第1話 2
久しぶりに感じる心地よい温もりに、俺はゆっくりと目を開いた。
埃の匂いに混じって、強い緑と土の香りを感じる。
横たわったまま視線を動かせば、さして広くもない質素な部屋のようだった。
俺が寝かされている寝台のすぐ右上の窓が開け放たれていて、風にカーテンが揺れていた。
「……ここは?」
危険はないと感じて上体を起こし、そう呟く。
「俺は……」
そうして、意識を失う直前の事を思い出した。
――いつも言ってるだろう? アンタ、そろそろ引き篭もるの止めて、外で遊んでおいでってさ!
そう告げた紫髪の女が、容赦なく俺を蹴りつけて急流に叩き込む光景。
「……あンのババア、やりやがった!」
実力行使に出たというわけだ!
ヤツの思惑通り、どうやら俺は晴れて地下大迷宮の外に流れ出て、こうして誰かに助けられたのだろう。
「クソっ! 俺は外に出るつもりなんてなかったのに!」
吐き捨てながらシーツに拳を叩きつけていると。
「――あっ! 気づいたのかっ!?」
七、八歳くらいの男の子がドアを開けてやって来た。
着古し、継ぎ当てだらけのくすんだ色合いの衣服を着込んでいるから、すぐに庶民なのだとわかる。
手には水を張った手拭い入りの洗面器。
そいつは寝台の横の文机の上にその洗面器を置くと、沈められた手拭いを軽く絞って俺に差し出してきた。
「ん! ちょっと熱っぽいから、これで冷やせって姉ちゃんが。
でも兄ちゃん、その変なお面で冷やせないよな? どうすんだろ?」
ボサボサの栗色の髪を揺らして首を傾げる男の子。
確かに俺の顔は仮面で覆われているから、額を冷やすことはできない。
この子供の疑問はもっともだな。
「いや、助かる」
短くそう告げて手拭いを受け取り、俺は手拭いを首筋にあてがった。
ひんやりとした感覚が染み渡り、確かに自分が発熱していたのを自覚する。
「気持ちいいだろ? 姉ちゃんが魔法で冷やした水なんだぜ!」
誇らしげに笑った男の子は、生え変わりの最中なのか上前歯に隙間があった。
「……小僧、おまえの姉は魔法が使えるのか」
その言葉に、男の子はムッと頬を膨らませる。
「オイラは小僧じゃねえぞ!? ダグって言うんだ!」
……しまった。
俺はいつもこうだ。
特にしばらくはあいつら以外とは会話していなかったから、余計にひどくなってる気がする。
言葉選びが下手で、注意していないとすぐに相手の機嫌を損ねてしまう。だから、いつも言葉を厳選しようと押し黙るのだが……
「……ひょ、ひょっとして怒った?」
案の定、ダグと名乗った男の子は、肩を縮込めさせながら上目遣いで俺を見上げてきた。
俺はため息を吐いて首を振る。
そう。こんな風に沈黙の時間が、相手に威圧感を与えてしまうようなのだ。
――相手が気にしたようなら、素直に自分が口下手だって話して、謝れば良いよ?
口うるさい相棒の言葉を思い出す。
「いや、済まない。俺はどうも言葉選びが下手でな。貴様――いや、おまえ……違うな、君、を? 侮辱するつもりはなかったんだ」
そう告げて頭を下げれば、ダグはぽかんと口をあけて、間抜けた表情を浮かべた。
「君なんて言われたの初めてだ。兄ちゃん、貴族かなんかか? おまえ、で良いし、オイラの事は名前で呼んでくれて良いよ!」
と、すきっ歯を覗かせて笑うダグに、俺も釣られて笑みが浮かぶ。
やったぞ、クロ!
初めて子供に泣かれずに済んだ!
さすがは魔神と謳われる、あのババアの眷属だ!
伊達に長生きしてるワケじゃないな!!
確かな満足感に、思わず拳を握り締める。
「兄ちゃんは、なんて名前なんだ?」
「――む?」
ダグに問われて、俺は首を傾げる。
さてどうしたものか。
この二年、「なあ」とか「おい」とか、「バカ弟子」としかババアには呼ばれていない。
その眷属であるクロにもまた、「キミ」とばかり呼ばれていた。
だが、ここが外である以上、本名を名乗るのは良くないだろう。
どこからどう巡って、あいつらの耳に届くかわからない。
「……ひょっとして覚えてないとかか? オイラ、姉ちゃんに貸してもらった本で知ってるぜ。記憶喪失ってやつだ!」
と、沈黙した俺の顔を、ダグは心配そうに覗き込んで来る。
「いや、記憶はある。どうしたらおまえを怒らせずに話せるか考えていた」
そう言い訳しつつ、俺は必死に名前を考える。
あまりにもかけ離れても、とっさに呼ばれて反応できなければ怪しまれるだろう。
ならば愛称を使うか?
――アル!
元服し、爺様に代わって
「なんだよ。兄ちゃんが口下手なのはわかったから、あんま気にせずに話せよ。
――てーか、考えすぎるから変な言い回しになるんじゃね?」
頭の後ろで手を組んで、ニシシと笑うダグ。
「なるほど、一理あるな」
「なんなら、オイラが話し方の先生になってやっても良いぜ?
兄ちゃんの喋り方って、なんか堅苦しいんだよな!
さっきも言ったけどオイラたちゃお貴族サマじゃねえんだから、もっと砕けてて良いんだよ!」
「……そう、か?」
確かに様々な言葉に迷うのは、貴族的な言い回しを意識しての事だ。
状況や相手の立場などを考え、必死に言葉を選ぶのだが、その間に相手は沈黙に萎縮し、俺が選びだした言葉に裏を感じてさらに萎縮するという事が、昔から多々あった。
これから外で暮らしていくなら、この悪癖は治すべきだろう。
俺は頷きをひとつ。
「では、ダグの事はダグ先生と呼ぼう。
俺の事はアルと呼んでくれ」
握手を求めて右手を差し出せば、ダグ先生は――
「ま、マジで先生って呼ぶのかよ!? じゃ、じゃあアル兄ちゃん、よろしくなっ!」
そう応えて、両手で俺の手を握り返してくれた。
……うおぉぉ!! クロ、なぜ今ここにいない!? 俺、子供と握手できてるぞ!? 怖がられてないぞっっ!?
涙が滲みそうになって、俺は両目を瞑り、こぼれ落ちないように上を向く。
と、部屋のドアがノックされて。
「――ダグくん、ちゃんとできた~?」
薄い茶色髪を背中に流した、可愛らしい少女が入室して来た。
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