第1話 ちぐはぐな取引

 自分を訪ねてきたという客人と面会するなり、オスカーは目をむいた。


 柔らかな編み込みがされた金糸の髪はその色を引き立てる、ネイビーのベルベットリボンでまとめられている。粋な角度で傾けられたボンネットには、小さな青薔薇がたくさん刺繍されていた。

 華奢な身体はレースとフリルが存分に使われたドレスに包まれ、ベルスリーブから覗く白く細い手にはレースの手袋が。

 きゅっと締まった腰のくびれには見事なドレープが波打ち、つま先にかけて広がっていく大きなスカートにはゆったりとしたティアードフリルが揺れている。

 大きく開いた襟ぐりから覗く白い首にかかっている巨大なサファイアの首飾りが、まぶしいきらめきを放っていた。


 陶器のように白くあえかな肌と、サファイアのごとき碧眼。薔薇の花のような小さく薄い唇。じっと黙って立っていたら、本当に人形のように見える。どこまでも美しい女だった。


 そんな女が、汚い石造りの床を歩いてこちらへ向かってくる。


「ここ、よろしいですか?」


 オスカーの目の前までやってくると、女は手袋に包まれた手で薄汚れた木の椅子を指し示す。呆然としながらうなずくと、女は優雅なしぐさでスカートをほんの少し持ち上げて腰かけた。


「……一体何の用かね」


 女の目の前、机を挟んだ向かいの椅子に座りながら、オスカーは居心地の悪さをこらえながらつぶやいた。何もかもが違和感だらけで、にわかには現実を信じられなかった。


 高い位置に取り付けられた窓は小さく、まるで監獄のような息苦しさを与える部屋だ。焚きっぱなしにしているストーブのせいで、むっと熱気がこもっている。煙でいぶされた天井はすすけて、明かりにしているオイルランプのガラスは曇っている。


 その部屋で、宝石のような存在感を放つ女。


 彼女が座っているところだけ、別空間を切り取って貼り付けたような違和感がある。オスカーが咳払いをして目を背けると、女はおもむろに口を開いた。


「私はカリスタ・エイルウィンと申します。今日は、オスカー様と取引をしたく参りました」


 カリスタとは古代の愛と美の女神の名前である。その名前がよく似合うだなと呆けていた頭が、数秒の時差を経てカリスタの言葉を理解する。


「取引、だと」


 何がしたいのかと思いきや、取引とは。


 オスカーは手のひらで顔を拭い、何度も瞬きをする。


(この女、ここがどこかわかってんのか……)


「はい。お願いできますか?」


 カリスタは不安げに眉根を寄せた。オスカーはどうしても理解できなかった。それどころか、逆にカリスタの方が状況を理解しているのか怪しい。どう考えたっておかしい。身分の高い女が一人でこんなところへ来て、オスカーと取引したいと言い出すなんて。


 カリスタはどこかふわふわした目をして黙っている。話し方といい雰囲気と言い、どこをとっても深窓のお嬢様。金持ちの上にいいカモになりそうな女だったが、その美貌を目の前にしてはもはや騙す気にもならなかった。


「カリスタさんよ。取引する相手と場所を間違えちゃいないかね」


 ため息をついて言うと、カリスタはきょとんとして碧眼を見開いた。小首をかしげ、鈴の音のような声で言う。


「ええ、合っていると思うのですが……。ここは奴隷拳闘士たちが戦う闘技場で、オスカー様は支配人をしていらっしゃる」

「……その通りだ」


 カリスタは本気のようだ。オスカーはあきらめのため息をつき、ゆっくりと目を閉じた。間違いではないのなら、対応するしかない。オスカーほどの商人ともなると、やばい取引かどうかはすぐにわかる。危険な香りはしない。


 次に目を開いたときには、疲れた顔の初老の男ではなく、抜け目のない目をした商人の顔になっていた。


「よし、要件を話しな」


 カリスタも真剣な顔になり、ぐっと身を乗り出した。ふわりとラベンダーの香りがオスカーに漂う。どこまでも場違いな匂いだったが、悪い気はしなかった。


「先ほどここで試合をして勝った男を買い取りたいのです」

「フィオナルドか」


 オスカーはふむと頷く。


(奴隷拳闘士なんか買ってどうするってんだ)


 興味はあったが、金持ちの道楽というのは一般人の常識とはずれているものだ。あえて聞くのは無粋だろうと、オスカーはじろりとカリスタを見やる。


 カリスタが提示したのは、この競技場で1番な人気を誇る拳闘士だった。フィオナルドという名のその奴隷は、確か隣国の奴隷商から買い取った覚えがある。とにかく最強で最狂という宣伝文句を体現する男だった。


「フィオナルドはここの看板だ。おいそれとあんたにあげるわけにはいかないな」


 世間知らずのお嬢様だ、商品には対価を払うという常識も知らないだろうと皮肉ったつもりだった。しかし、カリスタは特に動じた様子もなくうなずいた。


「わかっています。ただでとは言いません」


 カリスタはおもむろに両手を上げると、首の後ろに手をやった。たおやかな手つきで器用に首飾りを留めていた金具を外す。チェーンの代わりになっていたベルベッドのリボンを両手で持ち、オスカーの目の前に滑らせた。


「これをお渡しします。……足りますか?」


 オスカーは言葉も出なかった。燦然ときらめくサファイアは、少なく見積もっても子供のこぶしくらいのサイズはあるだろう。細かに削られた青の切面は、光の加減によって深みを増す。震える手でそれを持ち上げると、ずっしりとした重みを感じた。


 これを売れば、あと十年は遊んで暮らせるだろう。フィオナルドの拳闘で儲けた観戦料よりも遥かに旨みがある。


 いったん冷静になろうと、オスカーはぎゅっと目を閉じた。商売に置いて焦りは禁物である。札束で叩くようなやり方を通したカリスタだが、実はそれが一番有効な手段でもある。金に物を言わせれば、大体のことはうまくいくものだ。


(まずは鑑定だ。落ち着けオスカー)


 目の前のゆったりとした女に、わざわざ贋作を掴ませるような悪知恵があるとは思えなかったが、念には念を入れることにする。


 自分は結局フィオナルドを売ることになるだろうと心のどこかで悟りながらも、オスカーはサファイアを手のひらに感じながら、ルーペを探し始めるのだった。




 

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飼い狼とお嬢様  七沢ななせ @hinako1223

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