第2話 17

「――と、いう事が二日前にありまして……おそらくお嬢様はそのままトランサー家に連れて行かれたと思われます」


 荒い息で説明を終えたミリィは、リディアが差し出したコップではなく、もう一方の手に持つ水差しを引ったくって、一気に飲み始める。


 屋敷に駆け込んで来たミリィは、ひどい有様だった。


 普段はシニヨンに纏めている髪は解け、その毛先は焼け焦げてボサボサだ。


 着ている侍女服もスカートの端々が焼け焦げ、あるいはどこかに引っ掛けたのか、裂けて大きな穴が空いている。


 足なんて裸足で血塗れだ。


 リディアが手当をしようとしたのだが、ミリィはまず話を聞いて欲しいと譲らなかったのだ。


 水差しの中身を飲み干したミリィは、べたりと床に頭を押し付ける。


「――お願いします。アルベルト殿下! お嬢様を助けてください!」


「おい、やめろ! そんな事しなくても、そのつもりだ!」


 イライザは今後のバートニー領の発展に欠かせない人物だし、俺にとってもリディアにとっても大切な友人だ。


 ……なによりも、だ。


「――俺の名を使って法を捻じ曲げ、ローゼス伯もまた悪と決めつけようとしているのが気に食わん!」


 別にいまさら、俺の悪評を広めようとどうでも良い。


 だが、という決めつけは看過できん。


 あのお花畑は、正義の名の下であれば、なにをしても赦されるとでも考えているのか?


 人が十人いれば、正義もまた十通り存在する。


 誰かの正義が他者にとっては悪に見える事など、世の中にはいくらでもある話だ。


 だからこそそれらが衝突し、傷つけ合わない為の落とし処――共通認識として法があるのであり、法を遵守することこそが、基本的には正義とされるのだが……どうやらあのバカの認識は違うようだな。


 ――俺を追い落として二年か……ヤツの地金が見え始めて来たようだ。


「――クロ、まずはミリィの怪我を治してやれ」


 俺は床からミリィを立たせ、ソファに座らせると、クロに指示を出して霊薬を使わせる。


 すぐにでも発ちたいところだが、まずはミリィの手当てが先だ。


 現地ではヤツにも働いてもらう必要があるからな。


 リディアが濡らした手拭いでミリィの足についた血を拭おうとしたのだが、ミリィは断って手拭いを受け取り、自分で足を拭き出した。


「……それにしても二日でローゼス領都からここまでって、ローゼス伯爵は魔獣を飼っているのですか?」


 馬より速い乗り物として、魔獣車というものがある。


 裕福な上級貴族が冒険者に依頼して、生まれたばかりの魔獣を捕獲・育成し、車を牽かせたり乗騎にするのだ。


 だが、今回、ミリィはそういったものを使ったわけではない。


「いえ時間が惜しかったので、アタシ、街道を使わずにまっすぐ走って来ました」


「――走って!? でも、ローゼス領からここまでって……」


 リディアは驚き、視線を宙に彷徨わせる。


 ――恐らくローダイン王国の地図を思い浮かべているのだろう。


 ローゼス領の南には王国中西部を抉るように横たわる、ランカート渓谷がある。


 そこを越えるとトランサー領があり、そのさらに南にバートン領があるのだが、トランサー領とバートン領の間には峻険しゅんけんなエリオス岳を抱く、ミラン山脈がそびえている。


 そのミラン山脈の裾野に広がる森林の一部が魔境化している為に道を通せず、普通、バートニー村からローゼス領に向かうには、アージュア大河河畔街道を北上して王都に至り、そこから西アベル渡河街道を南下し直す必要があるのだ。


 一刻も早く俺にイライザの危機を報せたかったミリィは、だからこそ街道を使用せず、ひたすら愚直に真っ直ぐに最短距離を駆け抜けたのだろう。


 恐らくは魔境すら駆け抜けて来たに違いない。


「リディア、こいつはグランゼス領の生まれなんだ」


 地図を思い浮かべたからこそ理解できないという顔をするリディアに、俺は苦笑して説明する。


「イライザの侍女になる前は、アリシア――グランゼス公女の直属部隊に配属される予定だったんだ」


 つまりは<竜牙>騎士団の女騎士になるべく、幼少期から頭のおかしいあの訓練を受けていたというわけだ。


 そして、その鍛え抜かれた身体能力と魔法による身体強化を駆使して、ローゼス領からここまで音を上回る速度で駆け抜けて来たのだろう。


「ええ、姫様が修行の旅に出奔なさったので、直属部隊の設立はお流れになっちゃったんですけどね……」


 と、ミリィもまた苦笑。


「あのバカが本当にすまんな」


「いえ~、お陰でイライザお嬢様の侍女になれたので、悪い事ばかりでもありませんよ」


 イライザの養父、アシュトンが殺されたあの事件で、イライザを哀れに思ったのはローゼス伯爵だけではなかった。


 グランゼス公――大叔父上もまた、アシュトン殺害を防げなかった事を悔い、また今後も事件の真相を知る者としてイライザが狙われる可能性を苦慮して、ミリィを護衛として侍女にする事を提案したのだ。


「まあ、どんなに騎士として力を持っていても、王命には叶いませんでしたけどね……」


 自嘲気味に呟くミリィに、俺は首を振って――


「だが、おまえがイライザの側にいてくれたお陰で、俺はあいつの危機を知る事ができた。

 ――誇るが良い。おまえは見事に務めを果たしたのだ」


 ヤツの肩を叩いて、安心するようにと笑って見せる。


「――っ!?」


 と、ミリィは驚きに目を見開いて、それから顔をそむける。


「――殿下、そういうのはお嬢様かリディア様だけにしといてくださいね!」


「む?」


 また言葉や態度を間違えただろうか?


 相手を安心させる時には笑顔だという、ダグ先生の教えに従ったのだが……


「ホント、そういうトコですよっ!」


 首をひねる俺に、ミリィが叫ぶ。


 イライザに仕えて随分経つはずだが、やはりミリィも頭のおかしいグランゼスの民だな。


 その一般人とは異なる位置にあるであろう情緒の緒に、俺は知らない間に触れてしまったようだ。

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