終章 果ての民

1.砂嵐

 ひときわ強い風に揺さぶられて、おれは意識を取り戻した。砂嵐の中を長いこと這い進んでいるうちに、気が遠くなっていたらしい。

 荷物はとうに飛ばされ、水も尽きた。方角も時間の感覚もとっくに失くしている。とにかくただ、風上へ向かってじりじりと進み続けていた。なぜならこの風は、おれを世界の果てに寄せ付けまいとして吹いているからだ。


 ここは西方大陸のはずれ、かつてオリフォンテが越えてきたという西の果てとおぼしき場所だ。この数年、おれは世界の果てを目指してあちこちに足を伸ばしたが、東南北いずれも到達は叶わなかった。世界地図の端っこまでいくと大体大嵐だの雪嵐だので阻まれ、断念せざるを得なかった。この地が最後の挑戦というわけだ。


 風は轟々と吹きすさび、目と耳を役立たずにさせた。体まで持っていかれそうな風圧に耐えて分け入るように腕を伸ばし、地をつかんでは前へ体を送る。幾度目か、急に腕に抵抗がなくなった。まるで真綿に包まれたように感触がない。同時にまた朦朧としてきた。気を失う前兆だ――と思った瞬間、おれはいきなり後ろに引き戻された。

 伸ばしていた左腕の先がなくなっていたように見えたが、はっきりと認識する間もなくやっぱりおれは気を失った。


* * *


 棕櫚しゅろの葉陰からちらちらと日差しが見え隠れしている。ここは、おれの実家――ユーシェッドの屋敷の裏庭だ。その中央にしつらえた池の縁に、いつの間にか腰掛けていた。目線を落とせば、左腕はちゃんとあった。

 おれは、ぼんやりと辺りを眺めた。風が穏やかに庭木や草を揺らし、池のおもてに波紋を作っている。絶え間なくさーさーと聞こえるのは、池から後ろの水路へと流れ出る水音か。


 懐かしい光景だ。おれにとっては、もう記憶の中でしか訪れることのない場所だ。おれがここにいるんなら、当然隣には――


『久しぶりね』


 予想通り、傍らに姉上が腰を下ろしていた。おれが年を食ったのと同じだけ姉上も年を経ていたが、凛とした横顔の美しさは相変わらずだった。乱れなく結い上げられた髪や、最も高貴な身分を示す意匠が散りばめられた服はいつかのパレードで見たのと同じもので、すっかり堂々とした王家の一員ぜんとしてた。


『…おう。姉上も、元気かよ?』

『ええ、みんな元気よ』

『そいつは良かった』


 おれが商館長代理を辞めて王都を離れてからは、姉上とはこうして言葉を交わすほど近くにまみえたことはなかった。時たま、どっかの地方で巡幸中の馬車を遠目に見るぐらいがせいぜいだ。

 だいたい、会わなくたって王族のニュースは世間が教えてくれる。


『ああそうだ、今頃で悪いがお祝いさせてくれ。姉上の二人目の子は…ええと、シャーロットだったか。あと、その次の双子…』

『デイヴィッドとエステルね』

『そう、そいつら。子宝に恵まれたな。めでたいことだぜ』


 アーノルドが、一人っ子は何かとプレッシャーがきついからぜひきょうだいを増やしたいと言って頑張った結果だ。


『ありがとう』


 姉上ははにかむように、でも嬉しそうに微笑んだ。いい表情だ。こんな表情ができるようになったのもまた、アーノルドのおかげだな。


『あなたはずっと音沙汰なしね』

『おれが筆マメなわけねえだろ。それに、何やってたかなら知ってるだろ』

『ええ、そうね。あなたはこの数年、本当に様々な冒険をしてたわね』


 姉上はうなずくと、内容をつらつらと数え上げた。


『奴隷商人に売られた娘をその弟とともに救い出したり、快速船レースに出て密輸を暴いたり、新街道を荒らしてた盗賊団を潰したり、小国の家出王子を拾ったり、盗まれた機密文書を偶然手に入れたのにパーにして国家間の緊張を高めたり収めたり』

『そんなに色々やったのか。まとめて聞くとすげえな。アーノルドが羨ましがってんじゃねえか?』

『彼には彼らしく活躍できる舞台があるわ。かつてあなたが言ってたように、道が違うから羨ましくはないそうよ。でも、会いたがってた』

『…そうか』


 充実してそうで結構だ。


 おれは、実のところアーノルドにはものすごく感謝してるんだ。


 おれは姉上には、この世界で人間らしい人生というものを味わってほしいと、ずっと願ってた。それを叶えたのがあいつなんだ。あいつだからこそ成し遂げられたんだ。

 姉上が初めて身ごもったとき――あんときも王宮に呼び出されてあいつの口から聞かされて、そのまま妊婦姿を見せられて――あんときゃ、もうめちゃくちゃに嬉しかったな。まじで泣けたぜ。婚儀のときよりも一層幸せそうな姉上の顔を見て、もういいと思った。おれはもういいんだと。

 姉上の傍らには、アーノルドがいればいい。おれの役割は終わった。まあ実際に解放されるまではちと手間取ったが、それからのおれは気兼ねなくおれのために生きることにした。もうおれの人生に二人が登場する必要はない。逆もしかりだ。二人にとっておれは、懐かしむべき過去の存在になってくれてて構わないんだ。


『ま、よろしく言っといてくれよ』


 軽く答えながら、おれは姉上をじっくり見つめた。さっきからどうもその姿に焦点が合わなくて、気を抜くといなくなりそうな気がして仕方ない。水路の水音が少しにぎやかで、台詞も聞こえにくい。

 おれの訝しみを知ってか知らずか、姉上は話題を変えてきた。


『まだやりそびれてる冒険もあるわね』

『そんなんあったか?』

『アナスタシアと』

『待て、それは違う』

『結婚しそうでしなかった』


 油断した。姉上はこう見えて結構な恋愛脳なんだ。の仕事柄、すぐそっちの方に発想が行っちまう。


『だからそんな仲じゃねえんだって』

『あら、いいパートナーに見えていたけど。じゃあ相棒かしら? どっちにしろもったいないわね』

『全然もったいなくねえよ! あいつとは共謀か、せいぜい共闘だ。あいつは世界中行く先々に現れちゃあ揉め事に首を突っ込んでばっかで、それがいつもおれの鼻先だしたまたま利害が一致することが多いしで、とっとと追っ払いたけりゃ組むしかねえってパターンばっかだったんだよ。まーあいつから見りゃあ、そっくり同じ感想だろうけどよ!』

『まあサイード、急に饒舌になったわね』

『あのな、こんな話をしてる場合かよ』


 おれは舌打ちすると姉上の顔を下から覗き込んだ。日が陰り、棕櫚の葉がおれたちに覆いかぶさるように大きく揺れた。水音は一層強く、ざあざあと暴風のように鳴り響く。おれは負けじと声を張り上げようとした。


『おれは今――』


 死にかけてんだぜ…と口にした瞬間、姉上は悲痛に顔を歪ませた。同時に景色も姉上も色をなくして遠ざかり、染み込むように溶け去った。もはや水ではなく嵐のごうごう言う音ばかりが、おれの意識に覆いかぶさった。

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