第2話 傷1つない美少女お嬢様が、まさかの状態に

 スタートラインに立つ、2人の美少女。

 しかしその愛らしい後ろ姿とは裏腹に、2人の間には強い言葉が交わされていた。


「……くれぐれも私の足を引っ張らないことね、黒垣さん」


「……っ!貴女こそ、私のペースについて来られるのかしら、金郷さん?」


 味方だというのに、2人はまるで敵に対するような言葉を投げかけ合っていた。


 そう、2人の仲はあまり良くない。

 その理由はよく分からないが……普段は大人っぽく落ち着いている黒垣さんが、何故か金郷さんに対しては冷静でなく、少し口調のキツい金郷さんの挑発に、簡単に乗ってしまうことが原因と思われる。


 まるで互いのことを憎みあっているような2人の態度はいつも通りで、それゆえに2人のファン同士も普段から敵対しているわけだが……それはまた別の話。

 とにかく2人が厳しい言葉を投げかけ合うのはいつものことで、だけど本当は2人とも、互いのことを―――


 いや、やめよう。これ以上、僕だけが気づいているみたいな優越感に浸るのは。


 とにかく僕は並々ならぬレベルで金郷さんのことを推しているから分かることだが、今日の展開は少し珍しい。

 スタイル抜群で高身長な黒垣さんに対し、小柄な金郷さんは少し思うところがあったのか、返された挑発に言葉が詰まる。

 彼女の方が言い負かされるというのは、珍しいものを見たと思うが、もしそれほどまでに金郷さんが緊張と不安を抱いているのだとすれば……見ているこっちも思わず拳をぎゅっと握ってしまう。


(頑張れ、金郷さん)


 僕は心の中で、届くことのない思いをそっと呟いた。




♢♢♢




「バン!」


 ―――ピストルの合図とともに、一斉に走者が走り出した。

 皆気合十分で、3組の走者は横一線に並んで走っていく。


「……いちに、いちに……」


 そしてその中でも、まるで鈴を鳴らすかのような綺麗な声を懸命に張り上げつつ、駆けていく1組の少女たちは、大観衆の注目を集めていた。


 美しすぎるその容姿は、遠目から見ても際立っており、人々の関心を集めるのだろう。

 だから僕は敢えて、彼女たちの内面に着目してみる。


 金郷さんはポーカーフェイスで、表情を崩さずに走っている。

 ―――そう見えるが、よく見れば彼女は左目を少しだけ瞑るような仕草を見せた。


 僕には、それが彼女の『苦しい』合図であることが分かってしまう。


 10センチメートルほどある黒垣さんとの身長差は、多少なりとも走りにくさを生んでおり、ストライドの差は金郷さんの方が無理をして埋めなければならない。

 しかし、妥協してペースを落とすなんて発想は微塵もない。そんな金郷さんの負けん気の強さが、彼女自身の首を絞める格好となっており、時間が経てば経つほど、次第に苦しくなっていく。


 股が避けてしまいそうなほどに広いストライドで走ろうとすれば、どこかで限界がくるのは当然だ。

 周りの観衆たちは気づいていないだろうが……僕はその限界が、足音を立てて彼女に忍び寄ってきているのをはっきりと感じてしまう。


(……ああっ……)


 目を背けたい。

 だけど、見ていたい。


 そんな相反する感情を抱きながら、でもただの保健委員でモブに過ぎない僕にできることは、そんな彼女に迫る悲劇をただただ待ち受けることだけだった。


 そして、金郷さんが黒垣さんと結んでいない方の足、つまりは左の膝が、次の一歩を踏み出そうとしたときにガクッと沈み込んだのを、僕は見逃さなかった。


「……きゃっ」


 直後、金郷さんが小さな悲鳴を上げる。


 そして、それと同時に青空を大きく舞う、砂煙。

 僕は唇を噛みしめ、じっと白い煙が舞う様子を見つめていた。


 観客たちのため息は、やがて不安そうな声へと変わっていく。

 視界が開いた先に映し出されたのは、2人の美少女がうつ伏せになって倒れている姿だった。


「……あああ……」


 心の中で抑えていた感情が、とうとう声になって出てしまう。

 僕は、金郷さんが味わったであろう痛みと、を想像すると、胸がぎゅっと締め付けられるかのような痛みを覚えた。


 僕は慌てて、仕事をするべく彼女たちの元に歩み寄る。

 そして、そのせいで僕は、ほとんどの観客たちが気づかなかったであろう彼女たちの言葉を耳にしてしまう。


「……っ、貴女のせいよ、金郷さん。こんな……うっ」


「……うるさいっ、私だって、貴女に負けたくなくて……」


「……なら、これで終わり?」


「なわけないでしょっ!ほら、立つわよっ……くっ」


 彼女たちは地に伏せたまま、煽り合っていた。

 そんな姿が不器用で、僕の目にはどうしようもなく可愛く映る。


 きっと彼女たちがこの転倒で味わった痛みは、想像を絶するほどで。

 それなのに、弱音の1つも吐かずに、赤組のためにもう一度、立ち上がろうとしていたのだ。


 僕は、彼女たちに手を差し伸べるのを止めた。

 そんなこと、できるはずがなかった。


 彼女たちにはまだ戦う気持ちが残っていた。

 だから、そんな彼女たちの思いに水を差すわけにはいかなかったのだ。


「うっ……」


 痛みを堪えながら、両脚を震わせつつ立ち上がる、金郷さん。


 そして僕は―――覚悟はしていたが、いよいよ明らかになってしまった事実に、深い絶望と悲しみを覚えた。


 金郷さんのあの美しかった脚は……見るも無残な姿になっていた。

 両膝は真っ赤な液体で染まっており、特に酷い左膝からは1滴、つーっと流れて白い脛を汚していった。

 太股の前側についた砂は洗うと取れるだろうが、あれは―――


「……あ、ああっ……」


 声にはならない叫びが、思わず声になって漏れてしまった。


 勿体ない。

 ああ、勿体ない。


 この二人三脚だって、学校行事だって、もちろん大切だ。

 でも、それ以上に、日々の努力が見て取れる金郷さんの美しい脚に、僕は価値を見出していた。

 それが、こんなたかが学校行事のせいで、美しさを損なうことになってしまうなんて。

 僕は今、彼女の脛を流れ落ちる血の1滴にすら美しさを感じていたが、あのまま傷痕が彼女の膝に、将来的に刻み込まれてしまうかもしれないと思うと、居ても立っても居られない気持ちになった。


 しかし、金郷さんは同じく膝を汚した黒垣さんとともに立ち上がると、また肩を組み……


「いちに、いちに……」


 再び走り出した。


 そんな彼女たちの諦めない姿に、場内からは拍手が湧き上がる。


 だけど、僕はそんな拍手を、なんて無責任なんだろうと思った。

 期待が高まるほど、そして諦めない姿勢を評価するほど、それらは彼女たちの首をぎゅっと絞めていくということが、どうして分からないのだろう。


 白組と青組の追いつけない背中を追おうと無理をすればするほど、金郷さんの真っ赤な膝には負担がかかっていくというのに。


 だから、僕は気づいてしまう。

 これから起こる更なる悲劇に。


「……ああっ、うっ……」


 そして金郷さんは、言葉にならないような声を呟く。

 同時に、じゅくじゅくとした傷口が、再度勢いよくグラウンドに叩きつけられる。

 金郷さんの身体はもう限界で、そして黒垣さんもそれは同じで、どちらからともなくバランスを崩し、勢いをそのままにして2人の華奢な身体は、雪上を滑るのようにトラックを流れていった。


 分かりきっていた悲劇を止められなかった自分の無力さを、僕は嘆いた。

 そして、痛みで歪んだ金郷さんの表情に、少しだけ興奮した。


「うっ……まだっ……」


 それからは、立ち上がろうとする気持ちはあるものの、2人の足を結ぶ紐が邪魔をして、なかなか上手くいかない。

 呼吸が合わず、何とかしてどちらか一方だけが立ち上がっても、すぐにバランスを崩し、再び倒れてしまう。

 その度に、膝に開いた傷口は大きさを増していく。

 やがて2人の身体は転倒を繰り返して複雑に絡まり合い、互いの重みで互いを傷つけるような格好となっていた。

 周回遅れとなり、横を走る先輩ランナーが心配そうな顔をして走り去っていく。

 ―――だがそれは、プライドの高い彼女たちにとって、一番の屈辱だっただろう。


 そのせいでさらに無理をしようとして、くんずほぐれつな状態になっている2人の元へ……とうとう我慢できずに、僕は駆け寄った。


「……手当ての準備を!」

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