第1話 4
俺は再び寝台に腰を降ろし、リディアは文机の椅子に座る。
窓の外に広がっていた光景は、事情を知らない者にとっては本当にただの片田舎に過ぎないのだろう。
だが、俺はバートン男爵があの光景の実現に――利水事業にどれほどの情熱を傾けていたのかを、よく知っている。
きっかけは俺が十一歳の頃――まだ爺様が現役だった頃の社交界での事だ。
秋の終わりから始まる社交シーズンの中で王宮が主催する宴は、各領の特産品が調理されて並べられる。
俺はまだ政務に関わる前で、宴でも結構自由が利いてた頃でな。
たまたま目に入ったテーブルの中で、山盛りのまま誰にも手を付けられずに残されていた皿に気づいたんだよな。
――芋だ。
他国から入って来た作物で、荒れ地でも育ち、しかも大量に収穫できる事から、庶民――それも貧しい者達の間で食されているのだと、当時の俺は知識として知っていた。
それ故に貴族の食い物ではないと、見下されている事も。
庶民の食生活に興味のあった俺は、これ幸いとばかりにテーブルに駆け寄った。
給仕が止めるもんだから、自分で取皿によそって食いついたっけな。
――うまかった。
茹でて塩とバターのみで味付けされた、シンプルで――しかし、だからこそ芋そのものの深い旨味と、ほのかに感じる甘みを引き立てていた。
これは庶民に広まるわけだ。
そう納得した。
こんな単純な味付けでさえ、これほどに美味いのだから。
庶民とは日々の仕事に追われていると聞いている。
だからこそ、手間暇のかかる料理には滅多にありつけないのだと、爺様から教えられた。
そういう者達のお陰で、俺達は美味い飯にありつけているのだということを忘れてはいけないのだと。
そんな庶民達にとって、単純な味付けだけで美味いこの芋は革命だろう!
もっと王国中に広めるべきだ。
そう思った俺は、給仕にこの芋を用意した領を問い質したんだ。
芋を提供したバートン男爵は、すぐに見つかった。
先代の時分に未開拓地を開墾し、その功績で領主に封じられたのがバートン家だ。
田舎貴族だの、百姓男爵だのと揶揄されていた彼は、宴の席で孤立して隅っこでひとりでワインを傾けていたよ。
三十代の割に老け込んだ顔で、けれど健康的に日に焼けた浅黒い肌に逞しい身体をしていて、二代目であっても土仕事に精を出しているのがよくわかった。
俺が唐突に声をかけたもんだから、飛び上がって驚いてたっけな。
大きな身体を丸めながら俺に臣下の挨拶をして。
一見すると気弱そうに見えたんだが、俺が男爵が提供してくれた芋を褒めると、まるで人が変ったように――いや、あれが男爵の本来の顔なんだろうな――情熱的な目で農作業について熱く語り、より村を発展させる為に必要なのだと、利水の重要性について訴えたんだ。
男爵が言うには、今回提供された芋は、先代の頃から品種改良を重ね続けたもので、この国の風土に適応し、より栽培しやすくなっているのだという。
男爵の夢は、栽培している村の名前を取ってバートニー芋と名付けたこの芋を、より広くより安価に、多くの人に食べてもらう事だとそう告げていたっけな。
長期保存も利くから、運搬に関しても対応できる。
まさに庶民にとっては良いことづくめ。
俺はバートン男爵に利水事業の計画を書面としてまとめるように指示して、さっそく宴の後で爺様に相談したよ。
そりゃもう、バートン男爵の熱意を代弁しまくったさ。
特別に用意してもらったバートニー芋に、爺様もうまいと評価して。
けど、どっちかというと爺様は、口下手で余り喋らない俺が熱く語りまくった事の方に驚いてたっけな。
結果として、爺様はバートン領の利水事業は国益に適うと判断し、補助金を交付するように指示を出した。
バートニー芋は俺のお気に入りって事で、庶民だけじゃなく貴族達にも広まったよ。
まあ、お上品ぶった一部の上級貴族達には、相変わらず毛嫌いされてたみたいだけどな。
あまりに有名になったバートニー芋の価格が高騰しては男爵の願いに適わないから、俺は馴染みの商人に頼んで、専属売買契約を結んでもらうように手配したりもしたな。
バートン男爵は二つ返事で応じたらしい。
大儲けするチャンスだろうに、それを棒に振っても、男爵は国益を優先してくれたんだ。
――大金があっても、田舎じゃ使い切れませんからね。今くらいの儲けで丁度いい。
そう言って、専属契約書にサインしたのだと聞いている。
「……男爵は、まさに貴族の鑑だ」
俺の呟きを聞きつけて、リディアが笑顔を浮かべる。
「殿下にそう仰って頂けて、父も漆壁の向こうで喜んでいるでしょう」
漆壁は、サティリア教会が伝えるこの世と死後の世界を隔てる境界の事だ。
「お父上が亡くなられたという事は、今はリディアが男爵位を継いだのか?」
俺が何気なしに問いかけると、リディアの表情がわずかに曇った。
「む、俺はまたなにかマズい事を言ってしまったか?」
不安になって尋ねる。
この国の継承制度は嫡男優先ではあるものの、女王が立った過去の歴史から、女性嫡子の継承も認められているはずだが?
「――いえ! そんな事はありません!」
しかし、リディアはすぐに首を横に振って、笑顔を浮かべる。
「仰る通り、至らないながらも、村のみなさんの助けもあって、なんとか女男爵として務められております」
「そうか。それはなによりだ。
……あの先輩侍女にいびられてべそ掻いてたリディアが、立派になったものだ」
「――ちょっ!? 殿下っ!
殿下こそ、なんでそんな変な格好で、川から流れてなんて来られたですか?
わたし、本当に驚きました!」
興奮すると、胸の前で両拳を握って顔を突き出すのは、侍女の頃にもよくやってた癖だっけな。
「というか、よくこんなおかしな奴を拾ったよな……
初めから俺と気づいてたわけじゃないよな?」
「ええ。初めは普通の――って言ったら変ですけど、冒険者さんかなにかと思ってました」
「あ~、だろうなぁ……」
強さがすべてのあの連中は、己の強さを誇示する為に、時に
「ただ、その……御髪が見事な赤毛でしたので、殿下を思い出して見捨てられなくて……それで屋敷に連れ帰って看病してたのですが……
――さっき、わたしの名前を呼んでくださいましたよね? それで気づけたのです」
「ん? 名前? 声でわかったって事か? それだけで?」
「いえ声もそうですけど、殿下がわたしを呼ぶ時って、その……バートン領訛りなんです」
……は?
「お城に上がった時のわたし、まだ領訛りが抜けてなくて、よくそれで先輩や貴族の皆さんに誂われてたんです」
ああ、何度か見かけたな。
リディアの言葉をマネしたり、あえて同じ言葉を中央言葉で言い直したり。
陰湿でイラついたから、よく覚えている。
「それでなんとか言葉を直したんですけど、それでも自分の名前の訛りだけはなかなか直らなくて……
だから、殿下の侍女になった時も、そのままでご挨拶してしまって……」
リディアは顔を真っ赤にして俯かせながら続ける。
「でも、殿下は気にせず、ずっとそのまま呼んでくれたんですよ。
他の方は中央言葉で、『リ』にアクセントを置くんですが、殿下はわたしが名乗った時のまま『ディ』にアクセントを置いて……」
「ん? そうだったか? リディア……リディアリディア……違いがわからんな」
「……そんな殿下だから、わたしは殿下が父さんの言う通り、ご聡明でよく臣下の話を聞いてくださる方だって思えたんです
侍女の名前なんて、殿下のお立場なら好きに呼んでも良いのに、わたしが名乗ったままで呼んでくれて……すごく嬉しかったんですよ?」
基本的に俺に名前を呼ばれた侍女は顔を真っ青にするのに、リディアだけはなぜかやたら嬉しそうにしてたのは、そんな理由があったのか。
「そ、そうだったのか……」
思わぬ真相が知れて、なんだか照れ臭くなるな。
俺は頭を掻いてリディアから視線を逸らし。
リディアもまた、顔を俯かせたまま押し黙る。
窓から風が吹き込んで、リディアの淡い茶色髪を揺らして。
それでリディアは我に返ったように顔をあげて、両手を打ち合わせた。
「――そ、そうだ。わたし、お昼用意しないとでした! 殿下は食べられそうですか?」
「ああ、せっかくだし、久しぶりにバートニー芋が食いたいな」
地下迷宮に落とされて、何度食いたいと願ったことか!
「かしこまりました。では、お腹がびっくりしないように、スープでご用意させて頂きます!」
そうしてリディアも部屋を出て行き。
ひとり残された俺は、寝台に身体を横たえる。
「……流れ着いたのが顔見知りの領とはな。運が良いのか悪いのか……」
俺が居るのが王宮にバレたら、なんの非もないリディアを巻き込む事になるのではないか。
そういう意味では運が悪いと言えるだろう。
これは早急に、現在の俺の扱いを知る必要があるな。
リディアからだけではなく、村の人間や――できれば行商人なんかからも情報を仕入れたい。
リディアはどうも俺に恩を感じている為か、俺贔屓な評価をしそうだからな。
そういう意味では、ダグ先生と交友を結べたのは僥倖だな。
リディアの知己としてだけではなく、ダグ先生の生徒としても村人と接する事ができる。
なにより、俺の口下手をフォローしてくれるというのが大きい。
「……なにはともあれ……身体を癒やしてから……だな……」
横になったからか、それともやはり本調子ではなかった為か。
俺の意識は再び、二年ぶりの布団の柔らかさの中に沈み込んで行った。
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