第15話 スクールアイドル研究会:美浜翠の思い違い
塩庭匿様:お題【雨の夜】
たぶん、
勇気の家は小学校から徒歩2分で、便利だというのが彼の家に集まった1番の理由なのだが、パートから帰ってきていた勇気の母は、リビングの大型液晶TVを食い入るように見る翠らクラスの女子を見て、まんざらでもない顔をしていた。自分の息子がちゃんとクラスに溶け込んでいるのが分かって嬉しかったのだろう。
リビングの大型液晶TVで見る『坂系』のアイドルたちのMVは女子の翠の目から見ても輝いていた。だが、そのときに自分もアイドルになろうと翠が考えた訳ではない。翠の近くで一緒にMVを見ていた勇気がこう言ったからだ。
「……やっぱうちのクラスでアイドルを演じるなら美浜かな」
勇気にとっては何げない一言だったのかもしれないが、その一言は翠の胸の奥まで深く突き刺さった。
これまでかわいい方だと言われてきた翠だったが、アイドルを演じられるとまで言われたことはなかった。今までのクラスには他にもっとかわいい子がいるのが常だったから、いつも翠は2番手3番手だった。しかし勇気はアイドル役に翠を推してくれた。
推して貰えることは、勇気を貰うことだとそのときわかった。彼の名前通りに、彼の一言が文字通り、翠の勇気に変わったのだ。
学芸会の出し物では翠がアイドル役をやって無事、成功裏に終わった。翠のアイドルへの追求が始まったのはそのときからだ。今ではもうおぼろげな記憶だ。
明日が清心女子高の文化祭という夜。校門前広場の時計は10時を指している。文化祭の前日でなければ、残っていられない時間だ。しかも準備するクラスや団体の中でもスクールアイドル研究会はかなり遅い方になってしまった。というのも、振り付けが最後まで決まらず、そのためプロジェクトマッピングでは微調整が必要になり、何度となくリハを行ったからだった。
そのお陰で、事前チケットが全て捌けた満員御礼のステージに相応しい舞台になりそうだった。最後まで苦労したのは勇気だが、勇気は疲労より喜びの方が大きいらしくシャキッと調整を続けていた。調整が終わると、助っ人男子達は互いを抱き合い、肩を叩き、時に殴り、時に持ち上げてぶん投げ、最後に勇気を何度も胴上げしたあと、ようやく解散となった。
講堂を出ると、外は雨が降っていた。
街灯の明かりが降ってくる雨粒を照らし、白い輝きを翠の網膜に残した。
「じゃあ、翠ちゃん! 先に帰るよ!」
早月が元気に翠の背中を叩き、傘を差して先を歩いていく音響担当の東堂を追いかけていく。傘は差していない。絶好の相合い傘チャンスだ。この機会を逃すような早月ではないだろう。9人の女子の中で一、二を争う出遅れ具合の早月と翠である。お互いを鼓舞するほかない。
安定の真子と振付師の飛丸は仲良く雨の中を傘を差して帰っているし、悠里と雑用係の日色はラブラブで悠里は折りたたみ傘を持っているのに2人で1本の傘に入っている。それぞれがそれぞれの助っ人と帰っている。ちょっとだけ雰囲気が違うのが真凜と動画担当の羽山だが、真凜は相変わらず素直になれないようだ。ギャルキャラなんだから、いつまでツンデレしているんだと思う。ツンデレというかS気質か。
ふむ。
自分はどうしたものか。当たり前だが同じ中学出身の勇気とは帰る方向が同じだ。みんなもそれが理由で一緒に帰っているのだから、翠と勇気がいっしょに帰らないのも変だ。それにくわえて駅まで一緒の組も今夜はお互い意識して別々に帰っている。これは勇気と一緒に帰るにしても、ちょっと時間を空けなければならない。
「あー みんな行っちまったか……」
講堂の玄関口で勇気がぼやいた。
「高梨……」
「おぉ。帰ろうぜ」
「う、うん」
「待っていてくれたんじゃないのか?」
理由は同じ方向だから、以外はないと翠は思う。
「もちろんそうなんだけど、今出ると他の子たちと一緒になっちゃうから」
「それは気が利くことだな」
「ごめん」
「なんだ、いきなり……」
「高梨には苦労を掛けた」
翠がそう言うと、勇気は目を細くした。
「何を今更。そんなの、美浜と一緒にいればこうなることくらい分かってるさ」
そんな風に言われるとまた翠は罪悪感を覚える。
「4月にゼロから始めて、お陰でここまでこぎ着けたんだ。ありがとう、高梨」
「研究会の会長がそんなしおらしいのは士気的にマズいんじゃないの?」
「幸いもう誰もいない」
他のメンバーたちはそれぞれ帰路についていた。けっこう時間が空いたから、万一合流しても気まずくならない程度にはなるだろう。
「そろそろかな。最終バスが行っちまうぞ」
「だね」
スマホでバスの時間を確認すると最終バスの時間が迫っていた。普段は自転車通学の翠だが、今日は雨予報だったので、バスにしていた。勇気も同様だ。2人は傘を差し、高校前のバス停に行く。他にもバスのメンバーもいるのだが、時間差を作ったのが功を奏したのだろう、誰もいなかった。
バス停の屋根の下に入り、2人は傘を畳む。
「酷い雨だ」
「明日にはやむ予報だから、今夜降ってくれて助かると思ってさ」
「美浜は前向きだな」
そうなのだろうか。翠はただニイと笑って応えた。
最終便であることを示す赤いLEDが行き先表示に点灯したバスが来て、2人は無言で乗り込む。車内は外よりは湿気が少なく、ややひんやりしており、最終バスだからか、意外と客が乗っていた。翠は空いている2人掛け席に腰掛け、勇気は翠の隣に座った。
外が暗いから、車窓が鏡のようになって翠の顔を写している。その顔を見て翠は不安が表情に出ていないか気にして見てしまう。勇気が隣に座ってくれたことは嬉しいこととして、明日のステージへのプレッシャーを刻一刻と感じつつあった。
「美浜はさ、どうして髪を切ったんだ?」
「失恋じゃないぞ」
勇気の言葉に、翠は車窓から目を離し、勇気を見た。勇気は疲れ切っている様子なのに、何故か目は輝いていて、本当に不思議そうにしていた。
「それは前に聞いた」
「――長い髪の方がバリエーションが出せるから伸ばしていただけだから。9人の中にショートカットのキャラがいないのならと自分でそれを選択しただけ」
「重度のアイドルオタクだな」
「会長として、言い出した者の責任と言ってよ」
「美浜はそういうところ、あるよな」
「だから高梨にも迷惑を掛ける。だから謝ったんだよ」
「いいんだよ、別に。好きでやってるんだからさ」
その好きが自分のことが好きという意味でないのは普通に分かる。自由に気ままにという意味だろう。しかし、ドキリとした。もう長い間、片思いをしている相手だ。しかしそれであぐらをかいて、一歩を踏み出さないまま、中学を卒業してしまった。しかしこうしてまた一緒にいる時間を得られたのは、自分の強い意思と、勇気の心意気のお陰だ。
「他の男子もそうなのかな?」
翠は聞いてみたくなった。
「さあ。どうだろう。飛丸だの日色だのは明らかにカノジョのために頑張っているのだし、南風とか東堂は、わからない。好きなんだろうけど、口に出さない気がする」
「どうして?」
LED照明で車内は明るいが、光源が上からだけなので、勇気の顔には陰影が生じている。いつもより深い顔立ちに見える。2割増しに格好いい。
「両思いになることばかりが、ゴールじゃないだろ?」
それは翠にも分かる。いつまでもこんな、微妙な距離を保っていればいいのではとすら思ってしまう。しかしそんなはずがないことは高校に入学してからの2ヶ月で知った。勇気が通う高校は共学だ。いつ運命の出会いがあるかわかったものではない。だからこそ、スクールアイドル研究会を立ち上げて、勇気を召喚したのだ。初志貫徹。今となってはそれしかない。
「そういう考え方もある。だけどさ」
「だけど?」
「何もしないで、後悔だけしたくないな」
「美浜らしい。やるだけやって今日があるしな」
勇気は深く頷いた。皆の力で、今日という日を終えられた。明日は本番のステージだ。余計なことを考えてはいけないのかもしれない。
「南風といえば、きちんとあいつのメニュー通り、ストレッチとセルフマッサージしておけよな。明日が本番なんだからさ」
「わかってるっての」
勇気は小言が多い姑のようだ。
次が最寄りのバス停になり、翠は停車ボタンを押した。
「バス、早いな」
「夜遅いしね」
2人はバス停でバスが止まると、傘を開いて降車する。
「くれぐれも南風に教わったセルフマッサージを忘れるなよ」
2度も言われた。信用がないらしい。
「もちろんだっての。高梨は遅刻するなよ。遅刻したらステージの威力が3割減だからな」
「そこまでかな」
「2割くらいかもしれない」
「それくらいの評価で嬉しいよ」
しばらく2人は歩き、分かれ道がきた。
「明日、成功させような」
勇気が傘を持たない方の手を差し出してきた。翠はそんな勇気の手を、恐る恐るとり、握った。勇気の手は冷たかった。それでも翠は手を握るだけで気持ちが伝わってしまう気がした。
「うん」
「心配すんな。僕らがついてる」
それはきっと、助っ人たちの総意に違いない。
「うん」
名残惜しかったが、翠は勇気の手を離し、言った。
「また明日」
「ああ。また、明日」
そして翠は1度だけ勇気を振り返り、家路を辿った。
文化祭である『
満員の観客に見守られるステージは、これまで翠が経験したことのない熱気をはらんでいた。眩しいスポットライトの光と熱に耐え、3曲を歌い、踊りきった9人は、みなやりきった笑顔を浮かべ汗だくだった。
これまで積み重ねた努力に見合う、特別な体験になった。これでスクールアイドルとしての経験値を上積みできたことは間違いなかった。
舞台袖を通ってステージから降りてきた汗だくの翠を勇気が出迎えてくれた。プロジェクトマッピングが終わったら、すぐに舞台袖に降りてきてくれたに違いなかった。勇気は言った。
「――お疲れ。夢は1つかなった?」
そして勇気は翠にタオルを手渡した。
「とりあえず、1つ。あとは動画編集次第か……」
翠はまだ先を見る。勇気との関係をこれで終わらせるわけにはいかない。翠は汗を拭いたタオルを勇気に渡し、露骨に笑顔を作った。表情に出てしまう自分の感情を悟られたくなかった。
「で、どこに行こうか?」
勇気は露骨に戸惑ったようだったが、数秒後、答えた。
「――海、かな」
海はスチール撮影で行ったが、そのときに勇気はいなかった。
「この季節じゃ海水浴は無理だよ」
「誰も海水浴なんて言ってないだろ!」
「そんなこと言ったってさ、どの子でもいいんだよ。話はもう、つけてあるんだからさ」
そう。自分を選んでくれなくても仕方がないのだ。そういう約束だ。助っ人たちがそれぞれ恋をしているとはいってもこれはまた別。約束は約束として、メンバーは応じてくれるはずだ。もちろんお目付役として翠も同行する予定だ。
「屋内プールでもいいんじゃない? ミズキンとか、水着見たいでしょ? 男子はああいうタイプに弱いから」
瑞紀のバストはすごい。高1とはとても思えない、グラビア担当に相応しい雄大なおっぱいだ。男子なら誰でもその谷間を拝みたいだろう。しかし勇気の反応はない。
「おお。早月ちゃんの方がいいか? 清楚センタータイプは、男の子の憧れだもんね」
早月は翠が最初に声を掛けたメンバーだ。頭一つ抜けているかわいらしさだ。
「あのさあ、僕のこと、からかってない?」
勇気は大きくため息をついた。
「だって、これだけかわいい子がいるのに。誰かかわいいと思う子、いないの?」
「ああ。いるな。かわいい子はいる」
「今こそ、苦労が報われるときだよ」
翠は心の底からそう思う。
「あのさあ――誰のために僕がこんなに苦労したと思っているんだよ」
他のメンバーはみな、講堂の外に出て行った。残っているのは音響を片付けている東堂と早月だけになった。その彼らも出口付近にいる。
「えと――誰のため?」
そう言いつつ、翠は思わず自分を指さしていた。
「正解!」
勇気はやけくそ気味にそう叫んだ。
「じゃあ、高梨が一緒に海に行きたいのは、ワタシ?」
「以外に誰がいる?」
信じられない! 翠は真っ赤になって俯いてしまった。とてもではないが勇気の顔を見ていられなかった。
「期待はしてた。そうはいっても他にもかわいいメンバーいるし、ワタシ、2列目だし、ボーイッシュ担当で、そんな際だってかわいい方じゃないし――」
「いいんだよ! 僕は美浜のことを1番に推してるんだからさ!」
そう言うと翠は意を決して面を上げて、勇気を見た。
「うん。推して!」
推す、というのはアイドルに勇気を与えること。
今ならば翠は心の底からそう断言できる。
「だから――一緒に海に行こう」
勇気の言葉に翠は頷いた。次のステージが始まり、スピーカーから大音量のBGMが流れ始めた。2人の耳に、互いの言葉は伝わらない。勇気が翠の手を取り、講堂の外に出る。その手は昨夜と違って温かい。
講堂の外には文化祭に来た客の往来があるが、ステージ脇よりは静かで、お互いの言葉が聞こえるようになる。
「ねえ、海に行くとき、どんな服を着て欲しい?」
「なんでもいいよ。美浜がドタキャンしなきゃ」
「ドタキャンなんかしないよ。どんな服がいい?」
「似合ってりゃなんでもいいって!」
「ちょっとは考えろよ!」
「じゃあ、白のワンピだ!」
「うん! じゃあ、それに決まりだ!」
そしてまだ手をつないでいることに気づき、2人はハッとして距離を取ったのだった。
文化祭の翌日は日曜日だ。
さっそく翠と勇気は朝早くから最寄りのバス停で待ち合わせした。白のワンピースなんて反則的なアイテムを翠が持っているはずもなく、背格好が似たメンバーに声を掛けると、やはりというかなんというか早月が持っており、早朝に時間を作って貰って借りに行き、身だしなみを整えて、早月の白いワンピースに袖を通した。
おそらく早月ほどには似合わない。しかし勇気のリクエストには応えたい。まあいいだろ、と適当なアクセサリーを身につけて、日焼け対策をして、家を出る。
するとバス停に着くまでもなく、勇気と出くわしてしまった。
「誰かと思った」
「あんたのリクエストでしょうが!」
翠は呆れればいいのか怒ればいいのか分からない。
「……似合ってないって、思ったんでしょ?」
「逆だ。似合っているから、イメージと違うから、分からなかった」
「そう……イメチェンとしてはOKなわけね」
「楽しみだなあ」
「え? 何が?」
「海。きっとこの時期、人が少なくて、きれいだ」
勇気と相談して決めた行き先は、夏にスチール撮影をした館山の沖ノ島だ。これから電車で2時間半かかるが、時間を掛けるに価値がある美しい海だ。
「そうだね。すごくいいと思うよ」
「目一杯楽しまないとな。頑張って頑張ってこぎ着けた、美浜との初デートだからな」
勇気は照れくさそうに言った。少し俯き、自分の反応を窺っている。
「そっか……これ、デートだったんだ」
「デートだろ」
「デートだと2人とも思えば、デート。だから、デートだな、うん」
翠は頷いて、バス停へと歩いて行く。勇気も続く。
「デートだから、頼むわ」
勇気は昨日のように、翠に手を差し出してきた。
「うん。デートだもんね」
そして翠は勇気の手を取った。
指を絡め、しっかりと恋人つなぎをする。
「時間がかかったな」
「4年くらいかな」
「僕もそんなもんだと思う」
「時間がかかったけど、遅くもなかった」
「それなら、よかったんだよね、きっと」
翠と勇気は手を繋ぎ、バス停に向かう。日曜日のバスはなかなか来ないが、別に構わない。なんなら海にいる時間なんてほんの少しでもいいのだ。
これから2人で過ごしていく時間を約束できさえすれば、それで。
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