第4話 17
「あ、クレリア様、お疲れ様で~す」
と、マリエールが手を挙げて挨拶をしたのだけれど、クレリア様はわたくし達など見えていないかのように浴場を見回し、それからスタスタと洗い場に向かったわ。
「……?」
わたくしとマリエールは顔を見合わせて首を傾げる。
その間にも、クレリア様は恐ろしい勢いで身体を洗い、それから泡を流して浴槽へやって来たわ。
そのままわたくし達のすぐそばの縁からお湯の中に身体を沈め……一度、頭まですっぽりと沈み込んだかと思うと、呆然と虚空を見つめて深い深い溜息を吐いた。
と、その切れ長な目元から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出す。
「うっ……」
そしてクレリア様は、堪え切れないというように両手で顔を覆って嗚咽を漏らし始める。
「――こ、怖かったあぁぁぁぁぁ!! ひ、ひぅ……あああああああ……」
「ええぇぇぇ!?」
「ク、クレリア様!?」
大の大人――しかもあの、いつも毅然としていて、淑女のお手本とまで謳われていたクレリア様が、恥も外聞もなく号泣している様に、わたくしもマリエールもただただ戸惑ってしまったわ。
「こ、殺されるかと……死んだかと思ったぁぁぁ……」
しゃくりあげながら泣きじゃくる姿は、王宮で職務に取り組んでいた冷静な統括侍女長とはとてもじゃないけれど思えない。
まるで学生の頃の少女のよう。
「あ~、ホラ、エレ姉さん。クレリア様、アルベルトに直で殺気ぶつけられてたから……」
「ああ……」
領境砦での出来事を思い出す。
クレリア様は首を掴み上げられて――
「こ、殺すって言われたもん! もう終わりだって思ったもん!」
これまで張り詰めていた緊張の糸がほぐれた為か、口調まで幼くなって、クレリア様はわたくし達に言い募る。
「クレリア様、アレは本気で言ったわけじゃないですよ」
「そうそう。アイツ、昔から口下手で言葉選びが下手くそなんですよ」
そう。たぶん、「大人しくしろ」とか、そんな感覚で言ったに違いないわ。
「それでよく侍女や官僚達に誤解されて、恐れられてたんです」
世代が違う事もあるけれど、女官として働きつつ、陛下の<影>として活動していたクレリア様は、アルくんとは直接の面識がなかったようで、だから初対面で浴びせられたあの圧倒的な魔動と言葉に、完全に萎縮してしまったというワケね……
それでも淑女としてとか、年上としてとかの意地で今まで取り乱さずにいられたのでしょうけど、身内であるわたくし達だけのこの場で、お湯に浸かって気分が解れた事で緊張の糸まで一緒に断ち切れてしまったのかもしれない。
「じゃ、じゃあ……殿下はもう怒ってない?」
「あんな――耳打ちしたりとか、挑発的な事やらかしといて、それ気にしてたんですか?」
呆れたようにマリエールが目を丸くする。
「だ、だって……あんなボロボロに惨敗した直後だったのよ? 私達を受け入れてもらう為には、少しでも精神的優位に立たないとって思って……」
そこまで言いかけて、クレリア様はようやく落ち着きを取り戻したのか、小さく鼻を鳴らして首を振る。
「いいえ、言い訳ね。あの時の私はただただ殿下が恐ろしくて、虚勢を張っていたんだわ……
――アグルス帝国に潜入した時だって、あそこまでの恐怖を感じた事はなかったわよ……」
そうしてクレリア様は顔を伝う雫ごと涙を手の平で拭って。
「ごめんなさい。取り乱したわ……」
そう告げた時にはもう、いつもの毅然としたクレリア様の表情に戻っていた。
気恥ずかしさからか耳まで真っ赤だったけれど、お風呂の熱さの所為と思う事にして、深く追求せずにおく。
誰だって醜態を晒してしまう事はあるものよ。
ましてクレリア様は、ここまでわたくし達を率いてずっと気を張っていたのだもの。
きっとその限界が訪れて、感情の堰が溢れてしまっただけよ。
「そうそう。クリスの様子はどうでした?」
だからわたくしは話題を逸す為に、クレリア様にそう尋ねる。
応接室を退室した後、クレリア様がマリエールに代わって彼女に着いていた。
わたくしとマリエールは魔獣車から持ってきた荷物を降ろし、荷解きをして――そうしていたらアルくんがお風呂の用意ができたと呼びに来たのよ。
「バートン女男爵が飲ませてくれた薬湯が効いたのでしょうね。顔色が戻って、今はぐっすり眠っているわ」
「彼女には無理をさせてしまったので、それはなによりです」
お師匠の教育で鍛えられているわたくし達にとっても、魔獣車でほぼ一日を全速力で駆け抜けるのは、体力的にきつい道程だったもの。
多少、魔道が一般人より優れている程度のクリスには、かなり過酷だったでしょうね。
安堵するわたくしに、けれどクレリア様は真剣な表情で首を振る。
「問題は、その薬湯なのよ……」
ん?
「アレ、どう見ても、鬼ババ様の酔い醒ましだったのよ。
バートン女男爵の話振りだと、作り立てという事だったし……なんでこんな辺境に、あんなものが?」
声を落として、わたくしとマリエールの顔を見回しながら、静かにそう告げるクレリア様。
その疑問に応えたのは、マリエールだったわ。
「――ああ、この村って、五十年くらい前に師匠が作ったものらしいですよ? だから、その時に教わったんじゃないですかね?
なんでも愚王で有名なヘクトール王の息子、ヨークス王子が祖先だそうで――」
と、マリエールはなんでも無いことのように、村の成り立ちをわたくし達に語り始める。
「なにそれ!? 私、そんなの陛下から伺ってないわよ!?
――マリエール、それどこで知ったの?」
「クレリア様とエレ姉さんがアルベルトやアリシアちゃんと話してる時に、リディアちゃんがお茶を持って来てくれたんですよ。その時の雑談で、教えてもらいました」
と、お湯の中で薄い――それでもわたくしよりは豊かな――胸を張って見せるマリエール。
「……そういえば、あなたも<耳>として王宮で動いてたんだものね……」
「――です。師匠はリディアちゃんが望むなら、今からでも魔神教育を施しても良いって言ってたそうですよ」
その言葉に、クレリア様が目を見開いてわたくしに顔を向けてきた。
「バートン女男爵って、確か殿下の専属侍女をしていたのよね?」
「ええ。すごく優秀な娘で、わたくしが少し魔法を教えたら、すぐに使いこなして仕事に応用してました」
今にして思えば、あれは王族の血による遺伝だったのかもしれないわね。
クレリア様が再び、深く重い溜息を吐く。
「殿下は知っていて、専属にしたのかしら? また、殿下にお訊きしなければならない事が増えたわ……」
そして小刻みに震え始める。
「……いやだなぁ……怖いなぁ……怖いよぅ……」
「だ、大丈夫ですよ。わたくしもご一緒しますから!」
どうにも、アルくんとの出会いは、クレリア様にとって深い
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