第2話 26

「――ウチはもう汚れてるから!」


 そうイライザが叫んだ瞬間、俺の視界は怒りで真っ赤に染まった。


「――ふざけるなっ!」


 叫んで、強引にさらに一歩を踏み出し、彼女の手を捕まえる。


 よろけたイライザの腰を手で支え、そのまま身を回して、半ばから折れた木の幹にもたれかからせる。


「おまえが汚れてるだって?」


 リデァイやダグ先生が教えてくれた言葉の数々が、頭の中から消し飛んでいく。


「――家族を守る為に身体を張ったおまえを、あんなクズごときがどうして汚したりできる!」


 怒りに任せて木の幹に拳を叩きつける。


 イライザの身がビクリと震えたのがわかって、俺は冷水を浴びせられた心地になった。


 ……リディアにも言われただろう? 冷静になれ……


「――すまない……」


 首を振って謝罪すると、イライザは涙で潤む目で俺を見上げてきた。


「……そう言ってくれるのは……アーくんが怒ってくれるのはすごく嬉しいよ。

 でもね、ウチはビクトールに弄ばれて……間違いなく汚れてるんだよ……」


 なおも頑ななイライザに、俺は首を振る。


「おまえが望んだわけじゃないだろう?

 良いか、イライザ。自ら墜ちたのでもなければ、誰かが誰かを汚す事なんて、そうそうできるものじゃない。

 それは浮浪児から這い上がって見せたおまえから、俺自身が教わった事だ」


 イライザの目が見開かれる。


「……ウチ、が……?」


「おまえは、当時の自分を汚れていると思うのか?

 俺の知っているおまえは、その頃の自分を誇らしげに語っていたぞ」


 俺は腰を屈めて、イライザの顔を覗き込む。


「人の魂の輝きはな……自らが望む限り、周囲によって損なわれる事なんて、絶対にないんだ!」


 はっきりとそう断言してやる。


 それから俺は、口元に笑みを浮かべて見せる。


「良いことを教えてやろう。

 本当に汚れてるってのはな、アイリスのような女の事を言うんだ」


「……アイリス様? アーくんの婚約者よね?」


「貴族院がゴリ推ししてきた、形だけの――しかも、元、な」


 首を傾げるイライザに俺は補足してやる。


「ヤツはな、観劇と称して出かけては、何人もの男と関係を持ってやがったんだ」


 俺の知っている限り、六人の貴族令息と二人の商会会頭、あとは高位の冒険者なんてのもあったな。


 だからこそ俺は、ヤツがどれほど誘惑してきても、決して関係を持たないようにしていたんだ。


 この事実は、俺とババアとクロしか知らない。


「――そんなっ!! アイリス様は今、王妃でしょう!?」


「しかもその旦那は、あの毒婦を清廉な華と思い込んでるんだ。笑えるだろ?」


 驚きの表情を隠せないイライザの肩に手を乗せて、俺は語りかける。


「アイツのように望んでそうなったワケじゃないおまえを、汚れてるなんて俺には思えないよ……」


「でも……ウチは……」


 と、イライザはなおも顔を伏せて、涙をこぼす。


 いかにローゼス伯爵がイライザに、しっかり令嬢教育を施していたかを思い知らされるな……


 さて、どうしたものか。


 さらに言葉を重ね――捻り出した上辺の言葉で彼女を慰める事はできるだろう。


 けれど、そうしたら彼女は、俺を気遣って、それこそ上辺だけは納得したフリをしてしまうかもしれない。


 それでは、彼女は本当に救われた事にはならないだろう。


「……ふむ」


 俺は鼻を鳴らして上を向く。


 ダグ先生やリディアが用意してくれた言葉は、すっかり抜け落ちている。


 なんとか自分で考えるしかないだろう。


 俺は木に押し付けた右手に視線を下ろし……それから、そのすぐ下で声を殺して泣くイライザを見た。


 この体勢……どこかで……


 ――良い? アルお兄ちゃん。女の子の『イヤ』にはね、二種類あるのよ?


 脳裏を過るマチネの言葉。


 アレは、彼女が勧めてくれた小説に出てくる貴公子の行動と、それに対する令嬢の反応が理解できずに、マチネに訊ねた時だったか。


 ――好きな人の前ではね、女の子は構って欲しくて……心配して欲しくて、イヤって言っちゃう事もあるの!


 イライザが俺を好きかどうかはともかく、少なくとも友人関係……嫌われては居ないはずだ。


 ――そういう時、男なら強引にでも女の子を包み込んであげるのが、イイ男なのよ!?


 ……なるほどな。


 今後はマチネの事も先生と呼ぶべきだろうか。


 恐らく彼女はババアなんかより、よっぽど俺の為になる事を教えてくれた。


「――イライザ……」


 俺はマチネお勧めの小説に出てくる貴公子のように、イライザの腰に手を回して抱き寄せる。


「おまえが汚れていないと思う証を見せてやろう」


 彼女のアゴを掴み、上を向かせる。


「嫌なら拒め……」


「え? ちょ――アーくん?」


 そうして俺は彼女の唇に唇を重ねようと、顔を寄せる。


「あ……」


 イライザが受け入れるように目を伏せたのがわかった。


 彼女の甘い吐息が鼻に触れた瞬間――


「さすがにそれは見過ごせないよ――ッ!」


 そんなアリシアの叫びと共に、景色が物凄い勢いで流れた。


 遅れて後頭部に激痛と衝撃が走り、俺は殴り飛ばされたのだと理解する。


 あのバカ、止めるにしてもやり方があるだろうに……


 ふむ、これはまずいな……


 目の前に黒い点が広がり始め、思考が鈍化し始めている。


 文字通り宙に舞い上げられた俺は、衝撃で遠のき始めた意識で考える。


 上昇が頂点を迎え、落下が始まった。


 ――だが……


 見下ろした先で、リディアとアリシアに抱き締められて涙を流すイライザは、けれど確かに微笑みを浮かべているのが見えた。


 あいつがまた笑えたなら、これもまた上手く行ったと言って良いだろう。


 その為なら、多少の怪我などなんでもない。


「……イライザ。おまえは昔から、綺麗なままだぞ……」


 墜落が近いのを感じながら、俺の意識はそこで途切れた。





★――――――――――――――――――――――――――――――――――――★

 ここまでで2話終了となります。

 

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