07 凶夢:永瀬虎雅


 結局、桐谷は俺の家に泊まることになった。

 まあ、そもそも最初からそのつもりではあったので、あまり驚いてはいない。


「お。出てきたか」


 ガチャと、浴室の扉が開く音がした。

 有難いことに、親が裕福だった為、バストイレ別の物件に住ませてもらっている。


「出た」


 言いながら、桐谷は濡れて艶めいた黒髪と共にリビングへと歩いてきた。

 服は、ダボダボの長袖とダボダボのスウェットパンツを履いている。

 もちろん、俺のを貸してあげた。


「綺麗だっただろ、俺んちの風呂は」

「まあ、うん」

「まあって。本心が出てますよ」

「んふ」


 昼ご飯からというもの、桐谷はこうして笑顔を浮かべるようになった。

 何がきっかけかは分からないのだが、それを聞くのも野暮なので聞いたりはしない。


「永瀬さんは入らないの?」


 もう一つ言えば、こうして苗字で呼んでくれるようになった。

 だいぶ心を開いてくれたのだろう。


「俺はまだいいかな。やる事あるし」

「そっか」


 正直に言うと、別に無い。

 ただ、桐谷が寝てから風呂に入りたいだけで。

 すると、桐谷は小さな口で、「ほわ」と、小さな欠伸をした。


「眠いのか?」


 当然の質問を、俺はぶつけてみる。

 昼ご飯も夜ご飯も作ったし、久しぶりに労力を使用したのかもしれないな。

 それとまあ、今日も泣いてたし。


「……うん」


 すると、桐谷はコクっと首を縦に振った。


「そうか。ベッドは……使っていいよ。俺はソファで寝るから」


 生憎と、ベッドが一つしかなかった。

 ラブホテルと違って一人用だし、そこに一緒に入るのは……酷だな。さすがに。


「いいの?」

「おう。ソファも寝心地悪いわけじゃないしな」

「そっか」


 そう言って、桐谷は眠そうに立ち上がり、ベッドへと歩いていく。

 申し訳なさが無いあたりは、彼女の良いところと言うべきか、悪いところと言うべきか。

 まあ、どっちでもいいか。


 ぼふ、と小さな音を立てながら、桐谷はベッドに寝る訳ではなく、ちょこんと座った。


「寝るんじゃないのかよ」

「……うん。寝る」

「座ってるぞ、今」

「……分かってるよ」


 唐突に、桐谷の声のトーンが落ちた。

 それは、まるで出会った時のようなトーンで、どこか不安そうな、崩れそうな感じだった。


「そうか。まあちゃんと寝ろよ」


 とはいえ、何だかそれを言及する気にもなれず、俺はトイレへ向かうために立ち上がる。

 そして――トイレへと歩き始めた、時だった。


「……ねえ」


 俺の背中に、再び桐谷の声が届く。


「……ん?」


 その声に反応するように、俺は桐谷の方へと向く。


「……こっち、来てくれない?」

「……は?」

「……こっち来て」


 聞き間違いじゃなかったらしい。

 寂しそうな目で、桐谷がそう言ってきた。

 どうしたのだろう。さっきまではニコッと笑っていたのに。


「来てって、俺はまだ寝ないよ?」

「……分かってる」

「じゃあなん……」

「来てほしいの」


 で、と言い切るまでに、桐谷の言葉が遮った。


「……分かった。その前に悪い、トイレだけ行かせてくれ」


 気付けば、俺は肯定していた。

 そして、少し不安を感じつつ、俺はトイレへと向かいドアを開け、定位置についた。


 正直言って、俺は困惑している。

 桐谷が素直な事は知っているのだが、それは人に甘えたりすることではなかったはず。

 むしろ、甘えるという面においては素直とは真逆の存在だと思う。

 笑みや名前を呼ぶ程までには心も開いてくれて、『死にたい』という感情も、薄れつつあると思う。

 だとすれば、あの"寂しそうな目"は、何だったのだろうか。


「……分かんねえな」


 下腹部からの放射を感じつつ、俺はそんなことを呟く。


 自殺をする程に追い込まれている人の気持ちは、やはり分からない。

 分かりたいのだが、どうしても分かってやれない歯痒さがあった。


 出し終えて、俺はベッドへと戻る。


「……いや、寝てるし」


 ポテンと後ろに倒れて、桐谷はすうすうと気持ちよさそうに眠っていた。

 相当眠かったのか、俺が帰ってくる前に寝落ちてしまったような感じだ。


「寝付けたなら大丈夫か」


 俺はそう結論付けて、桐谷へと近づく。

 そして、布団を被っていなかった桐谷へと、そっと布団をかけてやった。


「ん……」


 風呂に入ろうと、ベッドから背を向けた所で、桐谷の苦しそうな吐息が聞こえてきた。

 やらかした。起こしてしまったかもしれない。

 せっかく、あんなに辛そうな表情を見せながらも寝付けたというのに。

 俺は恐る恐る、振り返って確認してみる。

 しかし、桐谷の目は横一直線で、起きている訳では無さそうだった。


「……ふう。良かった」


 安堵しつつ、俺は再び背を向けて風呂へと向かう。

 一日ぶりの自宅の風呂だ。

 ラブホテルとはまた違った感覚だし、お湯だけじゃなくて感慨にも浸りまくってやろう。

 そんなことを考えつつ、俺はクローゼットから着替えの服を取り出す。


「……んっ……んふ……っ……」


 クローゼットを物色していると、桐谷が苦しそうに喘ぎ始めた。


「……んんっ……っ……うっ……」

「……おい、桐谷」


 どう考えても、快眠では無い寝息だ。

 それを心配して俺は声をかけるものの、桐谷は起きない。


「……んん……はぁ……っ……」

「桐谷……?」


 段々と、桐谷の額には艶めきが出てくる。

 汗だ。

 表情も苦しそうに変化していき、息も乱れ始めてしまった。

 俺が貸した灰色の長袖のシャツは、どんどんと濡れていく。

 やはり、汗だ。汗をかいている。


「桐谷……どうしたんだよ……」


 恐る恐る、俺は寝ている桐谷の元へと近づく。

 額には完全に汗が浮き出ていた。

 そして、俺はある事に気が付いた。


「……んっ……ぐ……ぐすっ……」


 ――涙だ。

 桐谷の目尻から、一滴の涙がすーっと落ちていく。


「……変な夢でも見てるのか」


 目を一直線にしたまま、しかしどこか苦しそうで、悲痛な表情を浮かべている桐谷。

 俺は無意識に、ベッドの空いたスペースへと腰をかけていた。

 じっと見つめていても、桐谷は何度も唸って、苦しそうに喘いでいる。

 泣くほどの、夢を見ている。

 俺には、そんな経験が無かった。

 むしろ、夢と言われれば理想的な出来事が起こるばかりの夢で、嬉しかった事の方が多い。

 だから、理解してやれない。

 それが何故か、死ぬ程悔しかった。


 どうする事も出来ずに、俺は桐谷の寝顔を見る。


「……て」


 桐谷が口を開けて、言葉らしき何かを呟いた。

 聞き取れず、俺は桐谷の口元に刮目する。

 すると、桐谷はもう一度、そしてはっきりとその言葉を呟いた。


「……殺して」


 ゾワッと、鳥肌が立った。

 全身の鳥肌が、一斉に立ってしまった。

 そして、俺の胸の奥の何かが、急激に音を立てて燃え始めた気がした。


 何か、してあげなければ。

 苦しそうに眠る少女を、どうにかして楽にしてあげなければ。

 どうしたらいいんだ。


 手を握ればいいのだろうか? 否だ。

 頭を撫でてやればいいのか? それも否だ。


 なら……どうすれば……


「……おい、桐谷」


 気付けば俺は、桐谷の肩を揺らしていた。

 これしか、思いつかなかった。

 起こしてやるしかないと思った。


 しかし、桐谷は未だに苦しそうで、起きる気配がない。


「……殺して……嫌だよ……」


 また、呟いた。

 相変わらず、寝顔には悲痛な表情だけが浮かんで。


「桐谷、おい!」

「……やめて……置いてかないで……」

「凛花!!!」


 名前を叫ぶと同時に、俺は肩を揺らしていた強度を数段強めた。

 すると、桐谷は瞼をおもむろに動かし、開けた。


「……永瀬さん……?」

「起きた……良かった」


 汗をびっしょりとかいたまま、彼女は起きた。

 どうしてだろうか。自殺を助けた時よりも、安堵してしまった自分がいた。


「どうしたんだよ、体調でも悪いのか?」


 尚も不安そうな目付きをしている桐谷へ、俺は声をかける。

 すると、桐谷は視線をおもむろに上げて、俺の目を見た。


「……永瀬さん……永瀬さん……」

「桐谷?」

「……やだ……永瀬さん……うぐっ……」

「どうしたんだよ」


 数秒も経たずに、桐谷の瞳を涙が埋めていく。

 そしてそれは、直ぐに決壊して、ボロボロと雫だけが頬を伝った。


「……永瀬さん……ねえ……」


 桐谷の目はずっと不安そうで、何かを失ったかのように喪失感にまみれていた。

 失ったものは――生気だったのだと、すぐにピンと来た。

 そのまま、彼女は俺の手首を掴んで、自分の所へと持っていく。


「……桐谷……?」


 その悲痛な目、そして、そこから流れ続ける涙。

 何より、生気を失った雰囲気が、俺の心にズバズバと突き刺さる。

 そして彼女は、俺の手を自分の首まで持っていった所で、言った。


「……この手で、私を殺して……やっぱり……無理だよ……」


 彼女の言葉に、俺は固まる事しか出来なかった。

 助けた気になっていただけだったんだ。

 彼女の心の中では、"生きる希望"よりも、"死にたい絶望"が、まだまだ優越している。

 それを……気付いてやれなかった。

 気付いていても、直してやれなかった。

 期間は一日しか無かったなんて、そんなのは言い訳でしかない。

 助けたなら、自殺を止めたならば、彼女がまた死にたくなる前に……矯正してやらなければダメだった。


 その上で。

 彼女はどうしたら楽になれるのだろうか。

 精一杯、自分の頭の中で思考を働かせる。

 彼女にとっての"楽"と、俺にとっての"苦痛"なら、どちらを優先するべきなのか。

 ――それはきっと、彼女の止まらない涙が、答えなんだと思う。


「――」


 俺は、とにかく考えて、考えて、自分のするべき事を頭の中で決意した。


 それは――。


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最後までお読み頂き、ありがとうございます。


次話、かなり残酷なお話になってしまいます。

それでも大丈夫という方は、是非追っていただけると幸いです。


 

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