よくもまぁこんな秘密基地みたいなものを作ったなと、自分でも驚く。

廃鉱山と広大な敷地を買い取って、その跡を補強し、転用している。

目立たないような工夫を凝らして、私有地としての権限も得た巨大な密室だった。

更にそれをシステム化して幾つか、どこか一つが潰れてしまって全滅しないように。

戦前の備蓄物資は未だあるし、マシな食糧事情によって運営していた。

職員は俺が直接面接した選抜ユダヤ人であるからして、無給でも職務は投げ出さないだろう。

何よりこうして人質のように『再利用部』が使用しているユダヤ人の子供の面倒も見させているのだから。

うん、某カルト宗教が無給で弁当屋やPC屋で信者を働かせてコストを浮かせていたのより酷いな。

だから俺は、俺の仕事をするとしよう。


「今回のを出してくれ」

「どうぞ」

「よし」


分厚い封筒をしっかりと俺は受け取る。

中に入っているのは大量の手紙あるいは絵、それに小さな写真たちだった。

これは預かっている子供たちが書いたものであり、その姿を映したものである。

俺の命令によって日々過酷な労働を行わせている親たちへの、内密の見返りだった。


「社長……」

「何か」


その躊躇いがちなヘルマの呼びかけに足を止めた。

偏光ガラスの下を、俺は急いで拭って偉ぶった声を出す。


「さっきのあの子に名前を付けてくださいませんか」

「……それは」


思っても見なかったことに思考がフリーズした。

なんてことを言うんだと非難めいた思考が浮かび上がるが、今朝の夢が強く留めた。

罪だらけの俺は逃げてはならないのだ、例えばこういう時から。

俺達の世代の負債を、この子達が精算しなければならないのだから。

だが俺にネーミングセンスなんて無い、その場で唸って思い浮かんだ候補は一つだった。


「富男、そう、トミオ……トミオだ」


本人がどう思うかはわからない、だがこれしか思いつかない。

これならそこまで違和感なく、そして国籍を偽装する様に振る舞えるはずだ。

名前を与えたことによって、愛着が生まれヘルマたちの世話に身が入るかもしれない。


「はい」

「あの子の名前をトミオにする」

「わかりました、社長……ありがとうございます」


ヘルマは頷いた、彼女がトミオと話し合うために遠ざかっていく。



どこからか『殺せ』という、あのプロパガンダの声が幻聴として聞こえてくる。

もしかしたならば……ここでならば……。

俺は、その恨みの声に自信を持って答えられるのではないか。




俺以外に、この地下で罪ある者は居ないのだ、と。

トミオを優しく抱くヘルマの姿を見ながら、俺はそう思えた。

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