第3話 治療の時間―――金郷編

 僕は金郷さんの華奢な身体をおぶって、保健室まで運んだ。

 ほんのりと、女の子らしい甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 そして時々背中に当たる小さな柔らかい感触につい、役得だと思ってしまう自分が情けない。

 僕はそんな自分を悟られないように、無表情で無心を貫いた。


 小さい頃から将来の恋愛の自由を失い、貧乏な生活を送ってきた僕にとって、我慢は唯一といってもいい得意分野だ。

 だから僕は―――彼女が流す悔し涙で、僕の背中が濡れていくことにも、気づかないフリをした。




♢♢♢




 保健室に着くと、怪我の連絡を貰った田辺たなべ先生が、急いで手当ての準備をしていた。

 用意が整うのを待っている間に、僕は金郷さんを椅子に座らせると、水道の蛇口をひねる。

 その様子に気がついた金郷さんは、唇をかみしめたまま、一瞬びくっと背中を震わせた。

 そして、呟く。


「青野、さん……」


 ―――それは、僕の名前だ。

 初めて彼女の声で呼ばれた僕の名前に、思わずどきりと心臓が高鳴る。


 泣き腫らしたからか、彼女の顔は真っ赤に染まっていた。

 それが何とも艶めかしい。


 椅子に座ったせいで、上目遣いで僕のことを見てくる金郷さん。

 潤んだ瞳は、真っすぐに僕のことを捉えていた。


「青野さんに、こんなふうに……私、もう……」




 ―――おかしくなりそう。




 幻聴でなければ、確かに金郷さんは、そう呟いた。

 その言葉の意味に、僕は困惑する。


 「―――流すよ」


 僕は敢えて平常を装い、彼女のおみ足に優しく触れる。

 内心では僕はかなりおかしくなっているが、それを彼女に悟られるわけにはいかない。

 まさかこんな形で金郷さんと初めて会話し、更に脚まで触ってしまうことになるとは思いもしなかったが、僕は金郷さんの右膝を水流に当てて……




「……んんっ、あああああんんんっっっ!!!」




 ―――一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 あまりの声量にびっくりしてしまったが、見ると金郷さんは華奢な身体を弓なりに反らせて、天を見上げながら苦悶の表情を浮かべていた。


 どうやらそうとう傷口に染みたらしい。

 これは悪いことをしてしまった。


 だが、傷口に砂が入ったままではいけない。

 僕は再度、彼女の右脚に触れる。

 すると金郷さんは再び顔を赤らめた。


 僕が彼女に触れるたびに、金郷さんの肩はびくっと震える。

 そんなに怖がらなくてもいいのに。

 僕は水流を金郷さんの膝に当てる。


「きゃあああああっ、あんっ、あああああっ!!!」


 再び叫び声がこだまする。


「青野さん、青野さんっ、ああああああああああ!!!」


 背中でツーサイドアップの金髪が乱れては、何度も跳ねる。

 小さな身体を弓なりに反らせるたびに、体操服越しに小さな胸のふくらみがくっきりと浮かび上がる。

 僕は思わず、唾を飲み込んだ。


 駄目だ。これは、手当てなんだ。

 だからこんな感情は―――


 しかし、金郷さんは僕の名前を何度も声に出す。

 今まで言葉を交わしたことすらなかった、彼女。

 教室で彼女のことを見つめたとき、妙に視線が合うことが多いと思っていたが……


 ―――いや、そんなこと、あるはずがない。

 よりにもよって、この僕のことを、金郷さんが―――あり得ない。


「……青野さん、こんな弱い私を、嫌いにならないで……」


 だから僕の耳には、傷口を洗い流し終えた際に呟いた彼女の言葉が届くことはなかった。




♢♢♢




「金郷さんも乙女ねー!」


 保健室の先生である田辺先生は、明るくて気さくな美人として有名だ。

 そんな先生なりの言葉がけなのだろうが、僕にはその意味がよく理解できなかった。

 ただ、金郷さんには効果覿面だったようで、顔を真っ赤に染めている。


 正直、照れた金郷さんは滅茶苦茶可愛い。

 椅子を片付けたりしていたせいで会話を最初からは聞いていない為、いきさつは不明だが、この表情を拝ませてくれた先生には感謝せねば。


「好きな男子の前では格好つけたいものよね。……でも、時には甘えることも大事よ?」


 時々大人ぶりたいのか、意味深なことを言うのも田辺先生の特徴だ。

 しかし、金郷さんにも好きな人、か……


 格好つけようとしてしまい、そのせいで今、金郷さんの身体がこんな痛ましい姿になってしまったのだとしたら、確かにそれは不幸な話だ。

 しかしそんな相手が金郷さんにもいると思うと……ぎゅっと胸が痛む。


 ……ああ、駄目だ。僕はこの感情を諦めなければいけないのに。


「振り向いてもらうためにも、ちゃんと綺麗に治そう。ね?」


 優しく問いかける田辺先生の目には、金郷さんの身体を労わる気持ちと……そして僅かな絶望が滲んでいた。


 そして、金郷さんの応急手当てが終わりそうになった頃―――


 もう1人のお嬢様が、脚を引きずりながら保健室へと向かってきた。

 その姿は、美しいお嬢様とは程遠く……


 黒垣さんは、今にも倒れてしまいそうなほどに弱っていた。


 僕は慌てて、彼女の元へと駆け寄った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る