第5話 モンスターピアレント

 ゆいかは、宴会が終わると、今度は、

「滝が見える露天風呂がある」

 ということをきいたので、行ってみることにした。

 友達を誘ったが、

「怖そうなので、私はやめとくわ」

 というのであった。

 誘ってはみたが、本当は、

「一人で行ってみたい」

 という気持ちだったので、ゆいかの中では、何となく一安心という気持ちだったのだ。

 本当は、怖いところではないという話だったが、ゆいかが意識的に、

「その場所は怖いところであるかのような」

 そんな話し方をしたのだった。

 ゆいかは、

「一人になりたい」

 ということよりも、

「友達と離れて一人でいたい」

 ということの方が強かった。

 だから、そこに誰かがいても、それはそれでよかったのだ。

 しかも、この滝が見える露天風呂は、

「混浴だ」

 という。

 友達は、とにかく潔癖症なところがあるので、

「混浴など、もってのほか」

 と思っていたようだ。

 だから、もし、

「怖いところ」

 というのが通用しなければ、

「混浴なんだけど」

 といえば、最終的についてこないと思ったのだ。

 そこまで、この時のゆいかは、友達と離れて、自分がどんな心境になるのかということを考えてみたかったのだろう。

「その心境がどういうものなのか?」

 ということを自分で分かったわけではない。

 分かる分からないは別であるが、余計なことを考えずに、ゆっくりするには、

「友達の存在」

 というものが、邪魔だったといってもいいだろう。

 一人になったゆいかは、

「あの露天風呂は、他の露天風呂から比べても遠いので、夜は、あまり行かれる方はいませんね」

 ということを、女将さんからも聞いていたので、一人になるにはちょうどよかった。

「獣が出てきたりとか、怖くないですか?」

 と聞くと、

「それは大丈夫です。まわりから、動物が入ってこれないような仕掛けはしています」

 ということであった。

 ゆいかは、女将さんの話を信じて、それで行ってみることにしたのだった。

 時間的には、午後9時くらいだった。

 普段であれば、

「まだまだ宵の口」

 というくらいであった。

 都会に住んでいれば、これくらいの時間は、まだまだ明るいし、どうかすれば、電車も座れないほどの乗客であったり、道も、やっと、帰宅ラッシュが落ち着いたといえるくらいの時間なのではないか?

 と言われる時間だった。

 しかし、ゆいかは、数か月前まで、駅の階段から足を踏みはずして、数週間の入院を余儀なくされたことで、

「ちょうど病院だったら、消灯時間だわ」

 ということを思い出すのだった。

 消灯時間になっても、入院当初は、

「眠れるわけないわよね」

 と、なかなか、病院の時間に慣れるまでに、苦労があった。

 食事の時間も決まっていて、夜は、5時間には食事が出てくるというものだ。

 だから、夜中にお腹がすく。

 特に、病気というわけではなく、骨折した脚以外は、ほとんど、何もないのだ。

 そうなると、健康な胃袋で、年齢的にも、腹が減る世代なので、空腹は耐えられなかった。

 病院内の、売店で、売店が開いている間に、食料を購入し、密かに食べていることもあったのだ。

「身体は健康なのだから、しょうがない」

 と看護婦も、

「見て見ぬふり」

 というのをしてくれているという状況だった。

 それでも、その状態において、次第に慣れてきた。

 一週間もしないうちに、午後9時くらいになると、眠くなってくるというもので、

「私って、こんなに順応性が高かったのかしら?」

 と感じた。

「夜中に何かを食べたくなる」

 ということも減ってきた。

 一応、食料はキープしているのだが、

「お腹が減ったら、食べるものがある」

 ということを分かっているからなのか、安心していた。

「別に食べなければ食べないで、我慢できないということもなくなった」

 と思ったことで、眠気もしてくるのであろう。

 それを思うと、病院に入院している間の数週間は、病院のリズムに、しっかりと順応していたのだった。

 リハビリを経て、退院すると、少しの間、会社にもいかなかった。

「足手まといになる」

 ということを分かってもいたし、会社にも、焦っていくこともないと思っているのであった。

 ゆいかは、正直、この会社に未練があるわけではなかった。

「何も自分がいなくても、別に何かが変わるわけではない」

 ということを考えるようになったからだった。

 だが、それでも、会社にいるのは、

「気心知れた友達。そう、今回一緒にいる友達がいるからだった」

 彼女とは、同期入社で、部署は違ったが、相談事があると、遠慮なく話ができる相手だったのだ。

 どちらかというと、相手の相談の方が多かった。

 そして、その内容の深さも、彼女の方が、深刻だったといってもいいだろう。

 そんな彼女であったが、最近、相談事が減ってきた。

 最初は分からなかったが、どうやら、

「彼氏ができた」

 というのが、その理由のようだった。

「男ができると。ここまで、男優先になるものなのか?」

 というほとに、会う機会が激減した。

 自分と遭っている時間があれば、

「彼氏と一緒にいる」

 と言わんばかりのあからさまな変わりようだった。

 今まで、彼氏というものがいたことのないゆいかだったので、

「なんだかなぁ」

 と、友達の急変に、少し寂しさはあったが、それは、自分に彼氏がいないということの現れだということに気付くまで、少し時間がかかったのだった。

「私、彼氏がいようがいまいが、関係ない」

 と思っていたのは、

「友達も彼氏がいないんだから、彼氏がいないもの同士、一緒にいれば、それでいいんだ」

 と考えていたからだった。

 しかし、完全に、

「抜け駆けされた」

 と思ったゆいかだったが、たまに会う時は、彼氏の話題に触れることなく、いつもの彼女でいることで、

「彼女は、天真爛漫で、やはり、一番はこの私なんだ」

 と思わせるように感じた。

 そのおかげで、それまでの、

「自分はハブられている」

 というような感覚は次第になくなってきたかのように思えてきたのだった。

 だから、今度は、

「私が悪いことをしたんじゃないか」

 と思い、

「今回の旅行では、なるべく一緒にいたい」

 と感じたのだ。

 その思いが彼女にも分かったのか、気持ちが通じるという感覚だったのだ。

 それを考えると、

「私は、一人ではない」

 と思うことができたのはよかった。

 しかし、そう感じた心の裏には、

「私には、彼氏がいないんだ」

 という感覚がこみあげてくるのを、妨げることはできなかった。

「今すぐにでも、彼氏がほしい」

 というわけではない。

 できたらできたで、

「どんな心境になるのだろう?」

 と感じるのは、何か怖い気がしたのだ。

 だから、今回の旅行でも、

「彼女と一緒にいない時間というのも作って、自分の本来の気持ちがどこにあるのか?」

 ということを知りたいと思ったのだった。

「彼女には、どこまでその思いを感じさせるのか?」

 と、まるで、もう一人の自分が、自分というものを見ているかのような感覚になっていた。

「これこそ、まるで夢を見ているかのようじゃないか?」

 と思うのだった。

「夢というのは、主人公として、演じている自分を、それを観客としてスクリーンを見ている自分の二人が祖納する」

 と思っている。

 演じている自分は、主人公であって、わき役がたくさんいるのは分かるが、

「実際に見ている自分は、一人でいろというのだろうか?」

 と感じるのだ。

 というのも、

「目はスクリーンに釘付けになっていて、目を逸らせば、すぐに夢から覚めてしまうのではないか?」

 と感じるからであった。

 目が覚めてしまっては、本末転倒。

「まわりに誰がいるかなんて、考えると目が覚める」

 ということになるのだろう。

 ということであった。

 そんなことを考えながら、ゆいかは、いよいよ、滝のある温泉に行くのだった。

 少し足元がぬるぬるしているのを感じると、

「夜は、年配の人には厳しいかな?」

 と考えた。

 そういう意味で、

「上司は決してこないだろうな?」

 と考えると、安心感が膨らんできた。

 ただ、

「誰も本当にいないと、寂しいかも知れない」

 という思いもあるのも一つの思いだというのも、本当の気持ちであった。

 「やっぱり、彼氏がほしいという気持ちは強いのかしらね」

 と考えていた。

 それは、もちろんそうであろう。

 その人を好きになれるかどうかというのは、今まで交際経験がないことから、一番に気にすることだった。

 それは、

「自分のことを好きになってくれるか?」

 ということよりも強い気がした。

 なぜなら、

「まずは、自分から好きになる」

 ということが恋愛だという風に思っているからであり、もし、

「相手から先に好きになられると、そこには、今までに感じたことのない、有頂天な気持ちというものが出てくるのではないか?」

 と感じるからではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「私は、好かれてみたいという気持ちの方が、本当は強いのかも知れない」

 と思った。

 普段は、

「謙虚だ」 

 と思っていたゆいかであったが、実際には、

「自己主張をなるべくしたい」

 と感じているのではないかと思うのだった。

 自己主張というのは、

「あまりいいものではない」

 と感じているからであり、何をどう考えればいいのかを考えるには、今回はちょうどいいのではないかと思うのだった。

 温泉mで行くと、誰かが入っているのを感じた。

 よく見ると、男性のようだったので、一瞬だけ躊躇したが、元々混浴と分かっていてきたのだから、問題はないだろう。

 宿の人も、何らかの注意喚起もなかったので、今まで問題があったわけではないと思うと、

「大丈夫だ」

 と自分に言い聞かせて、ただ、

「自分の中での注意」

 だけをしておくことにしたのだった。

 脱衣場は、簡素に作ってあるが、それだけに、混浴でも当たり前だという気がして、気が楽だった。

 混浴というところは、初めてだったが、タオルを巻いてのことなのでいいだろう。

 温泉で、タオルをつけるのはいけないことだと言われているが、混浴であれば、それは仕方がない。中には、水着を付けているというくらいの人もいるかも知れない。

 ゆいかは、そこまでは考えていない。なぜなら、

「そこまでするくらいなら、混浴には入らない」

 と思っている。

 特に、温泉のような温かいところで、タオル以外の何かを身に着けているとうのは、気持ち悪いと思うからだった。

 実際には、水着自体もあまり好きではない。

 小学生の頃から、水泳は苦手だったし、海水浴も、

「潮風が苦手」

 ということで、嫌だった。

 特に、海水浴に家族で行ったりすると、いつも、翌日に熱を出していた。

 海水浴が原因ではなく、

「たまたまだ」

 ということであっても、それは、

「トラウマと化す」

 といってもいいレベルの問題で、実際に、トラウマとなっていた。

 それをまわりの人も誰も気付かってくれなかった。

 肝心の親も気にしていない様子で、毎年のように、海水浴に連れていかれたものだった。

 そういう意味で、

「親も嫌いだ」

 と思うようになっていた。

「本当であれば、親が気づくはずだ」

 ということは、小学生の頃には分からなかった。

 親が気づかずに、強引に連れていくことに関しては、

「毎回熱が出ているのを分からないんだ」

 ということで諦めてはいたが、その分、

「親なんてそんなものだ」

 ということで、親に対しての、感情など、ないに等しかったといってもいいだろう。

 そんなことを感じていると、

「一人で孤独がいい」

 と感じるようになっていたようだった。

 実際に、

「孤独がいい」

 と感じるようになったのは、もっと成長してからであったが、その前提としての感情が芽生えたのは、小学生の頃だったのだろう。

 普通に考えれば、

「そんなことは当たり前だ」

 と思うのだ。

「デリカシーもないくせに、家族だからなどという理不尽で何の説得力もない話に、よくもまあ、それを当たり前のことだと思うなんて、どうかしている」

 と感じていた。

 だから、最初は、

「親なんてそんなものだ」

 と思っていたが、中学、高校生になってくると、進路の問題であったり、

「未成年者に対しての、法定代理人」

 つまりは、

「親権者」

 としての、立場が問題になってくる。

「親だから」

 ということで、ゆいかの時代は許されていた。

 今であれば、

「虐待」

 という問題があることで、いくら、

「保護者」

 という名の、

「親権者」

 であっても、児童相談所や、自治体などが、

「とんでもない親」

 というものから、保護するということも実際にあるのであった。

 それは、しかし、一部であり、実際には、

「児童相談所と自治体の不手際:

 というものから、間に合わず、

「虐待によって、児童が殺されてしまう」

 という悲劇は、日常茶飯事であった。

 そんな状態において、

「虐待」

 ということが問題になっているので、

「警察の介入もやむなし」

 ということにならないのだろうか?

 児童相談所や自治体の、

「つまらない意地やプライド」

 で、後手後手に回ることで、大切な命が奪われるというのは、本当にいいことなのだろうか?」

 本来であれば、子供と大人を切り離し、

「そんなひどい親」

 最近では、

「モンスターピアレント」

 という言葉のような、まさにそんな状態になっているのだ。

 そんな親は、まず、精神鑑定を行い、

「精神疾患だ」

 ということであれば、隔離して、治療を行わないといけないだろう。

 そんな人間を野放しにするとどうなるか?

 ということは、小学生にだって分かりそうなものである。

 そして、

「正常で、犯罪者として判断能力がある」

 ということになれば、

「それなりの法律によって、裁かれることになる」

 ということだ。

 そうなると、どちらにしても、

「親権のはく奪」

 は当たり前のことで、

「一人の人間として、一人の人間に犯罪行為を働いた」

 ということになるのだ。

 昔であれば、

「尊厳犯罪」

 というようなものがあり、

「肉親が犯した犯罪は、さらに強い罪に処せられる」

 というものがあった。

 それは、例えば、

「親が子供を」

「子供が親を」

 殺したなどということであれば、昔だったら、

「よくて、無期懲役、悪くて死刑」

 と言われていたのであった。

 今では、

「法の下の平等」

 という観点から、

「それはおかしい」

 ということになり、刑法から削除されたが、年配の人は、いまだに、

「その法律が生きている」

 と思っている人は多いだろう。

 それを考えると、

「私の親は、本当に昔人間だったんだ」

 ということを感じた。

 今の時代ほどひどくはないが、

「親の威厳」

 というものをひけらかしていたことに違いない。

 実際に、昔の親には、口でいうだけの権威のようなものが備わっていた。

 しかし、今は親が頼りなくなっているのは間違いないし、さらに子供が、意見を主張するようになっていることから、親の立場が失墜しているのが、普通のことになってしまった。

 しかし、親の中には、

「自分が親になった時、自分が受けてきた仕打ちを、今度は自分の子供に」

 ということで、

「モンスターに変わってしまう」

 という親が増えたことだろう。

 昔の、

「オオカミ男」

 の話ではないが、

「月を見ると、モンスターに変わってしまう」

 ということで、それがオオカミだったということで、

「オオカミ男」

 と言われるようになったのだろう。

 そんな親への反発は、静かに燃えるものであった。

 まわりから見れば、

「何かおかしな家族関係だ」

 とは思っていただろう。

 しかし、家ではまったく口も利かず、どちらかというと、

「にらみ合っている」

 ということで、一触即発の様相を呈していたのだ。

 だから、二人とも、

「意地の張り合い」

 であり、

「意地を張ることで、自分の主張を示しているつもりでいるが、実際に相手に通じていない」

 といえるだろう。

「つまりは、どっちもどっちなのだ」

 ということを、大学生になって、ゆいかは感じた。

「高校を卒業したら、就職して、一人暮らしを始めよう」

 と思っていたが、父親が、高校2年生の時に、亡くなった。

 母親が、

「保険金があるから、大学くらい出ておきなさい」

 と言われたが、さすがにこの年齢になって、

「いまさら、大学受験はきついので、専門学校くらい」

 ということで、

「情報処理の学校」

 に行ったのだった。


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