08 凶夢:桐谷凛花
「――」
冷たい風が、私の頬を掠めた。
駅のホーム。もう何度もここに立っているけど、私は未だに勇気が出ない。
正確には、色々な場所で何度も自殺をしようとしたけど、その度に勇気が出なくて命を先延ばしにしてる。
一歩踏み出して、あとは重力に任せれば、簡単にあの世に行けるというのに。
その一歩が怖くて、怖くて怖くてたまらない。
死にたくない訳じゃない。
死ぬのが怖い。
痛いのは嫌いだし、苦しいのも嫌いだから。
生きる意味を探すよりも、死ぬ理由を見つける方が簡単。そんな日常だった。
お父さんは仕事のストレスから、私に対して暴力を振るった。
殴ったり、蹴ったり、髪を引っ張ったり。
終いには、『なんで産まれてきたんだよ!』って言ってきた。
『視界に入るんじゃねえよ!』とも。
でも、実際その通りだと思う。
物心をついた頃から、お父さんとお母さんとは仲が悪かった。
だから、会話なんてほとんどした事が無いし、愛情なんて感じた事がない。
一緒に寝たことも無いし、髪の毛を切ってもらったことも無いし、背中をさすってもらったことも無いし、髪の毛の縛り方を教えてもらったこともなかった。
むしろ、"暴力"という名の"憎悪"だけが、私の心には刻まれている。
それでも私は耐えて、生きた心地もしなかったけど、精一杯生きた。
ご飯も作ってくれなかったけど、何とか親の目を盗んで、誰もいない時に一人で料理をしてた。
こっそり、お母さんのレシピ本みたいなのを見たから、ある程度は出来た。
毎日は出来なくて、お腹を空かせたまま寝たこともあったけど。
それでも、『何で生きてるのかな』って自問自答する日々がほとんどだった。
でも我慢して、誰かにアザを見られないように隠して、先生や友達にはなるべく良い顔で振舞った。
『何かあったの?』って聞かれても、怖くて本当の事は言えなかったから、『何も無いよ』って笑顔で言った。
中学生の時。
いつの日か、寝付けなくて真夜中に起きてしまったことがある。
喉が渇いてた。
だから水を飲みたくて、1階に降りた。
お父さんとお母さんが、相変わらず喧嘩していた。
今思えば、その怒鳴り声で私は眠れなかったのかもしれない。
私が『自殺』を決意したのは、その内容が惨かったから。
『――何であんなやつ産んだんだ!? おかげで仕事のペースも滅茶苦茶なんだよ! てめえがあの時ピルを飲んでりゃ済んだ話だろうが!』
『――なんで私のせいなの!? あんたが勝手に中に出したからでしょ!? ふざけないでよ!』
『――お前のせいだ! あんなクソガキいなけりゃ、今はもっと裕福で、仕事も順風満帆だったんだよ!』
『――そんなの私だって分かってるわよ! でも仕方ないじゃない!』
そんな内容だった。
衝撃的で、悲劇的で、残酷的な内容だった。
生きる意味も理由もない。そんな私の思いを、裏付けたような気がして。
親にとって、私は望んで産んだ子供じゃない。
私にとって、私は望まれて産まれた子供じゃない。
だから、私のせいで出費やら精神的な負担やらが増えて、仕事にも生活にも支障が出てた。
学校には行かせてくれた。
行かせないと、"保健所"の面倒臭い奴が来るからという理由だったらしいけど。
だから、"教育の義務"というよりも、保身の為に私を学校に行かせてたんだと思う。
なら、死んだ方がいいと思った。
私が死んだ方が、お父さんもお母さんも嬉しくて、仲良しな関係に戻れるんだと思った。
私が死んだ方が、気持ちも楽になって、考える事も少なくなるんだと思った。
やりたいこと、したいことはあったけど、私が私を優先するよりも、親を優先した方が幸せになる人も多いと思う。
私が死んだところで、悲しむ人なんていないだろうし。
「……ふぅ」
そうは思うけど、死ぬのはやっぱり怖くて。
電車に飛び込んで、自分の脳ミソやら肉片やらが飛び散るのを想像したら、足が震えてしまう。
きっとその頃には意識は無いんだろうけど、それでもやっぱり怖いから。
――でも、やるしかない。
怖い、怖い、すごく怖い。
怖いよ。本当に怖い。怖くて怖くて、怖すぎるよ。
でも、仕方ない。
覚悟を決めるしかない。
私が死んでくれたら、幸せになる人がいるから。
だから、怖くてもやるしかない。
だって、死にたくない訳じゃないんだから。
怖いだけなんだから。
「――」
涙が出てきてしまった。
視界がだんだんとボヤけて、前が見えなくなっていく。
――誰かに、褒めてもらいたかった。
――誰かに、優しくしてほしかった。
――愛を、知ってみたかった。
だけど、それももう無理だから。
「……逝くね」
ボヤけた視界の端を、白い光が侵食してくる。
それが真ん中に来るに連れて、私も一歩前に出る。
もう少しで、逝けるんだ。
怖いけど、一瞬だけ耐えれば大丈夫だから。
今死ねなかったら、私はまた、地獄の日常に戻ってしまうから。
今日は、いつもと違う気がした。
スムーズに足は動いてくれる。
だから、だから、だから――。
「あっぶね……大丈夫だっ……」
気付けば私は、尻もちをついていた。
脳ミソも吹き飛ばず、肉片も体の中にちゃんと収まっている。
誰かに腕を取られた。――つまり、助けられてしまった。
瞬間、私の視界を白い光が包んで、場面が切り替わった。
「……やだ、逝く、逝きたい、逝かせて!!!」
いつの日かの、学校の屋上だった。
ここから飛び降りれば、簡単に死ねる。
さっきは誰かに止められたけど、ここなら大丈夫。
――だから、今度こそ。
「おい! 何やってんだそこの女子! 危ないから降りろ!」
木刀を持ったジャージの強面男が、強引に私の肩を掴んだ。
また、死ねなかった。
また、助けられてしまった。
瞬間、再び私の視界を白い光が包んで、景色が変わった。
「今度こそ……」
いつの日かの、踏切の前。
電車が通過するタイミングで行けば、簡単に私の体は木っ端微塵になる。
息が荒くなってきた。
『怖い』という感情が、段々と形になってきてしまった。
でも、死なないと。
またあの地獄に戻るのは、もうごめんだから。
「あの、危ないですよ。下がってください」
スーツを着た見知らぬ男が、私の腕を掴んで引っ張った。
まただ。また助けられてしまった。
死にたかったのに、また死ねなかった。
瞬間、男の顔が、まるで紙芝居のように、コマ送りで変わっていく。
「ダメだよ、死んだら」
「自殺なんてやめて」
「いい事あるぞ」
「死なないで。勿体ないよ」
「生きた方がいいって」
「やめなよ。危ないから」
「死んでもいいことないよ」
「前を向いて生きて」
「大丈夫だよ」
いつしかの女子高生、サラリーマン、おじいさん、子連れの人妻、長髪の男、見知らぬ女、偉そうに語る若者、おばあさん、知らない子供。
そして、真っ暗な空間に変わった。
ゾロゾロと私の周りを囲んで、無責任な言葉を浴びせてくる。
「やめて……やめて……やめてよ……何で止めるの……」
誰も、誰も知らないくせに。
私の覚悟なんて、何も分かってないくせに。
私がどんな思いで、どんな気持ちでここに居るのか、何も知らないくせに。
肩書きだけの責任感で私の自殺を止めて、後は――放っておくくせに。
なんで止めるの?
なんで辞めさせるの?
なんで私をまた地獄に引きずり込むの?
死んだ方が楽なのに、どうして生き続けさせるの?
「死なないで」
「生きなさい」
「死んだら終わりよ」
「死んでもいいことないよ」
「やめてって……やめてってば!!!!!」
聞きたくない。いらない。
誰も――私の名前なんて覚えもしないくせに。
そのくせに、止めるだけ止めて、私の覚悟を踏み躙って、その場を後にするんだ。
私の人生なんてどうでもいいくせに、名ばかりの"責任"で私の決意を無駄にするんだ。
自己陶酔の為に、私を利用しないでよ。
そう考えた瞬間、真っ暗な空間から、一人ずつ消えていく。
「……待って……」
気付けば、私はそう呟いていた。
それでも、確実に、一人一人居なくなっていく。
「……どこいくの……ねえ……」
段々と、孤独に近づいていく。
一人になっていく。
真っ暗な空間で、私を止めた人達が居なくなっていく。
何だかそれが、すごく寂しくなってしまった。
「……殺して……嫌だよ……」
涙が、流れた。
殺してほしい。
優しくしてくれるなら、褒めてくれるなら、止めてくれるなら、いっそ殺してほしかった。
「……置いてかないで……」
真っ暗な孤独の空間で、私は耳を塞いで
また、あの日々に戻ってしまう。
誰にも必要とされていない私が、誰にも必要とされていない世界に、戻ってしまう。
アザが増えて、精神だけが削られて、生きがいなんて何も無い世界に、戻ってしまう。
――私の名前を、誰も知らない世界に。
「――凛花!!!」
そして、私の名前を、誰かが呼んだ。
「どうしたんだよ、体調でも悪いのか?」
私の目を見て、永瀬さんはそう言った。
夢だったんだ、今のは。
永瀬さんは、優しい瞳だった。
まるで何かを守ろうとしているような、瞳だった。
本気で心配してくれてる。それが簡単に伝わるような、瞳だった。
「……永瀬さん……永瀬さん……」
そんな彼の瞳を見て、私の視界が無意識にボヤけていく。
「桐谷?」
「……やだ……永瀬さん……うぐっ……」
「どうしたんだよ」
優しい問いかけだった。
瞬間、今日のお昼が、無意識に私の頭の中に浮かんできた。
――『やばすぎるな、これ』
――『本当に美味いよ桐谷!』
――『ごちそうさまでした!』
私のご飯を食べてくれた、初めての人だった。
料理に自信はあったけど、きっと永瀬さんは気を使って、そう言ってくれたんだと思う。
でも、その笑顔と言葉が、すごく嬉しかった。
初めて褒められて、本当に、本当に、嬉しかった。
「……永瀬さん……ねえ……」
――同時に、すごく怖かった。
誰かに優しくされるのが、すごく怖く感じてしまった。
このまま、私はまた一人になってしまうんじゃないかと、心の中で思ってしまった。
また、見放されて、孤独になってしまう。
それなら――やっぱり、死んだ方が良くて。
「……この手で、私を殺して……やっぱり……無理だよ……」
永瀬さんの手を掴んで、私は自分の首元へとそれを持っていく。
本当に、最後の最後まで、自分勝手な女の子だと思う。
優しくされたかったのに、褒められたかったのに、いざそれをやられたら、こうして殺してほしいだなんて。
本当は、優しくされるのも、褒められるのも、怖かったんだと思う。
永瀬さんは、冷や汗をかいて固まっている。
辛いよね。人を殺すなんて。
でも、優しくするくらいなら。
私の自殺を止めるくらいなら。
私の覚悟を、遮ったなら。
遮って、見捨てるくらいなら。
その手で、責任を持って殺してほしい。
涙は、止まらなかった。
見放されたくないからこそ、この場で終わりたい。
最初で最後の、褒めてくれた人だから。
涙を流しながら笑えた事なんて、あの時が初めてだった。
嬉しかったよ。
嬉しかったからこそ、だよ。
「――」
――"死にたくない"って、思ってしまったからこそ、だよ。
そして――。
飛び込み自殺を図ろうとしていた女子高生を助けたら、『殺して』とお願いされたので、無視してラブホテルに連れ込んでみた結果 たいよさん @taiyo__
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