第1話 きっかけは男爵令嬢

第1話 1

 畑周りの雑草を抜き終える頃には、太陽がウーディ山の稜線から顔を覗かせ始めていました。


 夜明けに気づいて、わたしは首に掛けた手拭いで汗を拭います。


 夏が近いからか、この時間でもすっかり汗だくです。


 まだ紫色の空を見上げると雲ひとつなく、今日も良いお天気になりそうですね。


 畑を見回すと、先日種をまいたばかりだというのに、野菜たちは青い葉を懸命に伸ばして生い茂っています。


「……そろそろ支え柱を立てても良いかもしれませんね」


 そんな事を考えながら、わたしは畑の端に用意しておいた木桶を手に取り、すぐそばを涼しげに流れる灌漑から水を汲み上げます。


 木桶の中の水面に、寝起きのまま梳かされてもいない茶髪と、丸く大きな茶色い目が映ります。


 取り立てて美しいというわけでも、醜いわけでもない平凡な顔です。


 街で見かけたなら、たいていの人が貴族とは思わず、村娘だと思うでしょう。


 ――リディア・バートン。


 それがわたしの名前です。


 これでも一応、バートン男爵家の当主なのですが、使用人すら雇えない今、そう名乗るのは烏滸おこがましいのかもしれませんね。


 木桶を手に立ち上がり、わたしは手櫛で髪を梳かしながら畑に戻ります。


 村のそばを流れるアージュア大河から引き込んで村中に張り巡らされた灌漑設備は、五年ほど前――父さんがまだ生きていた頃に造られたものです。


 それまでは村の中央に引き込んだ小川を利用していて、畑への水やりはかなりの重労働でしたね。


 わたしが暮らす屋敷は村の外れにあって、小川の水を汲む為、毎朝、当時はまだ居た使用人達と一緒に、ロバに荷台を牽かせて汲みに行ってたものです。


 屋敷の畑だけじゃなく、村のみんなの畑も手伝っていた父さんでしたから、畑の世話の大変さは良く理解していたので、いつも利水事業を考えていましたね。


 ですが、先立つものがなく、加えて村の人は日々の生活に忙しくて、工事にまで手が回らず……


 結局は小川を利用し続けるしかなかったのです。


 ――なんの価値もない田舎村。


 社交シーズンに中央や他領のみなさんに、そんな風に揶揄されるような領でしたからね。


 まだ幼かったわたしは、父さんの手伝いをしたくて、いつも村を巡る父さんの後をついて周ってましたっけ。


 そんなこの村に転機が訪れたのは、わたしが十歳になる頃。


 社交シーズンが終わって王都から帰って来た父さんは、満面の笑顔でわたしを抱き上げながら事業に着手できると喜んでましたっけ。


 なんでも、王太子様がこの村で採れたお芋を大層お気に召したそうで、直接、父さんにお声掛けくださったのだとか。


 田舎領の男爵にしか過ぎない父さんに、わざわざお声をかけてくださった殿下もずいぶんと型破りな方ですが、そこで利水事業を訴える父さんの度胸にも驚かされましたね。


 ――不興を買ったとしても、爵位を失う程度だろうしね。村のみんなの為にと必死だったんだよ。


 そう言って微笑んだ父さんの顔は、いまでも忘れられません。


 結果として、父さんの訴えを受けて、王宮は領に補助金を交付してくださって、村に灌漑を通す事ができたのです。


 一年半の大規模治水工事の末、灌漑網は完成し、村の農作業は格段に楽になりました。


 村の名前が付けられたバートニー芋は、王太子様お気に入りという触れ込みで村の特産品となり、王都でも人気のお野菜となりましたね。


 ……二年前までは。


 木桶に汲んだ水を畑に撒きながら、わたしはため息を吐きます。


「――殿下はいま、どうされているのですかねぇ……」


 先王陛下が現在の陛下にご譲位されたのが、二年ほど前だと聞きます。


 行商人が半年遅れで持ち込んでくれたお話によれば、王太子様の悪行を見かねた双子の弟王子様が立ち上がられ、王太子様を廃することで玉座に着かれたのだそうです。


 その煽りなのか……王太子様にお気に召して頂けていたバートニー芋は、いまや誰にも見向きもされなくなってしまいました。


 それどころか中央では、ウチが王太子様と癒着していたとか、賄賂を送っていたとさえ言われているそうです。


 ……あの方が、そんな事するはずないのに……


 たった一年にも満たない短い期間でしたが、あの方に直接仕えていたわたしには、あの方の悪評が理解できないのです。


 確かにいつも怖い雰囲気でしたけど、よくよく見れば――きちんとお話すれば、あの方の良さはわかるはずなのに……


 柄杓が木桶の縁を打つ音に、いつの間にか木桶が空になっている事に気づき、わたしは再び水を汲みに灌漑に向かいます。


 考え事をしながらでしたから、うっかりしてました。


 そうして二、三度水を汲んでは撒きを繰り返し、空が白み始めた頃には、朝の畑仕事は終わりです。


 木桶や鎌を納屋に戻し、朝食の用意の為に納屋の脇に積み重ねた薪を抱えて、厨房に繋がる勝手口に向かいます。


「パンとスープは昨晩の残りがありますから……」


 朝食のメニューを考えながら、わたしはかまどに持ってきた薪を入れて。


「……灯れ、火よ」


 胸の前で左手を握って魔道器官に集中し、魔法を喚起します。


 喚起詞に世界の理が従って、わたしの右手の指先に小さな火が現れました。


 田舎男爵の娘でしかないわたしですから、他の貴族のお嬢様のように王立学園には通えていませんが、王宮で侍女をしていた時に簡単な魔法なら教えてもらう機会に恵まれて、ですからこんな風に火起こしも魔法で行えるのです。


 指先に灯った火を、竈のそばに置いた着火用の木片に移し、それらを数本、薪の間に挿し込みます。


 やがて薪がパチパチと音を立てて燃え出した頃でした。


「――リディア姉ちゃん!」


 勝手口を押し開けて飛び込んで来たのは、村の子のダグくんでした。


「爺ちゃんが姉ちゃんを呼んできてくれって!」


 ダグくんのお爺さんは、村唯一の漁師のゴリバさんです。


「え、ええと……そんな慌ててどうしたんです?」


 せっかく熾したばかりなのにもったいないですが、火かき棒で薪を竈から掻き出して、わたしはそう訊ねます。


「変なヤツが流れて来たんだ!」


 なんでもダグくんは、いつものようにゴリバさんと一緒に、朝釣りにアージュア大河に出ていたそうです。


「生きてるみてえだけど、気絶しててどうしたら良いかわかんねえって爺ちゃんが!」


 どうやら緊急事態のようですね。


「わかりました。ダグくんは火の始末をお願いします」


 わたしが火かき棒を手渡すと、ダグくんは大きく頷いてくれました。


「爺ちゃんはいつもの場所! オイラも後から行くから!」


「はい、頼みましたよ」


 そうしてわたしは勝手口を飛び出し、屋敷の裏門を抜けました。


 村の子は、みんな一度は遊びの延長でゴリバさんに釣りを教わります。


 わたしも幼い頃は教わっていたので、ゴリバさんの漁場はよく知っているのです。


 村人が山菜採りに使っている山道を抜ければ、漁場までは五分とかかりません。


 やがて木々が途切れて砂利浜のようになった川辺に出ると、ゴリバさんはすぐに見つかりました。


 くしゃくしゃの白髪に顔中を覆う白ヒゲ。けっこうなお歳なはずなのだけれど、漁で鍛えた身体は日焼けした逞しい筋肉に覆われていて、木こりのグラブさんにも負けていません。


「――おお、お嬢様っ! 待ってただぁ!」


 ゴリバさんもわたしに気づいて、手招きしました。


 彼の足元には、ずぶ濡れの男の人が横たわっています。


「これ、どうしたもんだべ?」


 駆け寄ったわたしに、ゴリバさんは困り顔で訊ねてきました。


 見たこともない質感の、革鎧にも似た質感の黒い衣装に身を包み、濡れた髪は朝日を浴びて鮮やかにきらめく赤毛です。


 かつて毎朝梳かさせて頂いていた、あの方を思い出しますね。


 特徴的なのは、顔の上半分を覆っている、狼にも似た黒い仮面。


 双眸に嵌め込まれた蒼い結晶が放つ波動で、どうやらこれが魔道器なのだとわかりました。


 紐で結わえているわけでもないのに、顔からずり落ちていない事からも、そうだとわかります。


 怪我をしてるようには見えませんから、足を滑らせるかして流されて来たのでしょうか?


 見るからに怪しい風体ですが……


「見殺しにはできません。とりあえず屋敷に運びましょう!」


 この人の髪の色が、あの方を彷彿させて、どうしても見殺しにはできないのです。


「わ、わがった。んだば、オラが背負うでお嬢様、手伝ってけろ」


「ありがとうございます!」


 ゴリバさんにお礼を言って、わたしは仮面の男性を抱え起こし、しゃがんだゴリバさんに背負わせました。


「山賊とかだと危ねえから、あどでダグさ言って、若い衆をお屋敷さ向かわせるな?」


 屋敷には、現在、わたししか住んでいませんからね。


 ゴリバさんの気遣いを嬉しく思います。


「じゃあ、その時におばば様の薬茶もお願いします」


 村の長老のひとり、シノおばば様は薬師です。


「ああ、んだな。ババの茶ぁ呑めば、イヤでも目覚めるべな」


「効きは良いんですけどねぇ」


 恐ろしく苦く、そしてキツイ匂いのする薬茶の味を思い出し、わたしとゴリバさんは苦笑します。


 そうして話している間にも、屋敷の裏門が見えてきました。

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