第1話 8

 ――アルベルト殿下と暮らすようになって三週間ほど過ぎました。


 たった三週間、とも。


 もう三週間、とも思える、短いようで濃密な毎日。


 殿下が来られるより前は――


 昨年の終わりに父さんを亡くして半年ほど経ち、屋敷にはわたしとロバのロッシーだけが残されていました。


 寂しい――というワケではないのです。


 お城を辞して、およそ二年。


 次第に衰えていく父さんとは、十分に幸せな日々を過ごせました。


 ただ、父さんが生きていた頃より、毎日がちょっとだけ色褪せたように感じられて。


 わたしには、父さんのように村を良くしたいという、あの情熱は受け継がれなかったようです。


 強いてやりたい事を挙げるなら、父さんの仕事を手伝って行けたら――と、漠然と考えていたので、父さんが亡くなってからの日々は、なんというか……ただ生きる為だけに生きているような――惰性のような日々だったのです。


 父さんから教わった通りに領主としての仕事をこなし、村の寄り合いに出席して、みなさんの意見を元に調整する日々。


 不満があるわけでは決してないのですが……心の何処かで、わたしなんかが領主で良いのだろうか――とか、父さんならもっと色々できたのではないか、なんていつも考えていました。


 そんな想いが、知らない間に降り積もっていたのでしょうね。


 だから――殿下を見つけたあの日の朝、無意識に殿下の事を思い出してしまっていたのかもしれません。


 ……そうですね。


 きっとわたしは、殿下のおそばで侍女のままでいたかったのでしょう。


 生まれて初めて抱いた夢だったのです。


 父さんが人生を捧げ、けれど諦めようとしていた村の発展。


 それを叶えてくださったアルベルト殿下の事を話す父さんは、すごくすごく嬉しそうだったのです。


 ――きっとあの方は、真に民を理解した名君になられる!


 いつもそう言ってましたっけ。


 そんな父さんを見て育ったわたしですから、いつしか自然と殿下にお仕えしたいと考えるようになりました。


 そう父さんに告げた時は、それはもう喜んでくれましたね。


 父さんはバートニー芋を卸している商会を通じて殿下に手紙を送り、わたしが行儀見習いとして受け入れてもらえるように手配してくれて。


 王城に上がって気づいたのは、アルベルト殿下は皆さんに恐れられているという事でした。


 先輩方皆さんが、殿下は恐ろしい方だとか、何人もクビになっていると仰ってました。


 ですから、身分も低く、田舎から出てきたばかりの小娘のわたしが、殿下付きに回されたのは、偶然の積み重ねではありますが、必然だったとも思えます。


 実際に対面したアルベルト殿下は……確かに目つきが鋭く、威圧的な雰囲気を放ってらっしゃいました。


 仰られるお言葉も厳しいものばかりでしたね。


 ……ですが。


 ――リディア、と。


 わたしを呼ぶ、そのアクセントの置き方が、わたしが挨拶したそのままなのに気づいて、わたしは殿下がやはり父さんのいう通り、思慮深く、臣下を想われている方なのだと気づいたのです。


 接する方の多くが、わたしの訛りを嘲笑い、あるいは陰口を叩いていたあの頃。


 殿下だけは、変わらないままに接してくださったのです。


 それに気づけば、殿下が不意にむっつりと押し黙る理由にもすぐに気付けました。


 きっと殿下は、相手を気遣う余り――言葉を選びすぎて、黙ってしまうのでしょう。


 それが目つきの鋭さと相まって、接する方に威圧感を与えてしまうのです。


 侍女の間を流れていた噂では、アルベルト殿下は癇癪持ちで、すぐに侍女を叱責する――というものもありましたが、わたしは理不尽に怒られた事はありません。


 それどころか!


 わたしは要領が悪くて、いつも先輩方のお仕事まで押し付けられていた為に、よく食事やお風呂の時間に間に合わずにいました。


 殿下はそれに気づいてくださって、ご自身のお部屋で食事や入浴をしてから寮に戻れるように、手配してくださったりもしたのです。


 侍女を辞める時もそうでした。


 父が倒れたと連絡があったあの日、わたしは侍女長に暇乞いをしたのですが、誰もが殿下の専属が不在になって、ご自分にその役目が回ってくるのを恐れたのです。


 わたしの願いは聞き入れられませんでした。


 でも、殿下はわたしの表情が沈んでいる事に気づいてくださって。


 ――任せておけ。


 わたしから事情を聞き出してそう仰った殿下は、わたしの目の前でカップを床に叩きつけました。


 お茶が熱いとか、確かそんな事を叫ばれながら――殿下はご自身の袖からサファイアのカフスをむしり取り、わたしの手に握らせました。


 ――少なくて済まないが、退職金がわりだ。


 口の動きだけで、そう仰られて。


 殿下の叫びを聞きつけて、侍従長と侍女長がやって来くると、殿下はわたしにクビを言い渡しました。


 ええ! 殿下は決して悪意があって、わたしをクビにしたのではないのです。


 父の為に帰省したいわたしを慮って、悪役を買って出てくださったのです!


 お陰で城を辞する時、先輩方は――罪悪感もあったのかもしれませんが――ひどく同情的になってらっしゃいましたね。


 そうしてバートニー村に帰って来たわたしは、決して短くない期間を父さんと共に過ごす事ができました。


 けれど。


 わたしが父さんとの幸せな時間を過ごしている間に、殿下は――


 なぜ、王宮の皆さんは殿下の優しさや思慮深さに気づかないのでしょうか。


 不器用な方なのです。


 ただの善意が、そのお言葉の悪さと見た目で誤解され、悪し様に取られてしまう。


 ……ええ。アルベルト殿下が王宮を追われたと聞かされてから、わたしはなぜ王宮に残らなかったのかと、ずっと悔やみ続けていたのです。


 ですから、助けた人物が殿下だと気づいた時は本当に驚きました。


 ……驚いたのですが――また殿下にお仕えできると、密かに喜びを覚えたのも確かなのです。


 ……この三週間は本当に幸せでした。


 殿下は、王宮を追われた今、もはや自分は庶民なのだと仰って、村の為に一生懸命尽くしてくださいました。


 殿下が今も父さんの事を覚えてくださって――貴族の鑑とまで仰ってくださったのは、本当に本当に嬉しかった。


 現在、新王陛下――カイル陛下は、アルベルト殿下が行なった政策のことごとくを破棄し、新たな政策を打ち出し続けています。


 殿下はこの三週間、折を見て王宮を追われてからの二年間の情報を集めてらっしゃいました。


 村のみんなは政治なんてわかりませんから、あまり捗ってはいないようでしたが、先日やって来た行商人のエールズさんから、かなり詳細な情報を得たようです。


 わたしは……その晩、恐る恐る殿下に訊ねました。


 ――殿下は、復讐を望まれますか?


 もし肯定なさるなら、わたしは今度こそ最後までお供しよう。


 そう覚悟して、お訊ねしたのです。


 ……ですが。


 ――復讐? くだらない。


 殿下は肩を竦めて、笑われたのです。


 ――元々、俺以外に王子が居ないから王太子やってたんだ。


 と、本当に玉座に執着が無いのだというように。


 ――他に王子がいるなら、王なんてなりたい奴がやれば良い。


 そう仰って。


 ――またハメられて痛い思いするくらいなら、俺は庶民としてこの村で生き続けるさ。


 いっさい気負いなく、本当に楽しげに――心からそれを望まれているのがわかりました。


 バートン男爵の意思を継いで、村を発展させるのも悪くない、と。


 そう望んでくださったのです。


 だから。


 ――殿下がそう望んでくださったから……


 わたしは息を深く吸って、視線をあげます。





「――おい、聞いてるのか、リディア!」


 ローテーブルの向こう。


 応接ソファーに身を沈め、脚を組んだオズワルド様が不機嫌そうに声を荒げます。


 よく整えられた金の前髪を、気障ったらしい仕草で掻き上げるオズワルド様。


 一年ほど前に先代様より家督を継がれた彼は、父が身罷ってから、よくこの屋敷を訪れるようになりました。


「……ええ、聞いております」


 実際は長々と続けられる、彼のくだらない自慢話に、物思いに耽っていたのですが、わたしはそんな素振りも見せずに応えました。


 すっかり冷めてしまったお茶を飲み、視線をテーブルに置かれた書類に注ぎます。


 よく次から次へと思いつくと、毎回驚かされておりましたが、いよいよ手段を選ばなくなったようですね。


 ため息と共にその書類を手に取ります。


 ――婚約契約書。


 先代チュータックス子爵――エドワード小父様と、父さんのサインが入ったそれは、わたしとオズワルド様との婚約が成されていると書かれています。


「――わたしがあなたと婚約? くだらない。

 父さんと小父様がそのつもりなら、わたしに知らせないわけがないでしょう?」

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