自殺

01 私を、殺して

駅を出ると、辺りは夜の暗闇に包まれていた。

 何となく、不気味な雰囲気が漂っている。

 ロータリーには一台も車がおらず、光源も、深夜帯まで営業している牛丼屋と、南国風に輝くラブホテルしか無い。

 そんな中、俺は必死に女子高生の後を――


「どこいったんだよ……………」


 俺が駅を出た時点で、その姿は夜の暗闇に消えていた。

 なんの手がかりも無くなって、正直絶望してしまいそうだ。

 しかし、足を止めてはいけない。

 さすがにまだ、この近くに居るはずだからだ。

 そうして、俺は再び走り出した。


「見つける……見つけるぞ……」

 

 肩を揺らし、息を切らし、汗をかき、足をつらせ、人にぶつかり、ゴミを踏んで、缶を蹴った。

 それでも、それでも走った。

 とにかく、一人にさせたくなかった。

 再び自殺を遂行する。その確信があったからだ。

 

 自動販売機の裏を探した。いない。

 ゴミ箱の裏を探した。いない。

 車の下を探した。いない。

 踏切の中を探した。いない。

 空き地の草むらの中を探した。いない。

 空き家の庭を探した。いない。


 どこにもその姿は無く、見つかる気配は1ミリたりとも無かった。

 それでも、俺は走り、諦めなかった。


 そして――大きな川に架かる橋に、来た時だった。


「はぁ……はぁ……あれは………………」


 ポツンと、歩道のド真ん中に落ちている物体を見て、俺はそう呟いた。

 うっすらと靴の形をしているのが分かった。

 俺は駆け足でその物体が落ちている場所まで行き、そしてスマホのライトでそれを照らす。


「ローファー……だよな……?」


 乱雑に脱ぎ捨てられた、右足だけのローファーだ。

 それは光沢感のある黒色で、つま先辺りには少しだけ傷がついていた。

 新鮮な使用感を感じた俺は、靴の中に自らの手を突っ込む。

 そして――


「まだ、温かい……」


 それは、放置されていた温度ではなかった。

 思い込みでも、疲れからくる幻でも無い。

 完全に生温い、人肌の温度で、靴の中は満たされていた。


「いる……この近くに……」


 その温度からも、脱いで直ぐの状態であることが分かる。

 だとすれば、女子高生はこの近くに居るはずだ。

 真っ暗な橋の歩道の上を、俺はスマホという小さな懐中電灯を照らしながら歩く。

 

 ――前方に誰かの気配を感じたのは、10歩程、足を進めた時だった。


「……」


 俺は無言になり、その気配に自らの感覚を精一杯集中させる。

 一歩、また一歩と近付くにつれて、その気配はどんどんと姿を現した。

 

 人が、そこにいる。


 髪の長い人が、そこにいる。


 ポニーテールを作り、制服を身につけている人が、そこにいる。

 

 欄干を背もたれに、屈むようにうなだれている人が、そこにいる。


 ――鼻をすすり、泣いている女子高生が、そこにはいた。 


「――間に合った」


 驚かせないよう、なるべく優しい声色を意識して声をかけ、俺は屈む女子高生の隣へと腰を下ろす。

 そして、欄干の冷たさを背に感じながら、尻をついた。


「よく堪えたな」


 ザーっと流れる川の音。

 身を乗り出せば、確実に死ぬことが出来る場所だ。

 それでも彼女は、その場に居座り、命を絶つ選択を拒否したのだ。

 駅ではあそこまで覚悟を決めていたのに、素直に驚かされる。

  

 不意に、俺は少女の足元を見た。


「やっぱり、お前のだったんだな、これ」


 左足にはしっかりとローファーを履いている。

 しかし右足にそれは無く、黒い靴下のみになっていた。

 やはり、落ちていたローファーは、この少女の物で間違いない。

 そうして俺は、持っていたローファーを、少女の目の前に優しく置いた――その時だった。


「ほら、怪我するぞ。だから履いた方がい……」


 



「――私を、殺して」





 とにかく弱々しく、今にも崩れてしまいそうな脆弱な声で、少女は俯きながら俺の言葉を遮った。


「落ち着いて。もう大丈夫だ」


 俺はその少女の前へと移動してしゃがみ、同じ目線になって優しく言葉をかける。

 だが、俺の言葉は虚しく夜の暗闇に消えた。

  

「……殺して」

「頭冷や……」

「殺して。早く殺して、お願いだから殺して、殺して殺して殺して、ねえ、殺してよ」


 すると、少女は涙混じりの声で、しかし先程とはうって変わって強くなった声色で、そう言った。

 

「……」 

「殺して、ねえ殺してってば! お願いだから殺して! 今すぐここから突き落としてよ!!! はやく私を楽にさせてよ!!!! ねえ!!!!!!」


 "い"と俺が言い切る前に、少女は顔を上げ、乱暴に俺の肩を掴みながら声を荒らげる。

 大きな瞳には涙が溜まり、鼻水はダラダラと流れていた。

 少女の言葉は後半になるに連れてどんどんと強くなり、最後には怒鳴り声のようになっていた。


 そして少女は、再び自らの膝と胸の間に顔を埋めると――


「私には、生きる理由なんて無いんだよ……」


 再び、弱々しい声で、まるで何かが崩れ落ちていくような声で、静かな声で、細い声で、頼りない声で、とにかく、とにかく弱い声で、少女は呟いた。


 空気の音と、川の流れる音と、少女の鼻をすする音だけが響く夜。


「――」

 

 きっと、少女の言う「殺して」は、本気の本気の本気だったと思う。

 だから、俺が少女の首に手をかけたり、力ずくで橋の上から突き落とそうとしたり、車が来たタイミングで道路に突き出したりしても、彼女はきっと無抵抗だったはず。


 勿論、それでも俺は殺すつもりなどないし、そもそも犯罪者になんてなりたくない。

 むしろ、死なせたくないからこそ、必死に探して、血眼になって走って、びしょ濡れになる程汗をかいて、ここに来た。

 

 だから、俺が今やるべき事。

 それは、今日だけでも、この少女を一人にはしない事。ただそれだけだった。


「――」


 気付けば俺は、少女の「殺して」という願いを無視して、腕を無理矢理取っていた。

 そしてそのまま少女を強引に連れて、来た道を再び歩いていた。

 やはり、少女は無抵抗で、俺にされるがままだ。


「……え……?」


 呆気に取られたような涙声が、後ろから聞こえてくる。

 顔は見えないが、驚いていることだろう。

 当たり前と言えば当たり前だ。

 言う通りに殺してくれる訳でも無ければ、急に知らない人に助けられて、急に腕を掴まれて、急に共に歩かされているのだから。


「……ちょ……っと……」

「――」


 沢山走って汗をかいたし、風呂に入りたい。

   

「……聞いてる……の……どこ行くつもり……」

「――」


 一息つける場所で、ちゃんと休憩したい。

 

「待って……よ……」

「――」


 とにかく大きいベッドで、派手に寝転がりたい。


「殺し……て……ってば……」

「――」


 テレビもあって、クッションもあって、出来れば冷蔵庫もある所がいいな。


 この少女を一人にさせない、かつ俺の欲求を完全に満たしてくれる場所。

 マンションだ。俺の、一人暮らししているマンション。

 今日は金曜日で、明日は大学の講義も無い。

 存分に寝て、寝まくりたい。

 ああ、自宅に帰りたい。自宅に帰り……自宅……?


 少女の言葉を無視し続け、そこまで思考を巡らせた所で、俺はある一つの恐ろしい事実を思い出した。


「終電、逃してんじゃねえか……」


 やってしまった。

 思えば、俺は終電に間に合わせるために、図書館からダッシュで駅に向かったんだっけ。

 そこで自殺を図ろうとしてる少女を見つけ、逃げられたから追ったんだ。

 ……間に合わなくて当たり前だ。


「――ねえ!! どこ行くつもりなの!!」


 すると、絶望している俺の耳元へ、少女の怒鳴り声が響く。

 少女は、無視し続ける俺へ怒った。でも、これで良かった。

 

「あー悪い悪い、何も決めてない」


 歩きながら、俺は適当に返事をする。


「……じゃあ何で、私の腕を取ってるの」


 すっかりマシになったが、まだまだ鼻にかかっている涙声で、少女は言った。


「……何でもだよ」


「死なせたくない」なんて当たり前の理由を、俺は小っ恥ずかしくて言えなかった。

 まあ、下手にカッコつけて"痛い"なんて思われるよりも、こっちの方がいいだろう。

 そんなことを考えていると、曲がり角を曲がった所で、視界の片隅に牛丼屋が見えた。


「もうこんなところか」


 それから少し歩くと、真っ暗なロータリーと、見慣れた駅の入口が見えてくる。


 さて、どうしようか。

 最悪、一駅分くらいなら気合いで歩いて帰れるのだが、色々と走りまくった今、生憎とその気合いはどこにも無い。

 だが、風呂には入りたいし、大きなベッドで寝たい。風呂上がりに、冷え冷えのコーラを飲みたい。

 最悪、部屋は広くなくていいとしよう。

 その他の条件を満たせる場所は――


「――」


 俺は駅周辺を見渡し、完璧な"それ"を見つけた所で、少女の方へと振り返った。


「そういえば、どこ行くか知りたそうだったな、さっき」

「……うん」


 唐突に俺に声をかけられた少女は、目を充血させながら、普通の声で返事をした。

 その返事を聞き、俺はゆっくりと、空いた方の手で"それ"を指差す。

 そして、言った。


「――あそこの"ラブホテル"に行く。ちなみに、俺が何をしようと、文句は言わせないからな」


 言うと、少女の可愛らしい大きな瞳は、更に丸くなった。

 泣いて充血しているから、尚更それが分かりやすかった。

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