第4話 38
イリーナ様はノーツ男爵邸の離れで生活をしていた。
「……本当はそろそろ、本邸で暮らして欲しいんだけどね」
と、本邸から裏庭を貫いて整備林へと伸びる小道を歩きながら、ノーツ男爵は眉尻を下げて溜息を吐いた。
「――五年前……保護した時の彼女は――言葉を選ばずに言えば、正気じゃなかったんだ……」
裏庭にある林の入り口まで来て、ノーツ男爵は足を止めて振り返ると、あたしにそう告げた。
そんなノーツ男爵の言葉に、あたしは思わず息を呑む。
アグルス帝都で見つけた時、イリーナ様は虚ろな目でただ虚空を見つめる人形のような状態だったのだという。
「これでも僕はこの地の霊脈を任された一族の末裔だ。彼女がイリーナなのは魔動ですぐにわかったから、僕は慎重に彼女を保護した」
そうして好色でイロモノ好きな貴族を装い、ノーツ男爵は奴隷商はもちろん、アグルス帝国の国境警備さえも欺き切って、ミスマイル公国へとイリーナ様を連れ帰ったのだという。
「本当はすぐに彼女のご実家――ベルノール家に連絡すべきだったのはわかっていたんだけどね……」
そうしなかったのは、彼なりの配慮のつもりだったのだという。
ローダイン王太子妃――レリーナおば様がアグルス帝国との戦で王太子であるミハイルおじ様と共に戦没された話は、ミスマイル公国にも伝わっていて……
「ベルノール候の心境を思えば、あの状態のイリーナを会わせるのは、より悲しませる事になってしまうように思えた……いや、これは後付けの言い訳だね。
本音を言えば――現在のベルノール家での彼女の扱いがわからなかったというのが理由なんだ……」
彼はイリーナ様がきっかけとなって引き起こされた、ベルノール領の侵災事件について――公的にはなかった事にされたあの事件の詳細について、よく知っていると語った。
留学中、彼は長期休暇のたびにベルノール領の魔道学院に足を運び、イリーナと魔道談義に花を咲かせていたのだという。
「彼女の実家は――あの事件を彼女ごとなかった事にした。
政治的な思惑なんかがあったのは理解できるけれど、だからこそ素直にベルノール家に彼女の生存を告げても良いものか迷ったんだ」
だから彼はイリーナ様を屋敷に連れ帰り、信頼できる家人だけに世話を任せて、彼女の快復に努めたのだという。
「やがて彼女が虚ろなのは、呪法刻印が原因なのだとわかってね……」
と、彼は自分の胸元を指差した。
「……呪法刻印?」
耳慣れない言葉に、あたしは首を傾げる。
「ある日、彼女の世話をしていた侍女から……こう、胸に刻印が施されているという報告を受けてね」
イリーナ様を世話していたという侍女は、ノーツ男爵からイリーナ様の出自を知らされていたからこそ、報告が遅くなったのだという。
つまりはローダイン王国最大の祭家である、ベルノール家特有の魔道なんだと誤解したみたい。
そうではないのではと侍女が疑問を覚えたのは、身体を清める際に刻印に直接触れてしまったから。
魔道を吸い上げられるような感覚と言い知れない嫌悪感を覚えて、侍女はノーツ男爵に報告したのだそう。
「僕がアグルス帝国に赴いたのは、表向きは外交――通商交渉だったんだけどね。実際は大公陛下からの勅命で、当時、アグルス帝国から流入し始めていた呪具について探る事だったんだ」
人の魔道器官に干渉できる刻印が施された魔道器――呪具。
あたし自身、アグルス帝国を訪れた際に実物を何度も目にしていた。
それは裏社会だけではなく、衛士達が犯罪者の拘束などにも用いていて、表社会でもそうと知られないままに浸透――日常風景として受け入れられているようだった。
ノーツ男爵は大公陛下の勅命によって、呪具を入手――可能ならばその技術も持ち帰り、対抗策を練るようにと命じられていたのだという。
だから帝都の下町――それも裏社会に属するような界隈をうろついていて、イリーナ様を発見できたというわけね。
「……いわば、彼女はその身そのものを呪具のようにされていたんだ……」
「つまり呪具に用いられてる刻印が、呪法刻印ってことですか?」
あたしの確認に、ノーツ男爵は頷きで応えた。
一年ほどかけてノーツ男爵は刻印を解析し、刻印の解除に成功したのだという。
あたしは温和そうな優男という印象だったノーツ男爵への評価を改める。
考えてみれば、マッドサイエンティストとさえ魔道談義できていたのだというイリーナ様と、魔道について花を咲かせていたというノーツ男爵が、ただ優しいだけの人なはずがないよね。
彼もまた、魔道に関しては異才を誇る人物なんだ。
「……呪法刻印を解除したばかりの彼女は……本当に見ていられなかった……」
マッドサイエンティストによって転移させられた直後から十年以上……イリーナ様はずっとずっと呪法刻印によって身体の自由を奪われていたのだという。
目覚めたイリーナ様は自身の置かれている状況を理解できず、ひどい恐慌状態にあったらしい。
「……今でも大きな音にはひどく怯えるし、面識のない人物を前にすると取り乱して錯乱してしまう。それでも……」
呪法から解き放たれた当初よりはマシという事ね……
「だから、マリーの同行を認めないと仰ったんですね」
「うん。本当なら君も……訪ねて来たのが君じゃなければ、僕は断ってたと思う」
と、彼は紫の目を細めてあたしを見た。
「……君は本当にレリーナに……亡くなったという彼女の姉さんに似てる。だから、平気だと思うんだ」
「そうですか? 確かに騎士としてのレリーナおば様はあたしの憧れですけど……淑女の鑑みたいなあの方と似てるって言われると、なんだか照れちゃいますね」
途端、ノーツ男爵は目を丸くする。
「――淑女の鑑っ!? レリーナが!?」
「そうですよ。宮中においては壮麗、戦場においては鮮烈。ローダインの女性騎士達の理想を体現したお方と言われてたほどです!」
あたしの言葉にノーツ男爵は吹き出した。
「あの脳筋が……ブフッ! そ、壮麗――ク……クク……」
彼は顔をそむけて笑いを堪え、深呼吸して再びあたしに向き直る。
「や、ミハイルと結婚して、子供が生まれて変わったって事かな。
堅苦しい晩餐より、野営料理を好んでたあいつが、淑女の鑑ねぇ……」
懐かしそうに目を細めてあたしを見つめながら、ノーツ男爵はそう呟く。
どうやら彼には、あたしは本当にレリーナおば様に似ているように見えているらしい。
それも見た目だけじゃなく雰囲気までもが、お若い頃――彼が友人として接していた学生時代のあの方に似ているのだという。
という事は、いずれあたしもレリーナおば様のようになれるんだろうか?
「野営料理が好きなのは、たぶんベルノールだからだと思いますよ?」
と、あたしは念の為、擁護しておく。
「あの家の人は、幼い頃から魔道鍛錬で魔獣討伐しますからね。あたしの従姉もよく水竜を狩って食べさせてくれました」
エレ姉が振る舞ってくれた時の事を思い出しながら、あたしは説明する。
魔獣料理はとにかく美味しい。
あの時の水竜だって、ただ焼いて塩と香辛料をかけただけなのに、びっくりするくらい美味しかった。
「ああ、イリーナも言っていたね。姉さんが獲ってくる魔獣は本当に美味しかったって。
試しにウチの料理長が冒険者に魔獣肉を依頼して調理してくれたんだが、あれ以来、魔獣料理にハマってしまったほどだったよ」
そんな話をしながら、ノーツ男爵は再び歩き出し、あたしもその後に従う。
やがて小道の先に木々に囲まれた離れが見えた。
別邸というような大きさではなく、どちらかといえば職人の工房小屋といったこじんまりとしたたたずまいの建物。
なんでも数代前の当主が魔導研究の為に建てたものなのだという。
その軒先のデッキに儲けられた安楽椅子に腰掛け、彼女は居た。
「――あら、ずいぶんと綺麗で懐かしい魔動が聴こえると思ったら……」
背もたれから身体を起こし、そう言ってあたしに微笑む彼女に、思わず息を呑んでしまう。
「ああ、見苦しいわよね。ごめんなさいね。まさかわたしへのお客様とは思わなかったの。
――ラウール、身支度を手伝ってくださらない?」
彼女がそう告げると、ノーツ男爵は応じて彼女の元へと歩み寄る。
「少しだけ待ってちょうだいね。グランゼスのお姫様」
彼女があたしの素性を言い当てた事より――あたしは彼女の姿が目に焼き付いて、頭が真っ白になって立ち尽くした。
彼女――イリーナ様は……
左手は肘から先を、右足は膝から先を失くしていて。
微笑に細められた両目の……その右まぶたの向こうが真っ暗な洞になっていた。
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