04 責任と寝顔


「ふぅー……」


 40℃くらいのシャワーを浴びながら、俺は息を吐いた。

 何というか、今日は忙しい一日だった気がする。

 図書館での寝落ちから始まって、終電ギリギリで爆走して、そしたら自殺をしようとしている女子高生がいて。

 終いには、終電を逃してラブホテルにいる。

 密度が濃すぎる。


 体を洗った後の、頭を洗っている途中だ。

 ラブホテルのシャンプーは、何故か泡立ちが良く感じた。

 高級シャンプーでも使われてるのだろうか。


「……ま、どうでもいいか」


 泡立ったシャンプーをシャワーで流しながら、俺は呟く。

 匂いも相変わらず良くて、なんとなく特別な気分になれた気がした。


「……」


 洗い終わって顔を上げ、ふいに目の前にあった鏡を見た。

 長くも短くもない黒髪は濡れていて、肩周りにはまだ落としきれていない泡がついている。

 しかし何だか、取る気になれなかった。


「……疲れたな、本当に」


 鏡に映った自分の顔は、ゲッソリしていた。

 それは、痩せたとか太ったとか、外見的な変化では無い。

 俺にしか分からないような、些細な感覚だ。


「……まあいいか」


 そのまま、肩に付いた泡は取らず、俺はシャワーを止める。

 そうして所定の位置に戻すと、俺は湯船に勢いよく飛び込んだ。


 シャワーを止めると、浴室の中は一気に静かになった。

 未だに桐谷は料理動画を見ているのか、ジュージューと何かを炒める音がうっすらと聞こえてくる。

 元々二人用に作られている為に、浴槽には大分スペースがあった。

 俺の身長は180センチで、筋トレを軽くしているため、肉付きも細くはない。

 それでも、浴槽はとても広く感じた。


「……」


 何だかそれが、複雑だった。

 寂しいだの一緒に入りたいだの、そんな下らない感情では無い。

 ただ、この広い空間に桐谷がいないのが複雑だった。

 平気で桐谷を一人にさせているのだ。


「……これでよかったのか」


 気付けば、そう口にしていた。


 風呂前の会話や橋での行動を思い出すと、彼女は本当に辛そうで、何か闇を抱えているのは間違いない。

「家に帰りたくない」、「親なんていない」という発言も、本心だし事実だったと思う。

 桐谷じぶんを殺す理由には、十分だったと思う。

 だからこそ――自殺を止めた事は、正解だったのだろうか。と、思ってしまう。


「……本当に自分勝手だよな、俺は」


 今更そんなことを思う自分を殴りたくなる。

 それを誤魔化すように、俺はジャグジーの機能を作動させた。

 

 勝手な正義感で助けて、勝手な正義感でラブホテルここに連れてきた。

 

 じゃあ、明日からはどうする?

 コスト的にも年齢的にも、ラブホテルここに滞在するのは無理がある。

 ならば、知らない誰かに預ける?

 それこそ、現実的では無い考えだ。

 ――では、彼女が生きる希望を持っている事に賭けて、朝日が昇った時点で見捨てる?

 ……それはあまりにも、無責任だしクソ最低だ。


 ならば、ならば――。


「……クソ……ったれ……!」


 何も、分からなかった。

 支配される感情に身を任せ、俺は声を押し殺しながら、水面を思いっきり叩いた。

 本当に、自分が情けなかった。

 他人の人生の決断を勝手に止めておいて、それ以降の事を考えていないなんて。

 それこそ無責任で、最低で、クソ野郎では無いか。


 思えば、彼女が終電で身を投げようとしていたのも、橋で座り込んでいたのも、それが理由だと思えてくる。

 中々決断出来なくて、それでも心を決めて、あの時間帯に遂行しようとしていたとしたら?

 果てしない覚悟を、決めていたとしたら?

 ――決めていたのに誰かに止められて、また一から決め直さないといけない状況になっていたとしたら?


「……あぁ、本当に俺は……」


 情けなさを通り越して、哀れだった。

 勝手な使命感で動き、それで人を助けた気になっていた。

 助けた後の人生なんて、何も考えていなかった。

 

 そして――音が消えた。


「――」


 唐突にやってくる完全な無音状態に、ありえないほど嫌な予感がした。

 うっすらと聞こえていたパソコンの音が、プツリと切れたからだ。


「おい……おい……」


 俺は一目散に湯船を出て、体も適当に拭いて、備え付けの部屋着を乱雑に取る。

 思ってしまった。こういう所が、ダメなのだと。

 どうして、誰かの死を懸念しているのに直ぐに行けないのだと。

 セクハラだの痴漢だの、気にする余裕がある時点で――それは、薄っぺらい責任感なんだと。


「……今はいい、どうでもいいんだよそんなことは!」


 浮かんでくる雑念に情けなく言い訳をしながら、俺は法被のような部屋着を乱雑に身につける。

 そして、足を濡らしたままベッドへと向かった。


 まず見えてきたのは、無気力にコテンと床に落ちたパソコンだった。

 動画は再生し終わっているのか、『次に進む』マークが画面上に記されている。

 確か俺は風呂に行く時、桐谷の膝の上にパソコンを置いた。

 だとすれば――。


「……」


 恐る恐る、俺はベッドを視界に入れる。

 彼女は特に持ち物も無かったはずだ。

 あったのはスマホと可愛らしい財布だけで、それ以外の物は持参していなかった。

 故に、ナイフや包丁などの殺傷道具は持っていなかったので、懸念するとすれば電話線などでの絞首。

 最悪の結末を迎える覚悟を決めながら――見た。


「――っ」


 ――ぐったりと、両腕をだらんとさせて倒れている桐谷を、見た。

 

 それを見た瞬間、俺は全速力でベッドへと向かう。

 そのまま片膝で勢い良くベッドに乗って、覆い被さるように、桐谷を見下ろす。

 そして、俺は気付いた。


「おい! しっかりし…………寝てる、のか?」


 不安で目を血走らせながら見た桐谷の顔、そしてその綺麗な鼻から、『すぅ』と、可愛らしい寝息を立てていた。

 本当に、気持ち良さそうな寝息だった。

 

 俺はそのまま視線を下へと移し、腹部を見る。

 やはり息はあって、小さく上下運動していた。


「良かった……」


 声にならない声で俺はボソッと呟く。

 本気で、心から安堵した。してしまった。 

  

 こうして、命の期間が一日延びること。

 それはこの少女にとって、本望なのだろうか。

 そんな事が気になって、ふいに、俺は桐谷の寝顔を見た。


「――」


 それは本当に、可愛らしい寝顔だった。

 まつ毛はパッチリとしていて、口は小さい。

 その口はほんのちょっとだけ開いていて、やっぱりドジっ子のような顔だった。

 鼻からはすうすうと聞こえてきて、泣いたからか目は少しだけ腫れていて、ほっぺたは若干紅潮している。急に寝転がったからか前髪は少し崩れていて、目にかかっていた。

 でも、ひとつ分かったのは――それが辛そうな顔には、見えなかった。


「……いっぱい泣いたもんな。眠かったよな」


 俺はそう言って、桐谷の目にかかった前髪を優しく上にあげる。

 改めて見ても、それは可愛らしい寝顔だった。

 気持ちよさそうでもあった。


「……"普通が一番幸せ"なんて、お前からしたら都合の良すぎる言葉だよな」


 彼女の背景に何があったのか、それは詳しく分からない。

 でも、普通の人間の"普通"と、何かを抱えた人間の"普通"は、確実に違う。

 だから、彼女にとっての"普通"は俺にとっての苦痛かもしれないし、俺にとっての"普通"も彼女にとっては苦痛なのかもしれない。


「――」


 その上で、この気持ちよさそうに眠る少女を。

 何とか幸せにしてやりたいと、俺は思ってしまった。

 

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