第4話 石ころのような男性

 その男性が、チェックインしたことを、ゆいかも、友達も知らなかった。

 もっといえば、会社の人の誰も知らなかったといってもいいだろう。

 だが、誰にも見られていなかったわけではない。ロビーでチェックインしている時も、会社の誰かが見ていたはずだ。宿の人も、意識があったのだろうが、今度は、宿の人は、そんなにその人を意識しないようになった。

 どちらかというと、

「団体客の中の一人だ」

 と感じていたことだろう。

 これは、イソップ寓話の、

「卑怯なコウモリ」

 という話に似ている。

 この話は、

「獣と鳥が戦争をしているとことがあって、そこに通りかかったコウモリの話」

 である。

 その時コウモリは、

「鳥に向かっては、自分には羽根が生えているから、鳥だといい」

 そして、

「獣に向かっては。自分の身体には体毛が多いから、獣だ」

 といって、逃げ回っていたというのだ。

 確かに、そう言われれば、そうである。

 ただ、このコウモリの話は、

「目立たないわけではない」

 逆に目立っているところを逆手に取ったやり方なので、動物の本能の中にある。

「保護色」

 であったり、

「身体に毒性を持っている」

 などという、そういうものではない。

 そんな、

「卑怯なコウモリ」

 であったり、それ以外の

「保護色」

 などと違い、

「作為的なのか、無作為なのか分からないが、気配を消している」

 というものもある。

 それは、いわゆる、

「石ころのような存在」

 というものだ。

 この石ころというのは、

「人に見られているのに、誰からも気にされない」

 つまりは、気配を消しているという感覚である。

 だから、目の前にいても、誰も気にしない。

「河原にある石の一つのようなものだ」

 ということだ。

 どちらにしても、

「相手に、意識させない」

 ということでは、その効は絶大で、それは、無意識にも見えるが、意識的なものもあるだろう。

 もっとも、石というのは、生物ではないので、意識も何もないのだろうが、それだけに、

「気配を消す」

 ということができるということは、

「逆に何かが宿っている」

 といってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「石ころ」

 と、

「卑怯なコウモリ」

 というのは、

「似て非なるものだ」

 といってもいいだろう。

 この時、チャックインした男性の名前は、

「秋月昭文」

 という。

 彼は、一人旅であったが、

「いかにも一人旅が似合いそうな男性」

 であった。

「この人に、連れがあるなどというと、却って気持ち悪いわね」

 と、仲居さんたちの話であった。

「そんな、人の陰口を叩くものじゃない」

 と、仲居頭の人に言われたが、実際に仲居頭も気になっていた。

「そうよね。でも、あの人は、少し気を付けておいた方がいいかもね?」

 といって、逆の意味で、釘を指すのだった。

 他の仲居さんたちも、

「こういう時にどうすればいいのか?」

 ということは分かっているので、何も言わないでいるのであった。

 仲居さんたちだけが、その男を気にしていた。

 それは、やはり、

「商売上」

 ということでの意識であって、それ以上でも、それ以下でもなかった。

 だが、その男性のことが何となくであるが、木にしたのは、他でもない、

「ゆいか」

 だったのだ。

 彼女は、動物に癒される温泉から出た時、ロビーでちょうど、チェックインするその男を見たのだ。

「どうしてその男が気になったのか?」

 というと、

「どこかで見たことがあったような気がする」

 と感じたからであった。

 それがいつのことだったのかも分からない。

 しかも、それが気になってくると、どんどん、意識が薄れてくるのを感じたのだ。

「何か、反対の意識のようだ」

 という不思議な感覚だったのだ。

 だから、どこかで見たという、その

「どこか」

 というのは、

「現実のことだった」

 というのか、

「夢うつつだったのか?」

 というのか。

「本当の夢の中だったのか?」

 というのか、そのどれでもないかのようにさえ思えるくらいだった。

「こういうのを、デジャブ」

 というのかしら?

 と思った。

 デジャブというのは、ハッキリと、どういうものなのかというのは分からない。

「科学的に正確に証明がなされていない」

 ということからなのであろう。

 ただ、それを正確にどういえばいいのかということになると、

「もし、理屈が分かっている学者がいたとしても、説明を理論的にできるかどうか?」

 と言われれば難しいに違いない。

 デジャブというものを。ゆいかは、自分なりに、

「辻褄合わせのようなものだ」

 と思っている。

 辻褄合わせというのは、理屈として、

「以前に見たことがある、行ったことがある」

 と考えることが終点ではなく、そう考えたのには、何かその後で自分に起きることなのではないかと思うのだった。

 だから、

「見たり聞いたりしたと思っていることが、まるで、予知能力の表れだ」

 と思えば、こちらの中での

「辻褄が合う」

 というものだ。

「人間というものは、自分の中の能力の、10パーセントほどしか使ってない」

 という。

 それは、

「脳の中における力」

 ということで、奇しくも、

「能の力」

 である、

「能力」

 と、

「脳の力」

 である、

「脳力」

 というものを合わせて考えると、意外と、

「デジャブというのも、理解できないこともないのかも知れない」

 ということだが、

「これを口で説明せよ」

 と言われると、難しいことになるのであろう。

 確かに口で説明するには、相手の理解力の問題もあるので、

「どこまで科学的なことに、造詣が深いか?」

 ということになる。

 科学的なこととして、SF小説であっても、いいと思っている。

 つまり、実際に、完璧に説明できることというのは、ハッキリとしていないのだ。

 中には、

「精神的な疾患だ」

 ということで、その疾患がいかなるものなのかということも証明されていないことで、無理やり、精神疾患として、診断をし、

「合うかどうか分からない」

 というような薬を投与されないとも限らない。

 今は、そのような精神疾患を持っている人はたくさんいるので、問題になるような誤診が起これば、そこは結構騒がれることになるだろう。

 それを考えると、精神科の医者というのも結構対応が難しい。

 昔のように、何でもかんでも、精神疾患患者で重症の人は、

「監獄のような檻のついた独房に入れられる」

 というようなことがあってはいけないだろう。

 昔の病院を知っている人は、

「サナトリウム」

 という表現を使うだろう。

 以前、

「奇妙なお話」

 という感じの、ホラーなのか、オカルトなのかというお話の中で、

「サナトリウム」

 というのが出てきて、その時代もハッキリとはしないので、それがその時の、

「現代」

 なのか、実際に、

「結核病棟」

 として、まだまだ現役だったサナトリウムなのか分からないが、そんな施設を、

「精神病患者」

 としての、まるで、

「隔離病棟」

 としていたのだ。

 元々、結核患者に、

「サナトリウム」

 というのを作ったのは、

「結核というのが、伝染病」

 だったからである。

 しかも、結核というと、

「特効薬がない時代」

 で、長らく、

「不治の病」

 として恐れられていたものだ。

 何と言っても、それまで普通に話をしていた人が、いきなり、

「吐血する」

 というのである。

 その症状は、毒が身体に回って死ぬというのと非常によく似ているので、最初は

「結核なのか、毒によるものなのか?」

 ということが分からなかっただろう。

 確かに、毒であれば、

「もうこの時点で、死は時間の問題だ」

 ということになる。

 しかし、結核だと診断されたとしても、

「不治の病」

 なのだから、冷静になって考えれば、

「助かる命ではない」

 ということになるのだ。

「余命が半年か一年か?」

 というだけの違いで、特効薬ができるまでは、本当に

「死の病だった」

 といってもいいだろう。

 今では、

「ストレプトマイシン」

 を最初として、特効薬もいろいろある。

「結核というと、治る病気ということで、手術をしなくとも、投薬で治る」

 というところまで来ているのだ。

 そう考えると、ストレプトマイシンなどの発揮縁は素晴らしい」

 といえるのではないだろうか?

 そんなサナトリウムのようなものが、夢に出てきたかのように感じた、ゆいかであったが、目が覚めるにしたがって、

「ああ、夢だったんだ」

 と思い、覚えていない夢だとは思ったが、

「楽しい夢だった」

 とは思わなかった。

 だから、

「思い出そう」

 と考えると、そこで浮かんできたのが、

「サナトリウム」

 だったのだ。

 サナトリウムの夢は、

「最近見たことがあるような気がする」

 と感じたことで、これが、デジャブではないかと思うと、目が覚めるまでに、結構いろいろと考えていたように思えたのだった。

 サナトリウムというのをテレビで見たと感じると。

「自分が、見たテレビの内容を、もう一度見ることになる」

 という、根拠のない思いが頭に浮かんできた。

 最近では、テレビで、

「再放送」

 というのがあまりなくなってきた。

 そもそも、

「ドラマ」

 というのも、あまりあるわけではなく、秋や春の、

「特別番組」

 ということで放送されることがほとんどであった。

 一定のドラマ枠はあるが、昔のように、

「1時間番組」

 や、

「2時間サスペンス」

 のようなものが姿を消し、

「30分番組」

 として、しかも、深夜枠で放送されることが多かった。

 それに、以前は、

「原作というと、小説」

 であったのだが、最近では、

「人気コミック」

 であったり、

「ネットで話題のネット小説」

 と呼ばれるものばかりになったのだ。

 ただ、昔からの

「脚本家オリジナル作品」

 も一定数ある。

 しかし、90年代の、ブームであった。

「トレンディドラマ」

 と言われた、売れっ子尾脚本家数名が、引っ張りだこのようになって、脚本を書いていた時代は、今は昔である。

 あの頃は、

「トレンディ俳優」

 ということで、数人の男優であったり、女優が、人気で、こちらも、各放送局から、引っ張りだこだったのだ。

 そんな時代は、

「ゴールデンといえば、ドラマ枠でひしめいていた」

 という時代だった。

 当時は、

「野球枠」

 というものがあり、延長になったりして、

「せっかくビデオをセットしておいたのに」

 ということがないように、ビデオも、

「30分延長枠」

 という仕掛けを作り、

「30分だけ延長しても、最後まで入るようにしていた」

 というのだ。

 今のレコーダーと違い、当時のビデオ予約は、

「チャンネルを設定し、その後に、開始時間と終了時間を設定するということであったので、最初から30分延長させている人もいただろう」

 と思う。

 しかし、その後に、

「番組を直接録画する、Gコード予約」

 というものにしておくと、たぶん、

「放送局の都合で延長になった」

 という、ギリギリのところでは、どうしようもなかったのだろう。

 そんなことを、自分たちよりも前の世代の人はしていたんだろうと思うのだった。

 そんなトレンディドラマが、ある意味、

「テレビの絶頂期だった」

 といえるかも知れない。

 前述の、

「野球の30分延長問題」

 というのがあったが、これは、ドラマを見る側というよりも、野球を見る方としても、イライラものだった。

 なぜなら、

「30分延長では終わらない」

 ということがあったからだ。

 しかも、

「テレビ放送をするのは、地元の球団ではなく、視聴率が取れる、別に強くもなくとも、人気があるだけのチームを贔屓するかのように放映していた」

 ということが問題だった。

 女、子供の、

「あまり野球を知らない人は、そのチームしか知らないということで、贔屓をすることになる」

 しかし、時代は、

「地元に根付いた球団経営」

 ということで、以前では、

「東京、大阪」

 という二大都市の近くに球団が集中していたのだが、次第に、九州、東北、さらには、北海道にも、

「おらが町の球団」

 というものが増えてきた。

 これは、

「サッカーのプロ化」

 ということで、

「Jリーグ」

 というものが開幕したことにも影響があるかも知れない。

「サッカーチームは、親会社の利益よりも、世界に通用する選手の育成と、地域に根差したクラブチームの経営を目指す」

 とかいうような形で、生まれ、数年は、かなりの人気があったものだ。

 初年度などは、チケットというと、

「プラチナチケット」

 と呼ばれ、そのチケットの問題で。

「殺人事件」

 というのまで発生したくらいだった。

 そういう意味で、プロ野球もサッカーも、

「地元のチーム」

 として脚光を浴びるのだが、テレビ局は相変わらずだった。

 そこで、出てきたのが、

「衛星放送」

 における、

「贔屓チームのチャンネル化」

 というものだった。

「月額1000円以下で、ひいきチームのフランチャイズでの試合を、試合開始から終了まで漏らさずに放送する」

 というものであった。

 それも、試合開始前から、選手のインタビィーであったり、球場の案内であったり、

「ファンのためになるコマーシャル」

 のような放送を行い、試合終了後も、

「ヒーローインタビュー」

 はもちろん、

「勝利のセレモニー」

 であったり、試合のハイライトなども、しっかり放送するのだ。

 ファンとしては、これほどありがたいものはない。

 そうなると、民法の、

「視聴率が取れるだけのひいきチームしか放送しない」

 というやり方がバカバカしくなり、

「誰が民放など見るか?」

 ということになるのだ。

 実際に、

「ドラマ専用」

「昔の映画などの専用」

 というチャンネルに登録しておけば、

「見たくもないが、それしかない」

 という民放を見る必要などない。

 というものだ。

 それを考えると、

「ドラマも、野球も、ゴールデンからなくなった」

 という民放が何をやっているかというと、

「芸人タレントが出てきて、旅行に行ったり、バラエティ豊かだが、教養が出るというわけでもないクイズ番組をしたりして、そこに、人気俳優をゲストで招けば、少しは視聴率が取れるというものだ」

 極めつけが、情報番組である。

「売れなくなったタレントをコメンテイターとして使って、ネットで炎上するようなことを言わせるような番組を作る」

 というのだから、

「放送界というのも、地に落ちた」

 といってもいいかも知れない。

 そんなことをいろいろ考えていたのだが、宴会も気付けばたけなわになっていた。

 実際に、

「いつ始まったのか?」

 と思うほどで、始まったという意識はあるのだが、いつから始まって、今どのような状態なのかというのが、自分で定かではなかったのだ。

「宴会というと、もっと分かりやすいものだと思っていたのにな」

 と考えたが、宴会というと、どうしても、忘年会のイメージがある。

 忘年会というと、華僑なのは、11月くらいで、

「これから、繁忙期に入って忙しくなるので、その前に一年の労をねぎらっての忘年会を行う」

 ということだったのだ。

 そんな状態での忘年会というと、

「また、これから大変な時期がやってきた」

 ということで、できることなら、

「最後の打ち上げ」

 ということで、忘年会を催してくれるのであれば、まだいいと思うのだ。

 しかし、人間というのは不思議なもので、そうなったら、そうなったで、テンションが下がってしまう。

 というのも、

「せっかく年末の最後の仕事が終わったのだから、そこからは、一刻も早く会社を離れて、自分の時間を作りたい」

 と思うのだ。

 限られた、

「年末年始の休み」

 というものを、会社の行事である、

「忘年会」

 などで、茶を濁したくないと思うのであった。

 そういう意味で、正直、

「忘年会など、慰安でも何でもない」

 と思っている。

 まだ、昔の人の話のような、

「俺の酒が飲めんのか?」

 というようなことがない分、まだマシだといえるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「嫌なら行かなくてもいいんじゃないか?」

 ともいえる。

 中には、

「強制ではない」

 ということで、行かないという人も多かったりする。

 言ったとしても、酒が苦手な人であったり、車で来る人は当然、飲酒できないので、ある意味、

「呑まなくてもいい作戦」

 ということで、わざと車で来る人もいる。

 これは、上司からすれば、

「あかあらさまな上司への批判」

 であり、部下はそんなつもりはなくとも、却ってそう思われるという、弊害だってないとはいえない。

 確かに、今の時代は、

「コンプライアンス違反には厳しくなっては来ているが、だからといって、ブラック企業が姿を消すということはなく、下手をすると、もっとひどくなっているのかも知れない」

 といえるだろう。

 下手をすると、

「相手が変わっただけ」

 といういじめ問題と同じで、ターゲットを変えただけの、一種の、

「いたちごっこだ」

 といってもいいだろう。

 それだけ、

「上下の関係も複雑になり、関係性が難しくもなってきた」

 といえるのだろう。

 そんな問題がある中で、男は、女将に話したところによると、

「仕事は適当ですよ」

 と話したという。

 ただ、気さくな性格ではあるようだが、相手を選んで話をするということのようだ。

 嫌いな人間というのは、人それぞれに、一人はいても、不思議はない。

 だが、彼に関していえば、

「一定数の嫌いな人はいる」

 といっていた。

 特に、会社で話をする人は好きにはなれないということであった。

「皆、コンプライアンスに怯えて、パワハラ、セクハラは、少なくなったようだけど、影で、何も言えない人をターゲットにして苛めていることがあるんですよ」

 と言った。

 それこそ、

「闇」

 と呼ばれるもので、本当は笑い事ではないと本人は言いながら、

「病みが闇に引っかかる」

 といって、笑っていた。

 その表情は引きつっていて、心底笑っているわけではない。

 女将はそれを分かっていて、同じように、引きつって笑っていた。それが、返す返事としては、正解だと思っていたのだ。

 秋月という男は、会社では、システム関係の仕事をしているという。

「本当なら、もっと機密の部署で働けば、出世もできるんだろうけど、自分から、出世は望まずに、システムといっても、

「それぞれの部署のシステムを開発する」

 というような、そんな仕事をしていたのだ。

 以前は、

「アウトソーシング」

 のようなことをしていたようだが、

「内部で開発できる人がいないと、何かあった時に、即座の対応が遅くなる」

 ということで、このような部署が新設されたのだという。

 そもそもであれば、アウトソーシングでも、よかったのだが、例の、

「世界的なパンデミック」

 のせいで、

「テレワーク」

 が多くなったことで、事務所に詰めてるわけではなく、自宅から直接赴くということになってから、会社がかなり遠くなったのだ。

 しかみ、彼の会社は、夜間も稼働しているので、夜間にトラブルがあると、致命的な問題になりかねない。

 しかも、仕事内容が、

「加盟店のシステム開発を請け負っている会社なので、その保守を行う必要がある」

 ということになるのだ。

 そのため、機械トラブルがあれば、即行で対応することになるので、そのため、実際に、このパンデミックの機関というのは、

「数回、いや、年間で数回のトラブルが発生し、その都度、賠償金問題が発生していた:」

 というのだ。

 しかも、これが続くようであれば、

「システム関係の会社を他に変える」

 とまで言われていた。

 会社にとっての一番の得意先である、この加盟店から切られると、

「会社の存続問題となりかねない」

 というところであった。

 それを考えると、

「フットワークが軽そうな社員を数名、必要とする」

 ということで、数名が、システム開発から、そちらの、

「保守に回る」

 ということになったのだ。

「一人でできる」

 ということで、自分から立候補した。

「もし、できない時は、自分の判断で、メーカー保守を呼んでいい」

 ということだったので、引き受けたのだった。

 そんな彼は、最近の仕事にいろいろと疑問を持つようになった。

 会社というよりも、仕事に対してであり。

「自分でなくてもいいのではないか?」

 という思いが強かった。

 本当は彼としては、

「開発の仕事」

 の方がよかったのだが、少し身体の怖し、病院に行くと、

「これは精神的なものから来ている可能性が高い」

 ということで、精神科の病院で診察を受けてみると、何やら、難しい名前の精神疾患だった。

「体調が悪いというよりも、やる気が出なかったり、人と絡むことを嫌に感じるというのは、その病気のせいです。その病気は薬の登用は不可欠なので、お出しする薬は必ず、服用してください」

 ということだった。

「あなたも場合はまだ軽いので、お仕事もできますが、ひどい人は、仕事もできずに、障害者年金で生活する人もたくさんいるですよ」

 ということであった。

 そして、もう一つ言われたのが、

「どうしても、薬ですから、副作用も起こりやすいです。もし、薬を飲み始めて、何か今までになかったことが起これば、服用をやめず、私に相談してください。場合によっては、薬の種類を変える必要があるかも知れませんからね」

 ということであった。

 そういわれて呑み始めた薬だったが、案の定少し副作用があった。

「とにかく、薬を飲んで、一時間もしないうちに、眠くて仕方がなくなり、仕事どころではなくなってしまうんですよ」

 といって相談にいくと。

「わかりました。薬を変えましょう」

 ということになった。

「それに、最近は、人といるのが億劫になり、一人でいることが多くなったんですよ。ほんとは人といることも嫌いではないんですが、これも病気の影響で消火?」

 と聞くと、

「そうですね、それが、病気の本来の反応ですね。とりあえずは、今の心境に逆らうことなく、一人がいいと思っているのであれば、そうすればいいですよ。たぶん、今の感覚は鬱状態なのではないかと思うので、何をするにしても、身体が重かったり、何もしたくない。あるいは、何もできないという状況に陥っても、無理もないことですからね」

 ということであった。

 会社には、精神科に通っていることは言っていない。

 それは、彼のプライドというものもあるが、

「謂れのない差別」

 と受けるのが嫌だった。

 というのは、

「もし、自分が逆の立場だったら、まわりに精神病の人がいると、鬱陶しいと思わないとは限らない」

 と思ったからだ。

「差別をしてはいけない」

 と思いながら、チームで仕事をしているのであれば、足を引っ張るやつに、いくら病気であっても許せない気持ちになるというものだ。

「病気だったら、最初から、それなりの仕事をしろってんだ」

 と考えるに違いない。

 それを思うと、

「仕事なんか」

 と考えるのだ。

 確かに、

「仕事ができる状況なのか?」

 ということになると、

「正直、自信がない」

 特に、

「あなたは、精神病」

 と言われてしまうと、ショックが大きい、

 特にそれを先生からの宣告であれば、たまったものではない。

 ショックというのは、

「仕事がまともにできなくなるのではないか?」

 という思いであったり、

「人から謂れのない差別を受ける」

 ということが溜まったものではない。

 ということ。

 さらに、

「自分で自分を嫌になるのではないか?」

 という思いであった。

 最初の二つは、仕方がないことであり、

「他力本願」

 でしかないかも知れないが、最後の一つはそういうわけにはいかない

 自分を嫌になることは、何とか抑えられそうな気がするのだが、実はこれが一番難しいようだった。

 というのも、

「考えれば考えるほど、きつくなるのだった」

 鬱状態というのは、

「自分の意識を強く持てば持つほど、自分の意思とは正反対の結果になってしまうことで、自信喪失を加速させてしまう」

 ということになるのだった。

 それを思うと、

「俺が、こんな精神疾患になった原因というのは何なのだろう?」

 と考えるのだ。

「病気なんだから、しかも、これが精神疾患となると、自分でも分かりそうな何かがあるはずだ」

 と考える。

 しかも、それは、まわりの人に分かるものではなく、先生にも分からない気がしていた。

「もし、分かるとすれば、催眠療法でもして、俺の潜在意識か何かに訴えなければいけないんだろうな」

 ということであった。

 そんな精神疾患を感じるようになって、実はしばらくは本人にも分かっていなかったのだが、

「石ころのように、存在感を消すことができるようになったのかも知れない」

 ということであった。

 これは、きっと、潜在意識のなせるわざであり、やはり、

「夢うつつの中にいる」

 ということなのかも知れない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る