第4話 49
深紅に染まった空の下、瘴気蔓延る森の中に――澄んだ鈴の音が鳴り響いた。
途端、周囲の精霊がいろとりどりに発光を始め、辺りの瘴気を押し流す。
陽炎のように景色が揺らいで――イリーナ様を中心に三つの波紋が広がった。
『あ――』
『ふ――』
『ほ――』
異なる音階、異なる声色。
それらが織りなす和音の唄が紡がれる。
イリーナ様の左手が、胸の前で握り締めた右拳に重ねられた。
呼気を確かめるように短く吐息して。
「――我は遥か彼の地にて今も微睡む、夢穹の乙女が奏でた音なり……」
長く韻律を残す、透き通ったイリーナ様の唄に合わせるように、景色がさらに揺らいで
直後、ヌシの
『ギイイィィィィ――――ッ!!』
と、魔物のヌシは、イリーナ様の唄に抗うように耳障りな金属音を放つ。
その背の甲羅に無秩序に並んだ無数の眼球が、一斉にイリーナ様を捉えていた。
ヌシの鈍色の甲殻の隙間から赤黒い瘴気が噴き出し、周囲で瞬く精霊とぶつかって紫電を放った。
イリーナ様の背後が激しく揺らぎ、単音の唄の三重奏がさらに強く高らかに紡がれる。
目が、開かれる。
幼い頃に紅から黄金色に変わったわたしの瞳は、いまや虹色の輝きを放っていて。
胸の前で結ばれた両手が、ゆっくりと魔物のヌシへと差し出される。
「あらゆる嘆きを消し去る者よ……
――あらゆる痛みを癒やす者よ。
我は汝に
その手の上に蒼く澄んだ光球が出現する。
「――それは忘却の彼方に繋がりし『誰か』……
それは『いつか』を繋ぎし夢……
我は汝に
――バキン、と。
生木を降り砕く音が響いたかと思うと、地面に落ちて痙攣していたはずのヌシの尾が、ドス黒い粘液を表面から噴き出しながら、ゆっくりと伸び上がった。
「――失われし
イリーナ様の虹色の目が、いままさに振り下ろされようとしているヌシの拳尾を捉えて。
「――今ここに生まれ目覚めよ、<
唄と共に蒼の輝きを右手で掴み取る。
ヌシが拳尾を振り下ろした。
蒼の輝きを宿したイリーナ様の右手が再び握り締められ――そして、肩越しに引かれる。
「
叫びと共に放たれた右拳は、ヌシの拳尾と真っ向から激突。
大きさも、重ささえも無視して、上下の拳が拮抗する。
ううん。それは一瞬の事。
……だって、あれは――世界が願った、嘆きと絶望を塗り替える原初の魔法で。
――ピシリと、硝子が割れるような音が聞こえた。
深紅の空に亀裂が走り、それはどんどん広がっていく。
「ハアアアァァァァ――――ッ!!」
イリーナ様は気合いの声と共に拳を突き上げ――ヌシの拳が砕けた。
青白い肌をした拳尾が弾けるように黒い粘液へと転じ、まるで連鎖するようにヌシ本体もまた粘液へと変わって地面を濡らす。
蒼い光の柱が立ち昇り、亀裂の走った深紅の空を割り砕いた。
星の瞬きと純白の月が――本来の夜空が還って来たんだ。
あまりにも圧倒的で、そして一瞬すぎる攻防で――いったなにが起きたのか、あたしにはまるで理解できなかったけど……
イリーナ様は輝く右手を胸の前で握り――
「――癒せ……<
再び喚起詞を唄い上げた。
うわぁ……
あたしは思わず感嘆の声をあげる。
この場に集った精霊達が、いろとりどりに瞬いては跳ね踊り、瘴気を、魔物の遺骸を、光の粒へと分解していく。
それが、イリーナ様を中心に広がっていくんだ。
魔物の遺骸で悪夢のようになっていた森が、精霊が舞い踊る幻想的な舞台へと書き換えられていく――
と、不意に。
それまで自分を見下ろすようだった視点が、吸い込まれるようにして身体の中に戻った。
「――へ? イ、イリーナ様?」
唐突に戻ってきた感覚に戸惑いながらも、あたしは彼女に呼びかける。
……イリーナ様は、ひどく薄く、今にも消えてしまいそうな光像となって、あたしの目の前に浮いていた。
『……やっぱりここが限界かぁ。まあ、あとは侵源を壊すだけだし、わたしが教えた事を実践すれば、なんとかなるよ。
それと――』
そう屈託なく笑い、イリーナ様はあたしの右手を指差す。
『それは君に預けておくからね……』
「え? ええ?」
いつの間にか、あたしの右手には小さな晶球が握られていた。
透明な石の中で蒼い菱形がきらめいている――そんな不思議な珠だ。
『いずれいつか誰かに届く――先生が目指したのとは別口の……世界最古にして最新の法器だ。
今は理解できないだろうけどね。そこに込められた意味の為にも、アリシアが持っているべきなんだ……』
イリーナ様だけにわかる意味があるんだろうね。
そんな事より――
「わかりました。
侵源もすぐに調伏しますから、イリーナ様は身体に戻っててください!」
今の彼女の姿は、今にも掻き消えてしまいそうで、すごく不安になったんだ。
わたしの言葉に、イリーナ様は微笑みながらもゆっくりと首を横に振る。
「ふふ……世界を書き換えて、その法器を顕現させた段階で、わたしの魔動は限界なのさ」
ひゅっ、と……それが自分が息を呑んだ音だと、すぐには理解できなかった。
思考が停止して、目の前が揺らぐ。
でも同時に、『ああ、やっぱり……』という想いもあった。
あたしとマリーだけじゃ、きっとここまで戦えてなかった。
ヌシまで辿り着けてたかさえ怪しい。
だから――だからこそ、あたしはイリーナ様が見せた魔道を、武の極みを――騎士として、剣士として尊敬してやまない。
涙が滲んでイリーナ様の姿が揺らぐ。
「……いりーなさまぁ……」
涙声でその名を呼べば、イリーナ様の光像は優しくあたしを抱き締めてくれて。
温もりまではっきりと伝わってくる。
「……せんぜぃ~、ほんどに……ありがとうございましたぁ」
『やれやれ、わたしは先生と呼ばれるほどのことなんてできてないのにね。
まあ、最後だ。好きに呼ぶと良いよ』
「――先生、先生ッ! イリーナ先生っ!」
『ああ、これからもしっかりと学ぶんだよ』
そう言って、微笑みながらあたしの髪を撫でたイリーナ様は、あたしの背後に回ってそっと背中を押す。
『さあ、それじゃあ最後に……わたしの教え子の格好良いところを見せてちょうだい。
侵源を壊すんだ。できるね?』
あたしは唇を噛んで拳で涙を拭うと、笑みを浮かべてうなずいて見せた。
「はい。見ててください。
……来たれ。<竜姫>――」
あたしは愛騎を喚起すると、侵源を叩き斬って調伏した。
そうして振り返った時にはもう、イリーナ先生の姿はどこにもなくなっていた。
この後、侵源痕から<大工房>が吐き出されて来て、マリーと二人で森の奥に一時的に隠したり、侵災調伏が都に知られて勇者認定を受けたりで、あたしは結局、イリーナ様の葬儀には参加できなかった。
帰国前になってようやく、お墓参りができたくらい。
ノーツ男爵が言うには、お墓は碑があるだけで、何も納められてないのだという。
あたしがイリーナ様と最後の会話をした頃――イリーナ様の身体は、精霊に溶けて霊脈に還って行ったんだって……
……みんなの為にと働いていた森の魔女との別れ惜しんで、葬儀は村中で盛大に行われたそうだよ。
長い長い回想を終え、あたしは目を開いて魔道を繋げたアルの顔を見る。
「……これがあたし史上、最大のやらかし……その記憶だよ。
イリーナ先生を連れて来れなくて、本当にゴメンね……アル」
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