03 素直


 中央にある大きなベッドに腰をかけ、桐谷が風呂を洗い終わるのを待っていると、ガチャと、風呂場のドアが開いた音が聞こえた。

 

「ありがとな」

「……」


 袖をまくり、濡れた手をパッパと振りながら帰ってきた桐谷に、俺は声をかける。

 何となく、家事をする姿が似合っていた気がした。


 久しぶりに、湯船に水が溜まっていく音を聞いた気がする。

 一人暮らしをしているのはいいものの、中々に自堕落な生活を送っている自覚がある。

 洗濯や掃除は、溜まってから初めて危機感を覚えるタイプなので、「着る服が無い!」なんて焦る日もたまにあった。


「ちょ、おま! 足びしょびしょじゃねーかよ!」


 ふいに、風呂場から出てくる桐谷の足元を見ると、雨が降ったかの如く、すねから足にかけてびしょびしょだった。

 白く綺麗な足だったので、尚更それが分かりやすい。

 くっきりと、小さな足跡がペタペタと付けられている。


「拭け! タオルあったよな?」

「……」

「ったく」


 そう言うと、桐谷は特に顔色を変えず、再び風呂場へと戻って行った。

 戻る時も、ペタペタと小さい足跡が付いているが、まあそれは仕方ないことか。


「ちゃんと拭いたか?」


 戻ってきた桐谷に、俺は「ん?」と、優しく微笑みかけるように、問う。

 それに対し桐谷は、「うん」と言うように、コクッと首を縦に振った。

 しかし、戻ってくる桐谷の足元を見て、直ぐにそれが嘘だと分かった。


「いや、めっちゃ足跡ついてんな! すねだけ拭いてどうするんだよ!」

「……」


 俺の言葉を聞いて、桐谷は自分の足元へと視線をやった。


「足を拭け足を! 脛で歩くのかお前は!」


 冗談混じりに、俺は笑いながら言う。


「……」


 すると、桐谷は少し悔しそうな表情になって、再び風呂場へと戻った。


 なんというか、意外とドジっ子なんだなこいつは。

 見た目は完全に"学級委員長"なのだが。

 なんとなく、愛されそうな性格だと思う。


「……」


 そんなことを考えていると、今度はちゃんと拭いてきた桐谷が、「文句ある!?」と言いたげな目線で、戻ってきた。


「歩いた所も拭け。それが最後だ!」

「……」


 俺が言うと、桐谷は「あ」と、若干目を丸くした後、また悔しそうな表情になる。

 そして風呂場に行き、小さなタオルを持ってくると、自らが付けた足跡を優しく拭き取った。


「はい、ありがとな。ドジっ子ちゃん」

「……」


 言うと、桐谷は「むすー」と俺を睨みながら、小さなタオルを乱雑に投げてきた。

 俺はそれを笑いながら顔面で受け止める。

 野球をやっていたので取ることは容易だったが、何となく、取らない方が良い気がした。


「ぶふっ……ごめんって、言い過ぎたよ」

「……別に」


 言うと、桐谷は再びベッドの角にちょこんと体育座りをして、不満そうに顔を自らの膝を支える腕へと置いた。


 風呂が溜まるのを待つ間。

 暇だった俺は、自らのバックからパソコンを取り出して、適当にネットサーフィンをすることにした。

 大きな鏡がついている右壁を向きながらパソコンをいじる俺に対し、相変わらず桐谷の位置と姿勢は変わっていない。

 鏡で確認してみると、むしろさっきよりも俯いて、顔が隠れている。


「家、どこなんだ?」


 何となく気になったし、何日も面倒を見切れる訳では無いので、聞いてみる。


「……ない」

「……ない?」 


 予想外の返答に、俺は思わず反復する。


「……帰りたくない」

「あー……そういうこと、ね」

「……」 

「……」


 視線を合わさないまま、気まずい沈黙が流れると、俺は逃げるように、『料理のコツ』という興味も無い記事へカーソルを合わせていた。

 記事を開くと、油の使い方や調味料の特徴、オススメのフライパンなどの料理関連の事が書いてあった。

 ほとんどコンビニ弁当で済ませる俺には、中々に理解し難い内容だ。

 面倒くさすぎる気がして。

 

 そんな時だった。

 後ろから、視線を感じた。

 俺は目の前にある大きな鏡を、眼球だけ動かしてチラッと見た。


「……」


 見ると、そこには俺のパソコンを覗き込むように、顔を上げている桐谷が映っていた。


「気になる?」


 気付けば俺は、振り返って、桐谷にそう問うていた。

 何を思っていたかは分からない。

 が、それぞれの時間を過ごせばいい事は、確かだった。


「……」


 聞くと、桐谷は「うん」と言うように、しかしどこか恥ずかしそうに、首を縦に振った。


「お前、意外と素直だよな。風呂も沸かしてくれたし」

「……」


 俺が言うと、桐谷は頬を赤らめながら俺を睨む。


「あはは、嘘だって。ん、嘘? いや、嘘って言っても怒られる気がするな……」

「……」

「……まあ、どっちでもいいか! 気になるならこっち来な」


 そう言って、俺はパンパンとベッドを叩き、隣に来るように合図を出す。

 

 若干渋そうな顔をした桐谷は、しかしゆっくりと長く白い足をベッドから降ろして立ち上がり、こっちへと向かってきた。

 そして、静かに俺の隣へ来ると、また、ベッドの上に乗り、ダンゴムシのように小さく縮こまって、ちょこんと体育座りをした。


「……そういう所が素直なんだよな、お前」

「……」

「いたいいたい! 分かったって! ごめん!」


 小馬鹿にするように俺が言うと、桐谷は俺の肘の皮を割と強めの力で抓ってきた。

 こういう所も、『素直』ということの裏付けになっている気がする。

 まあ、言ったらもっと痛いことをされそうなのでやめておこう。


 隣同士で座り、二人でパソコンに目を通している。

 料理の記事を一通り見終わった所で、俺は動画共有プラットフォームを開いた。

 俺は特に見たいものは無かったが、桐谷の好きな物やらジャンルやらを、何となく知ってみたくなったからだ。


「うまそ……」


 腹が減っていた俺は、気付けばまた、料理動画を開く。

 卵がパカッと開き、ウエディングドレスのようなオムライスのサムネイルに釣られてしまった。


『はいこんにちは! 料理系……』


 そう言って、動画主は自己紹介を始める。

 それから軽く材料の紹介をしたり、プチ情報などを挟むと、料理に取り掛かった。


『まずは卵を溶いていきましょうかね〜』


 当たり前のように片手だけで卵を割り、ボウルに出す。

 多分、俺がやったら殻ごと余裕でぶち込んでしまいそうだ。

 そうして、動画主は菜箸でカチカチと、卵を溶き始めた。


「……この人、上手だね」


 ふいに、桐谷がボソッと呟いた。


「……え?」


 あまりにも唐突すぎる言葉に、俺は反応に困った。

 何と言うか、他愛もない話題をあっちから振ってくるのは、これが初めてだったからだ。


「……溶き方上手い」

「う、上手い? 何が?」


 卵の溶き方なんて、万人共通だと思う。

 卵黄を崩して、それを卵白と絡めるだけ。

 それが上手い? 俺が料理をしなさすぎて知らないだけなのか? 


「……上手いよ。泡立たないように、やってるし」

「は、はあ……」

「……ふわふわになるの」

「へえ……」


 そう言う桐谷の声色は、少しだけトーンが上がっていた気がした。


「料理、好きなのか?」


 何となくそんな気がして、俺は問うてみる。


「……」


 すると、桐谷は恥ずかしそうに頷いた。


「……そうなんだな」


 その行為を横目で見て、俺は、まるで螺旋迷宮に居るかのような、複雑な感情に襲われた。

 喜びは無かった。可愛いとも思わなかった。

 女の子らしいとも思わなかった。

 ただ――


 ――ただ、『本当は死にたくないんだろうな』とは、思ってしまった。


「よく食べるの?」

「……うん」

「へえ。外食は?」

「……いかない」

「そうなんだな」


 淡々と、桐谷は体育座りのような姿勢で、俺の適当な質問に答えた。

 でも、今度は頷くだけじゃなくて、言葉もあって。


「……作るのは、好きなのか?」


 気付けば、俺はパソコンから桐谷へと視線を移して、そう言っていた。

 横顔も、やっぱり綺麗だった。

 フェイスラインもシュッとしていて、無駄な肉は無く、丁度いい肉付き。

 

 ――彼女の瞳が、どんどんと潤度が増していくことに気付いたのは、その時だった。


「――すき」


 桐谷の返答に、俺は、凄まじい鳥肌が立った。

 彼女は泣きそうな声で、そう言ったのだ。

 まばたきをすれば、簡単に溢れてきてしまう程、瞳には水分が溜まっている。

  

 ――やっぱり、彼女は「死にたくない」んだと、俺は確信してしまった。


 そんな時、ドア付近にある浴室から、ジャバジャバと水の溢れた音が聞こえてきた。

 お風呂が溜まった合図だ。


「……お風呂沸いたよ」


 その音に気付いたのか、桐谷は涙ぐんだ瞳のまま、俺の方には向かずにそう言った。


「……そうだな」


 少々複雑な感情になりながら、俺は返事をした。 

 やっと、風呂に入れる。汗ばんでいたので、臭いなんて言われたらどうしようかと思ったが、生憎とその心配は消えそうだ。

 まあ、泣いて鼻が詰まっているだけなのかもしれないが。

 とにかく、早めにお風呂に入ろう――


「先、入っていいよ」


 気付けば、俺は気持ちに反して、そう言っていた。


「……」


 桐谷は、赤くなった目を丸くしながらこちらを見てきた。


「一番風呂の方が気持ちいいと思うぞ、俺は。頭も冷えるしな」

「……」

「大丈夫だよ。のぞいたりはしな……あ、親には連絡しといた方がいい……」

「親なんかいない」


 俺の言葉を、彼女の言葉が無理やり遮った。

 やってしまった。さっきも『帰りたくない』と言ってたのに。

 もう少し、考えて質問をすれば良かった。

 

「お……っと。それはごめん。とにかく、先入ってきていいよ」

「……」


 内心で反省しつつ、出来るだけ優しく俺は言う。

 しかし、彼女はその場を動かなかった。

 そして、彼女は自分の制服の首元を控えめにちょびっと摘んだ。

 ああ、そういうことか。


「着替えがないってことね」

「……」

「じゃあ、俺先に入ってもいい?」


 言うと、彼女は首を縦に振った。


「あ、確かここ、コスプレ貸し出しOKだよ? 借りるか?」

「……やだ」

「ん、だよな」


 桐谷の即答に「そうだよな」と納得しつつ、俺は風呂に入る準備を進める。

 恥ずかしい訳でもないので、俺の着替えは備え付きの部屋着で十分だ。

 バスタオルも置いてあるので、それを使うとしよう。


「……なあ、桐谷」


 ベッドから立ち上がり、風呂に向かおうとした所で、俺は止まって桐谷の方を向く。


「……」


 体育座りで動画を見ていた桐谷は、俺の声に、小さな顔をぴょこっと上げてこちらを向いた。

 目は、また少し赤くなっていた。


「俺、一人暮らししてるんだけど」

「……」

「良かったらさ」

「……」

「今度、飯でも作りにきてくれよ」


 俺の言葉に、桐谷には赤い目を丸くする。

 買いに行くのが面倒臭いから、作るのが面倒臭いから、なんて理由では無かった。

 ただただ単純に、桐谷凛花という女の子の料理を、俺は食べてみたかった。

 だから、そうやって要求した。


「……いいよ」


 すると、桐谷は恥ずかしそうに俯いて、返事をした。

 

 やっぱり、素直だな。


「ありがとな」


 そう言って、俺は浴室へと向かう。

 パソコンは、つけっぱなしにしておいた。そうした方がいい気がしたから。レポートも提出済みだし、勝手に色々なタブを開かれても多分問題無い。

 そんなことを思いながら、俺は浴室へと歩く。

 桐谷が拭いたはずの床は、少しだけ濡れていた。

 それでも、俺は指摘する気にはなれなかった。

 

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